第九話 逃げないでください
ヴォルフがいない朝の事務所は、やけに広く感じた。
壁際の椅子が空っている。肘掛けの上に、うっすらと埃が積もり始めている。三日分。ヴォルフが座らなくなって、三日だ。
机の上にタルトはなかった。
当たり前だ。買ってくる人がいないのだから。
帳簿を開いた。数字を追おうとした。目が滑る。同じ行を三度読んで、何が書いてあったか覚えていない。
(──集中しなさい。仕事でしょう)
自分に言い聞かせた。
効かなかった。
ヴォルフが去る前に残していったのは、短い言葉だけだった。「不釣り合いだ」「別の者に頼め」。そして、最後のタルト。
辞めると言いながら買ってきた、あのタルト。
あの矛盾の理由を、私はまだ聞けていない。
◇
昼過ぎに、マルテが血相を変えて飛び込んできた。
「姐さん、大事件だ!」
「何です、急に」
「王都から早馬が来た。宰相府の外交案件がとんでもないことになってるらしい」
マルテが聞きかじった話を、息を切らしながら並べた。
隣国との通商協定の更新が不調に終わったこと。隣国が「条約違反」として正式に抗議したこと。国王がルシアンを召喚して叱責したこと。
「それと──もう一つ。宰相府の副官が捕まった」
「……副官?」
「ハインツとかいう男だ。宰相府の権限を使って、ある商会に放火と刺客を送り込んだって。前公爵が調べ上げたらしい」
息が、止まった。
ハインツ。
六話で使者として来た、あの男。
あの時の──唇の端の、微かな歪み。
「……その商会って」
「ここだよ、姐さん。あんたの商会だ」
椅子の背に手をついた。
繋がった。
あの放火も。あの刺客も。ハインツが仕組んだものだった。
「黒幕は宰相閣下の愛人だった女だそうだ。ハインツを焚きつけて、宰相府の名前で全部やらせてた。社交界からも追い出されたって話だ」
イレーネ。
私を追い出すために噂を流し、使者を操り、最後は放火と刺客まで送り込んだ。
──あの夜、ヴォルフの肩を裂いた刃は、この女が差し向けたものだったのだ。
怒りが、腹の底から込み上げてきた。
けれど、すぐに冷めた。
怒る相手が違う。
今、私が向き合うべき相手は──イレーネでもハインツでもルシアンでもない。
「マルテさん。商会をお願いします。少しだけ、出かけます」
「おう。行ってこい、姐さん」
マルテは何も聞かなかった。
◇
同じ頃──王都、宰相府の書斎。
ルシアンは、国王の執務室から戻ったばかりだった。
叱責、という言葉では足りない。
陛下の目に浮かんでいたのは怒りではなく、失望だった。そちらの方が、ずっと堪えた。
書斎の机に座り、ナディアの引き継ぎ資料を引っ張り出した。何度目だろう。もう角が擦り切れている。
通商協定の更新スケジュール。
手続き自体は、資料の通りに行った。書類は出した。期限も守った。
それでも駄目だった。
隣国の大使は怒っていた。書類の問題ではないのだ。事前に個人的に話を通してくれるはずの「あの人」が来なかった。非公式の場で胸襟を開いて条件を擦り合わせてくれるはずの「あの人」が、もういない。
書類に書けることは、ナディアが全部書いてくれていた。
でも、書けないことがあった。
誰にどんな顔で話しかけるか。どの大使には酒の席が必要で、どの外交官には書面より先に一言の挨拶が要るか。十年かけて、ナディアという人間が築き上げた信頼関係は、三冊の引き継ぎ資料には収まらない。
僕が失ったのは、宰相夫人ではない。
ナディアという人間そのものだ。
引き出しを開けた。
何ヶ月も前に、ナディアに送った手紙の控えが出てきた。
読み返す。自分の字で、こう書いてあった。
『困っている。戻ってきてくれないか。君がいないと仕事が回らない』
──これだけだ。
感謝の言葉が、一つもない。「戻ってきてほしい」理由が、仕事だけだ。
ナディアは、これを読まなかったのだという。
当然だ。こんな手紙、読む価値がない。
資料の山の下から、父──前公爵エドムントの調査報告書が出てきた。副官ハインツが、イレーネに懐柔されて宰相府の権限を私的に流用し、ナディアの商会に放火と刺客を送り込んでいた。
イレーネは、知っていたのだ。ナディアがいなくなれば僕が困ることを。だから排除しようとした。
僕は──知らなかった。
妻を追い出した愛人が、元妻を殺そうとしていたことを。
父がイレーネとの関係を清算しろと言った時、反論する気力は残っていなかった。
イレーネは社交界から実質的に追放された。ハインツは免職、投獄。
それで──何が変わるというのだろう。
ナディアは戻らない。
机に額をつけた。
十年間、僕は何を見ていたのだろう。
あの食堂で向かいに座っていた人の顔を、今、正確に思い出そうとして──うまくいかないことに気づいた。
いつも微笑んでいた。それは覚えている。
でも、その微笑みの下に何があったのか、一度も考えたことがなかった。
母が死んだ後、世話をしてくれる人をずっと探していた。ナディアに──母を、重ねていたのかもしれない。世話をしてくれるのが当然の存在。感謝する対象ではなく、そこにいるのが自然な人。
十年経って、いなくなって、初めて気づくなんて。
──遅すぎた。
◇
港の外れ。
船着き場に近い、灰色の波止場。冬の終わりの風が、海の匂いを運んでくる。
ヴォルフが、小さな渡し船の前に立っていた。
肩に革鞄を一つだけ担いでいる。旅装だ。この船に乗って、どこかへ行くつもりなのだ。
走った。
全力で走った。石畳が滑る。靴が脱げそうになる。そんなことはどうでもいい。
「ヴォルフ!」
叫んだ。
ヴォルフが振り返った。
灰色の瞳が、私を見て──驚いていた。あの鉄板が、はっきりと揺れていた。
「……何で、ここが」
「マルテさんに──聞きました──港の渡し船に──大きい男が──」
息が切れて、言葉が途切れる。膝に手をついて、肩で息をした。
ヴォルフが一歩、近づいた。
「ナディア。俺は──」
「逃げないでください」
顔を上げた。
涙は出ていなかった。泣いている場合ではない。
「十年、誰かのために生きてきました」
声が震えている。今度は止められなかった。止める必要もなかった。
「やっと自分のために生き始めたんです。やっと──自分が何を望んでいるか、わかったんです」
ヴォルフの灰色の瞳が、まっすぐに私を見ている。
「だからお願いです。私が選んだ人から、勝手にいなくならないでください」
波止場に、波の音だけが残った。
ヴォルフは動かなかった。
長い沈黙の後──革鞄を、ゆっくりと地面に下ろした。
「……本当に、いいのか」
その声は、震えていた。
あの鉄板のような男の声が、微かに──震えていた。
「俺は元騎士だ。爵位も金もない。膝に古傷があって、まともに走れない日もある。あんたに釣り合う男じゃない」
「釣り合いなんて、要りません」
「……ナディア」
「毎朝タルトを買ってきてくれる人を、私は知っています」
ヴォルフの目が、見開かれた。
「道端で見つけたという花を届けてくれる人も。書類の山を見て眉をひそめてくれる人も。いつも温かいカップを渡してくれる人も」
全部、知っていた。
気づいていないふりをしていただけだ。
「あなたがいいんです」
波が、岸壁を打った。
ヴォルフは、しばらく何も言わなかった。
それから、不器用に──本当に不器用に、口の端を持ち上げた。
笑っている。
この人が笑うのを、初めて見た。
「……答えは、明日でいいか」
「──え?」
「今ここで返事したら、格好がつかない。船の前で荷物下ろして、泣きそうな顔してる男が何を言っても、締まらないだろう」
……泣きそうな顔。
確かに、灰色の瞳が──少しだけ潤んでいた。
おかしくなって、笑ってしまった。笑いながら、目元がじわりと熱くなった。
「……ずるいです、そういうの」
「あんたには言われたくない」
波止場の夕陽が、二人の影を長く伸ばしていた。




