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第2話 星の海の女神

 どれほどの時が流れたのか、アカリにはわからなかった。


 白い光は、痛みも、音も、雨も、なにもかもを溶かしてしまっていた。ただ、意識だけが、水面に浮かぶ木の葉のように、ゆっくりと漂っている。


 ——ここは、どこだろう。


 そう思ったとき、白が、ほどけた。


 まぶたを開けると、そこには夜があった。いや、夜と呼ぶには、あまりに美しすぎた。


 足の下にも、頭の上にも、右にも左にも、無数の星がまたたいている。深い藍と菫のあわいに、砕いた宝石をばら撒いたような光の粒。灯は、その真ん中に立っていた。立っている、という感覚さえ、たしかではなかった。上も下もない、星の海の底に、ただ浮かんでいる。


 息を、吸う。冷たくもなく、温かくもない、澄んだなにかが、胸を満たした。


 ——わたしは、死んだはずだ。


 雨の交差点。迫るヘッドライト。子どもの、小さな背中。記憶は、ちゃんとそこにあった。だからこそ、灯は戸惑った。死んだ人間が、どうして息を吸っているのだろう。


 そのとき、星のひとつが、ふいに大きくなった。


 いや、近づいてきたのだ。遠くの光が、少しずつ、かたちを取っていく。ほっそりとした人の輪郭。そして、その背に広がる——翼。


 鈍色の、大きな翼だった。


 金でも銀でもない。長い雨に打たれつづけた鉄のような、しずかな色。羽の一枚一枚が、星明かりを吸っては、力なく返している。


 翼の主は、女性だった。


 伏せがちの睫毛。血の気の薄い、けれど整いすぎた顔立ち。彼女は、灯の前まで来ると、そっと胸に手を当て、深く頭を下げた。


「——よくぞ、来てくださいました」


 声は、鈴を伏せたように澄んでいて、どこか、疲れていた。


「わたくしは、ヴァルディス。この世界に残された、最後の神です」


 最後の、という言葉が、星の海に落ちて、静かに沈んでいく。


「神、って……」


 灯の声は、自分でも驚くほど、かすれていた。


「あなたは……天使、とか、そういう」


 ヴァルディスは、ほんの少しだけ、目もとをやわらげた。


「あなたの世界の言葉に、近いものがあるのですね。わたくしは、逝く者を看取る役目の神です。長いあいだ、たくさんの魂を、見送ってきました」


 彼女の指先が、ふと、灯の胸のあたりを指した。


「けれど、あなたは違いました。前を向いたまま、迷いなく、燃え尽きた魂。——雨のなかで、小さな命を庇って」


 灯は、思わず目を伏せた。ほめられているのか、悼まれているのか、わからなかった。ただ、あの一瞬を見られていた、ということが、妙に恥ずかしかった。


「その魂を、どうしても、お借りしたかったのです」


 ヴァルディスが、翼を広げると、星の海の一点に、映像のようなものが浮かびあがった。


 浮かぶ大陸。緑の島々。けれどその空からは、絶え間なく、細い銀の糸が降りそそいでいる。糸は地に触れるたび、草を枯らし、石を蝕み、鉄錆の色に染めていく。


「あれが、神鉄の雨」


 ヴァルディスは、痛みをこらえるように言った。


「神々が去って、千年。空からは、あの雨が降りやみません。触れたものを錆びさせ、朽ちさせ、世界を少しずつ、蝕んでいく。人々は雨の届かぬ影に隠れ、小さな里で、息をひそめて生きています」


「千年……」


 灯は、その途方もない長さを、うまく飲みこめなかった。千年のあいだ、ずっと、雨が降りつづけている世界。


「わたくしは、ひとつの里を、この身の加護で雨から隠しています。けれど、それだけ。もう、雨そのものを止める力は、わたくしには残っていないのです」


 女神は、まっすぐに灯を見た。


「どうか——わたくしの世界の、雨を止めてほしいのです」


 星の海が、しんと静まりかえった。


 灯は、言葉に詰まった。


 雨を止める。神さまにもできないことを。ただ会社に通い、数字を打ちこんでいただけの、平凡な自分に。


「……わたしなんかに、できるわけ」


 言いかけて、灯は口をつぐんだ。


 ヴァルディスの翼が、また一枚、羽を落とした。彼女は、それでも待っていた。急かさず、責めず、ただ、灯の返事を。


 ——避けきれば、死なない。触れれば、終わる。


 なぜか、あのゲームセンターの記憶が、胸の底で小さく光った。単純で、残酷なルール。あの光の雨の隙間を、灯の指先は、いつだって見つけてきた。


 降りやまない、雨。


 もしも、あの雨なら。


「……ひとつ、聞いてもいい?」


 灯は、顔を上げた。


「わたしは、どうやって、その世界に行くの。わたし、もう、身体が……」


 ヴァルディスの表情に、はじめて、ためらいの影がよぎった。


「——お見せするのが、早いでしょう」


 女神が手をかざすと、星の海の底から、ひとつの影が、ゆっくりと浮かびあがってきた。


 それは、眠る人のかたちをしていた。


 若い女性だった。長い髪を星明かりに漂わせ、両手を胸の前で組み、瞳を閉じている。まるで、水底に横たえられた、うつくしい人形のように。その背には、ヴァルディスと同じ——けれど、色を失った翼が、力なく畳まれていた。


「この者は、千年前、雨を止めようとして散った戦乙女のひとり。〈空裂きの矢〉と呼ばれた、弓の名手です」


 ヴァルディスの声が、慈しみと、哀しみに、揺れた。


「身体は、女神の加護で、かろうじて朽ちずにあります。けれど、魂はとうに尽きて、真の名すら、雨に奪われてしまいました。——空の器なのです」


 灯は、その眠る顔を見つめた。


 どこか、寂しげだった。役目を果たせぬまま、名前さえ失って、千年、この星の海に横たわっていた人。


「あなたの魂を、この器に宿していただきたいのです」


 ヴァルディスが、静かに告げた。


「避ける腕は、あなたのもの。戦う技は、この器に眠る残響が、きっと思い出させてくれます。——ふたつが噛みあえば、あるいは」


 灯は、しばらく、その眠る戦乙女を見ていた。


 やがて、そっと、問いかけた。


「この人には……名前が、ないの?」


「雨が、奪いました。もう、誰も知りません」


 灯は、ゆっくりと、うなずいた。


 なら——と、思った。


 空っぽの器に、迷わず飛びこむのは、少し、こわい。けれど、名前もなく、ひとりで千年も眠っていたこの人を、このままにしておくのも、寂しすぎる気がした。


「じゃあ、わたしの名前を、あげる」


 灯は、微笑んだ。生前、鏡の前でも、あまり見せなかった顔だった。


「藤宮灯。——アカリ、って、呼んで」


 その瞬間、眠る戦乙女の胸のあたりに、ぽつりと、灯がともった。


 小さな、けれど、たしかな光。それは、みるみるうちに大きくなり、器のかたちを、やわらかく縁取っていく。


「アカリ」


 ヴァルディスが、その名を、はじめて口にした。


「あなたに、わたくしの世界を、託します。——どうか、朝を」


 女神の翼が、ひときわ大きく広がった。


 星の海のすべての光が、いっせいに、灯へ——アカリへと、流れこんでくる。あたたかく、まぶしく、そして、どこか懐かしい光だった。まるで、母の腕に抱かれているような。


 視界が、白く満ちていく。


 二度目の、光。


 けれど今度は、痛みも、後悔もなかった。


 アカリは、その光に、身を委ねた。意識が、ゆっくりと、深いところへ落ちていく。星の海の底の、そのまた底へ。眠る器の、いちばん奥へ。


 ——落ちていく。


 どこか遠くで、雨の音が聞こえた気がした。


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