第19話 姉を迎えに
写し身が、かたちを崩した。
もう、アカリを映すのをやめていた。鏡でいることを捨てた写し身は、翼を大きく広げ、全身から白い光を噴きあげて、別のなにかへと変わっていく。人のかたちが、ほどけていく。あとに残ったのは、玉座を包む、巨大な光の繭だった。
その繭が、ひらいた。
瞬間、世界のすべてが、白い弾に変わった。
降ってくる、などというものではなかった。上も下も、前も後ろも、白い光の弾が、隙間なく満ちていく。これまで越えてきた、どんな雨より、濃い。喰らってはならない一点だけを残して、視界のすべてが、死で埋め尽くされていく。
これを越えなければ、あの人のところへは行けない。そう、身体が、知っていた。
アカリは、息を詰めた。
そして、笑いそうになった。こわいのに、どこかで、震えるほどうれしかった。——ああ、これだ。この、髪一本の隙間を探す感覚。生前、薄暗い筐体の前で、幾度も焦がれた、あの一瞬。避けている間だけ、自分の心臓の音が、はっきりと聞こえる。
喰らい判定は、足元の、小さな一点。
アカリは、身体をひとつの点にして、光の網目を縫いはじめた。低く、低く。弾と弾の、指ひと差しの隙へ、身を投げる。生前の腕が、道を見つける。器の脚が、その道を、駆け抜ける。
避ける腕と、育てる強さ。
里で覚えた、そのふたつが、いま、ひとつになっていた。ケトルの鍛えた弓。グンヒルドの「もう一本」の声。試練の間で掴んだ、器の奥の力。ヘルガの飯で温めた、この身体。そのぜんぶが、たったいまの、細い一本の道を、照らしている。
ひとりではなかった。
里の誰も、この白い神域までは、来られない。それでも、アカリの身体には、里で過ごした日々のぜんぶが、しみ込んでいた。避ける腕は、生前のわたしのもの。育てた強さは、里のみんなのもの。そのふたつを翼にして、いま、たったひとりで翔んでいる。ひとりきりのはずなのに、少しも、ひとりではなかった。
濃くなる弾幕の、いちばん奥へ。アカリは、まっすぐに翔んだ。
光の繭の、中心。
そこに、それは、あった。
白い鎖に幾重にも縛られ、翼を封じられ、うずくまる、ひとつの影。かつて最初の戦乙女と呼ばれた人。世界を守るために、みずから機構の核となり、千年、雨を降らせつづけてきた人。妹たちが、目の前で散っていくのを、止めることもできずに、見ていた人。
その姿は、思っていたよりも、ずっと小さく見えた。世界を千年ささえてきた核とは、とても思えないほど。ただ、疲れきって、うずくまっているだけの、ひとりの人だった。
ダグルーン。
アカリが近づくと、鎖が、狂ったように弾を撒いた。近寄らせまいとするように。あるいは、守ろうとするように。——きっと、この千年、そうやって、来る者すべてを拒んできたのだ。取り戻しにきた、妹たちのことさえも。
アカリは、弓を、下ろした。
射るためではなかった。ここまで来て、射たない。撒かれる弾の、ただ一点の隙間を、最後まで避けきって、アカリは、影のすぐ前に、立った。
言葉は、いらなかった。
器の奥から、千年前の妹の想いが、静かに満ちてくるのが分かった。姉さん。迎えにきたよ。遅くなって、ごめんなさい。——それは、アカリの声でもあり、この身体の、元の主の声でもあった。ふたつの魂が、ひとつの想いになって、影へと届いていく。
あなたは、もう、じゅうぶん守った。
もう、その務めを、下ろしていい。
千年、あなたは、たったひとりで、この重たいものを背負ってきた。誰にも、ありがとうと言われないまま。助けにきた妹にさえ、手を伸ばせないまま。——もう、いいの。あとのことは、わたしたちが引き受ける。
影が、かすかに、動いた気がした。千年、はりつめていた鎖が、ほんの少しだけ、たわむ。
アカリは、弦に、一本だけ矢を番えた。
それは、討つための矢ではなかった。この人を縛る千年の鎖を——その務めから、解き放つための、たったひとつの一射。
息を、吸う。ゆっくりと、弦を引き絞る。器の奥のすべてと、生前のすべてが、その一点に集まってくる。狙うのは、影ではない。影を縛る、白い鎖の、結び目。
——空を、裂け。
白い一条が、放たれた。
それは、これまでのどんな一矢よりも、静かな矢だった。誰かを貫くための鋭さは、そこにはなかった。ただ、まっすぐに、結び目だけを目指して、白い光が伸びていく。空裂きの矢の、名のとおりに。けれど、裂くのは空ではなく、この人を千年しばりつけてきた、務めのほうだった。
鎖が、澄んだ音を立てて、断ち切れた。
その瞬間、玉座を包んでいた写し身が、内側から、静かに砕けた。
鏡が割れるように。氷が解けるように。世界を終わらせかけた災厄の、最後の殻が、白い破片になって、音もなく崩れていく。撒かれていた無数の弾も、行き場を失って、ひとつ、またひとつと、光の粉になって消えていった。
静けさが、戻ってくる。
砕けた殻の、その奥。
千年、雨を降らせつづけてきた核の、中心から——ちいさな光が、ひとつ、ゆっくりと、立ちのぼった。
迷子の子が、ようやく手を引かれて歩きだすような。ためらいがちで、けれど、まっすぐな光だった。
アカリは、弓を下ろしたまま、その光を、静かに見あげていた。




