第1話 雨の交差点
その日、東京には冷たい雨が降っていた。
藤宮灯は、傘の柄を肩に預けたまま、横断歩道の信号が変わるのを待っていた。二十八歳。会社を出たのは、もう九時を回っていた。鞄のなかで、明日また使うだけの資料が濡れないように、それだけを気にしていた。
残業続きの一週間だった。誰かに深く感謝されるでも、強く責められるでもない、ただ淡々と流れていく仕事。可もなく、不可もなく。上司からの評価も、その程度のものだった。
人生に、大きな不満があるわけではなかった。ただ、大きな喜びも、なかった。毎朝同じ電車に乗り、同じ席で数字を打ち込み、同じ道を帰る。気づけば、自分が何のために生きているのか、うまく言葉にできなくなっていた。
休日も、これといって予定はなかった。ひとり暮らしの部屋で、カーテンを引いたまま眠り、気づけば日が暮れている。そんな週末を、もう何年も繰り返していた。誰かにさびしいと打ち明けるほどの気持ちさえ、いつのまにか、すり減ってしまっていた。
雨の音を聞きながら、灯はふと、遠い記憶を思い出す。
——高校生の頃。
駅裏の、薄暗いゲームセンターの一角。灯はそこで、弾幕シューティングという遊びに出会った。画面いっぱいに撒かれる、色とりどりの光の雨。避けきれば、死なない。触れれば、終わる。ただそれだけの、単純で、残酷な遊び。
クラスでは目立たない子だった。人と話すのが得意でもなかった。休み時間は、いつも窓の外を眺めているような子ども。けれど、あの筐体の前に座っているときだけは、違った。
降りそそぐ光の雨の、髪の毛一本ほどの隙間を、灯の指先は勝手に見つけていく。息を詰め、機体をゆっくりと滑らせ、致命の一点を、紙一重ですり抜ける。何百発、何千発の弾が、自分ひとりを狙って降ってくる。そのすべてに一度も触れず、抜けきったとき——胸のなかに、小さな灯がともるような気がした。
全国ランキングに、名前が載ったこともある。三文字だけの、素っ気ないプレイヤーネームで。誰にも言わなかったけれど、あれは灯の、ささやかな誇りだった。
あのときだけは、確かに——生きている気がした。避けているあいだだけ、自分の心臓の音が、はっきりと聞こえた。
いつからだろう。あの感覚を、忘れてしまったのは。
大学に入り、就職して、日々に追われるうちに、ゲームセンターからは足が遠のいた。指先が覚えていたはずの動きも、今ではもう思い出せない。大人になるというのは、たぶん、そういうことなのだと思っていた。胸のなかの小さな灯が、少しずつ、消えていくこと。
信号が、青に変わった。
灯は歩き出す。傘を打つ雨。滲むヘッドライト。濡れたアスファルトに、信号の赤と青が溶けて流れている。まるで、あの頃の画面みたいだ、と灯は少しだけ笑った。
——そのときだった。
視界の端を、小さな影がよぎった。
傘もささず、赤いランドセルを揺らして、幼い子どもが車道へ飛び出していく。反対側の歩道に、母親らしき人影。追いかけようとして、間に合わない。
右手から、ヘッドライトが迫っていた。雨に急ブレーキの利かない、鈍い光。運転手はまだ、子どもに気づいていない。
考える時間は、なかった。
いや——考えなかった、と言うべきかもしれない。
灯の身体は、頭よりも先に動いていた。傘が手を離れ、雨のなかへ跳ねる。地面を蹴る。二歩、三歩。かつて、光の雨の隙間へ機体を滑り込ませたのと、同じ速さで。今度は指先ではなく、全身で。
小さな背中に、手が届いた。
力いっぱい、歩道のほうへ突き飛ばす。子どもの身体が、ぬいぐるみみたいに宙を舞って、母親の腕のなかへ落ちていく。——よかった。届いた。
安堵が、胸のなかで小さくともった、その刹那。
灯は、避けなかった。
いや、避けられる位置に、もう自分はいなかった。子どもを突き飛ばした反動で、灯の身体は車道のまんなかに残されていた。避けきれば、死なない。触れれば、終わる。——単純で、残酷なルール。
迫るヘッドライトの光を、灯はまっすぐに見た。
不思議と、怖くはなかった。
最後に頭をよぎったのは、後悔でも、走馬灯でもなかった。ただ、あの薄暗いゲームセンターの、光の雨の記憶。息を詰めて、隙間を探した、あの指先の感覚。
——ああ、そうか。わたしは、こういうことが、したかったのかもしれない。
誰かのために、まっすぐ前を向いて、動くこと。
消えかけていた胸の灯が、最後にもう一度、はっきりとともった気がした。
誰かのために、まっすぐ前を向いて動けたのなら。このあっけない一生も、そう悪くはなかったのかもしれない。
衝撃は、痛みとして届く前に、白い光になった。
雨の音が、遠ざかる。滲んだ赤と青が、いっそう広がって、視界のすべてを塗りつぶしていく。
目は、最後まで前を向いていた。
意識が、白に溶けていく。
——ずいぶん、あっけないな。
そう思ったのを最後に、藤宮灯の二十八年は、静かに幕を下ろした。
冷たい雨の、降る夜だった。




