第18話 鏡の中のわたし
鏡が、揺らいで、また凪いだ。
アカリは、写し身と向き合ったまま、動けずにいた。
先に動いたほうが、負ける。そんな予感があった。相手は、こちらを映す鏡だ。射れば、同じ矢が返る。避ければ、同じように避けられる。勝ちを手繰ろうとした動きが、そっくりそのまま、こちらへ跳ね返ってくる。
試しに、矢を放った。
白い一条が、写し身へ翔ぶ。同じ刹那、写し身の弓からも、寸分たがわぬ白い一条が、こちらへ翔んだ。二本の矢は中間で噛み合い、光の粉になって消える。
息を詰め、右へ滑る。鏡のなかのもうひとりも、左右だけを違えて、同じ隙間へ身を沈めた。速さも、角度も、指先の迷いまで、そっくりだった。
——これじゃ、きりがない。
写し身が、翼を払った。
白い弾の帯が、扇のように広がって、アカリへ降ってくる。避ける。同じ数の帯が、アカリの動きをなぞって、写し身へも降りそそぐ。写し身も、避ける。二人はまるで、一枚の紙の表と裏のように、寸分の狂いもなく、同じ雨の隙間を、同じ呼吸で潜り抜けた。
どれだけ射ても、どれだけ避けても、勝負はつかない。写し身は疲れず、まちがえない。こちらの手を、すべて知っている。
アカリの背に、冷たいものが伝った。
これは、自分自身と戦っているのだ。自分より、けっしてまちがえない自分と。
勝てるはずがない、と思った。
どんなに矢を磨いても、向こうは同じだけ磨いてくる。どんなに速く避けても、向こうは同じだけ速い。自分の全力が、そのまま壁になって、目の前に立ちはだかる。追いつめられているのは、まちがいなく、アカリのほうだった。
弾の帯が、いよいよ密になる。細くなる隙間を縫いながら、アカリの息が、少しずつ上がっていった。焦りが、指先を硬くする。硬くなった指を、鏡は、また正確に映し返してくる。
けれど——ふと、アカリは、気づいた。
写し身の矢は、いつも、ほんのわずかに、遅い。
こちらが弦を放してから、髪一本ほどの間を置いて、向こうの弦が鳴る。同時に見えて、同時ではなかった。写し身は、アカリの動きを、映しているのだ。先に読んでいるのではない。こちらが動いてから、それを、なぞっている。
もう一度、確かめる。左へ、大きく跳んだ。写し身も、鏡のように、右へ跳ぶ。けれど、その跳びだしは、やはり、ほんのわずかに遅れていた。こちらが先。向こうが、あと。ずっと、そうだったのだ。同時に見えていたのは、その遅れが、あまりにも小さかったから。
鏡は、映すものがなければ、なにも映せない。
アカリは、弓を引くのを、やめた。
矢を番えず、ただ、身を低くする。射たず、避けるだけ。攻めを返そうと待ちかまえていた写し身が、一瞬、行き場を失った。
その隙間へ、アカリは滑り込んだ。生前、薄暗い筐体の前で、光の雨のなかを千度も潜り抜けた、あの呼吸で。喰らってはならない一点だけを守り、あとはすべて掠らせて、弾のいちばん濃いところ——写し身の懐の、いちばん危うい一点へ、まっすぐに。
戦乙女なら、そうはしない。力には、力を返す。矢には、矢を。けれど、アカリの奥にいるのは、戦乙女ではなかった。弾の雨を、ただ避けることだけを、生きるよすがにしてきた、ひとりの娘だった。
誰にも言えなかった。ただ避けているだけの遊びが、なんの役に立つのかも、分からなかった。それでも、光の雨の隙間を見つけているあいだだけは、確かに生きている気がした。その、なんの役にも立たないと思っていたものが——いま、この鏡には、映せない。
写し身が、揺らいだ。
鏡が、映しきれずに、ぶれる。像の輪郭が、二重に、三重に滲んだ。アカリの動きを、なぞりきれていない。放つべき矢を、見失っている。
——そうか。
この鏡が映せるのは、この身体だけ。千年前から機構が知りつくした、戦乙女の器だけなのだ。そのなかに宿った、遠い世界から来た魂のことを、この場所は、どこにも書き留めていない。予め帳面に記された動きだけを、写し身は返せる。記されていない動きは、返せない。
映せない。写し身は、アカリの半分しか、知らないのだ。
揺らぐ像を見つめながら、アカリの胸に、戦いとは違うものが込み上げてきた。
この写し身は、討つべき敵だと思っていた。世界を終わらせかけた災厄の、成れの果て。けれど——鏡がぶれて、その奥がのぞいたとき、アカリは、見てしまった。
光の底に、うずくまる、誰かの気配を。
千年、この玉座に組み込まれ、雨を降らせつづけ、妹たちが目の前で散っていくのを、ただ見ていることしかできなかった、誰か。
助けにきた妹たちを、自分の降らせた雨で、拒みつづけるしかなかった人。近づけば近づくほど、機構は、来る者めがけて弾を撒く。核となった姉は、それを止められない。妹たちは、姉に拒まれながら、散っていった。——どれほど、つらかっただろう。討たれることよりも、ずっと。
——ダグルーン。
これは、討伐ではない。
アカリは、そう悟った。姉を取り戻そうとして、この身体は千年前に散った。その続きを、いま、自分が引き受けている。ならば、これは戦いですら、ないのかもしれない。
——千年、待たせてしまった人を、迎えに行くだけ。
鏡の奥の気配が、ほんのわずかに、応えた気がした。
写し身の翼が、大きく震える。その奥で、囚われた誰かの気配が、初めて、こちらへ向いた。




