第20話 雨のやむ朝
ちいさな光は、ゆっくりと、アカリの背の高さまで昇った。
そこで、ほどけた。
凝っていた光が、ふわりとほどけて、大きな翼のかたちを描く。——翼だ。千年、白い鎖に封じられていた翼が、いま、ようやくひらいたのだ。片方の翼の先が、アカリの頬を、風のように、そっと撫でていった。
言葉は、なかった。
けれど、たしかに、届いた。ありがとう、と。遅くなって、ごめんね、と。——それは、器の奥にいる妹への言葉であり、迎えにきた、たったひとりの見知らぬ魂への言葉でもあった。
アカリは、首を横に振った。声にならないまま、こう返した。——迎えにこられて、よかった。
翼が、いちど、大きく羽ばたいた。
そうして、昇っていく。玉座の白い天井を、光の翼はやわらかくすり抜けて、もっと高い、もっと遠い空へ。千年うずくまっていた人が、ようやく、まっすぐに空へ還っていく。
その光が見えなくなるまで、アカリは、見あげていた。
——どこかで、大きな歯車が、止まった。
ずっと聞こえていたはずの音が、消えていた。地の底で、あるいは空の果てで、千年まわりつづけてきたなにか大きなものが、長い務めを終えて、静かに息をつく。そんな気配だった。
〈古き機構〉が、止まったのだ。
戦争は、もう、とうに終わっていた。守るべき神も、倒すべき敵も、いない。それでも動きつづけていた壊れた守りが、ようやく、眠りについた。
神鉄の雨が——やんだ。
翼のくぐり抜けた跡から、天蓋が、裂けていく。
千年、鈍色の雲に閉ざされていた空。その裂け目がみるみる広がって、金色の光が幾筋も、真下の浮島へと降りていった。影の下で息をひそめてきた大地に、朝が——ほんとうの朝が、差そうとしていた。
降りていく光にのって、下から、声がのぼってきた。
ひとつではなかった。無数の声が重なって、空へ、空へと届いてくる。生まれて初めて見る朝に、人々が空を見あげて、口々に、ひとつの名を呼んでいた。
——アカリ。
戦乙女の名を。器がとうに失い、彼女が与えなおした、その名を。
かつて、薄暗い筐体の前で撒いた三文字の名を、誰にも言えなかった少女が。いまは、見も知らぬ人たちに、朝の空へと呼ばれている。
「よく、やってくれました」
女神ヴァルディスの声が、すぐそばで、した。祠を離れられないはずの女神。けれどいまは、そのやわらかな気配が、たしかに、隣にあった。
「あなたは、わたしの世界に、朝を取り戻してくれました。もう、あなたを縛るものは、なにもありません」
女神は、しずかに問うた。
「還りますか。——あなたの、もとの世界へ。あそこには、あなたの生の続きが、まだ、残っているのです」
アカリは、雨上がりの空を、見あげた。
鈍色は、もう、どこにもなかった。洗われたばかりの、澄んだ青。その青を、金色の光が、まっすぐに射抜いている。——きれいだ、と、素直に思った。
この青にたどりつくまでに、いくつの空を越えてきただろう。霧に沈んだ城塞。人の絶えた鋼の工廠。灰の舞う灼熱の火山。絶えず雷の鳴る、天蓋の海。そして、なにもかもを白く映した、神域。そのどれにも、務めに縛られたまま、待ちくたびれた誰かがいた。避けて、避けて、いちばん奥まで翔んで、そのたびに、討つのではなく、迎えにいった。
もとの世界。あの、冷たい雨の交差点。可もなく不可もない、灰色の毎日。前を向いたまま終わった、二十八年。
あそこに、続きがある。
それでも、アカリは、ゆっくりと、首を横に振った。
「わたしは、ここにいます」
雨の日に、前を向いたまま、わたしは死んだ。そしていま、雨のやむ朝を、こうして、前を向いて、迎えている。
避ける腕は、生前の、わたしのもの。育てた強さは、この世界で、みんなにもらったもの。そのふたつを翼にして、たどりついた場所だ。ここは。
ここが、二度目の生の場所だ。
消えかけていた胸の灯は、もう、消えていなかった。それどころか、これまでのどんなときよりも、あかるく、ともっていた。
女神は、なにも言わなかった。ただ、風が、ほんの少し、微笑んだような気がした。
隠れ里ルーンヴィクにも、朝が来た。
もう、加護で雨を防ぐ必要はなかった。ケトルは炉の前で空を見あげ、ぶっきらぼうに「……いい天気だぞ」とだけ言った。ヘルガは食堂の窓をぜんぶ開けはなって、「おかえり!」と、まだ帰らぬ誰かに向かって叫んだ。グンヒルドは、焼かれた翼のあとを、そっと陽にさらしていた。エギル爺の釣り糸が、雨のない水面で、のんびりと光る。ソルヴェイの畑に、初めての、まっとうな陽が落ちた。
そして、里の奥。
長いあいだ眠っていた、三つの器が、かすかに、身じろぎをした。
弾き断つ剣。静寂の星降らし。群れの母。——ダグルーンの、残された妹たち。その目覚めの朝も、もう、すぐそこまで来ている。それぞれの魂が、それぞれの空から、呼ばれるのを待っている。
やがて、この空の物語は、人から人へ、語り継がれていくだろう。
終わらない雨に朝を取り戻した、戦乙女の話。討つのではなく、迎えにいった、やさしい弓の話。二度目の生を、この空で選んだ少女の話。
語りの終わりに、人はきっと、空を見あげる。
——戦乙女の翼は、もう、次の空を向いている。
あたたかな光の、差す朝だった。




