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夫が愛人を正妻にするそうなので、十年尽くした宰相夫人を辞めます  作者: 九葉(くずは)


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9/10

第九話 逃げないでください

 ヴォルフがいない朝の事務所は、やけに広く感じた。


 壁際の椅子が空っている。肘掛けの上に、うっすらと埃が積もり始めている。三日分。ヴォルフが座らなくなって、三日だ。


 机の上にタルトはなかった。


 当たり前だ。買ってくる人がいないのだから。


 帳簿を開いた。数字を追おうとした。目が滑る。同じ行を三度読んで、何が書いてあったか覚えていない。


(──集中しなさい。仕事でしょう)


 自分に言い聞かせた。

 効かなかった。


 ヴォルフが去る前に残していったのは、短い言葉だけだった。「不釣り合いだ」「別の者に頼め」。そして、最後のタルト。


 辞めると言いながら買ってきた、あのタルト。


 あの矛盾の理由を、私はまだ聞けていない。


    ◇


 昼過ぎに、マルテが血相を変えて飛び込んできた。


「姐さん、大事件だ!」


「何です、急に」


「王都から早馬が来た。宰相府の外交案件がとんでもないことになってるらしい」


 マルテが聞きかじった話を、息を切らしながら並べた。


 隣国との通商協定の更新が不調に終わったこと。隣国が「条約違反」として正式に抗議したこと。国王がルシアンを召喚して叱責したこと。


「それと──もう一つ。宰相府の副官が捕まった」


「……副官?」


「ハインツとかいう男だ。宰相府の権限を使って、ある商会に放火と刺客を送り込んだって。前公爵が調べ上げたらしい」


 息が、止まった。


 ハインツ。

 六話で使者として来た、あの男。


 あの時の──唇の端の、微かな歪み。


「……その商会って」


「ここだよ、姐さん。あんたの商会だ」


 椅子の背に手をついた。


 繋がった。


 あの放火も。あの刺客も。ハインツが仕組んだものだった。


「黒幕は宰相閣下の愛人だった女だそうだ。ハインツを焚きつけて、宰相府の名前で全部やらせてた。社交界からも追い出されたって話だ」


 イレーネ。


 私を追い出すために噂を流し、使者を操り、最後は放火と刺客まで送り込んだ。


 ──あの夜、ヴォルフの肩を裂いた刃は、この女が差し向けたものだったのだ。


 怒りが、腹の底から込み上げてきた。

 けれど、すぐに冷めた。


 怒る相手が違う。

 今、私が向き合うべき相手は──イレーネでもハインツでもルシアンでもない。


「マルテさん。商会をお願いします。少しだけ、出かけます」


「おう。行ってこい、姐さん」


 マルテは何も聞かなかった。


    ◇


 同じ頃──王都、宰相府の書斎。


 ルシアンは、国王の執務室から戻ったばかりだった。


 叱責、という言葉では足りない。

 陛下の目に浮かんでいたのは怒りではなく、失望だった。そちらの方が、ずっと堪えた。


 書斎の机に座り、ナディアの引き継ぎ資料を引っ張り出した。何度目だろう。もう角が擦り切れている。


 通商協定の更新スケジュール。

 手続き自体は、資料の通りに行った。書類は出した。期限も守った。


 それでも駄目だった。


 隣国の大使は怒っていた。書類の問題ではないのだ。事前に個人的に話を通してくれるはずの「あの人」が来なかった。非公式の場で胸襟を開いて条件を擦り合わせてくれるはずの「あの人」が、もういない。


 書類に書けることは、ナディアが全部書いてくれていた。

 でも、書けないことがあった。


 誰にどんな顔で話しかけるか。どの大使には酒の席が必要で、どの外交官には書面より先に一言の挨拶が要るか。十年かけて、ナディアという人間が築き上げた信頼関係は、三冊の引き継ぎ資料には収まらない。


 僕が失ったのは、宰相夫人ではない。

 ナディアという人間そのものだ。


 引き出しを開けた。


 何ヶ月も前に、ナディアに送った手紙の控えが出てきた。


 読み返す。自分の字で、こう書いてあった。


『困っている。戻ってきてくれないか。君がいないと仕事が回らない』


 ──これだけだ。


 感謝の言葉が、一つもない。「戻ってきてほしい」理由が、仕事だけだ。


 ナディアは、これを読まなかったのだという。


 当然だ。こんな手紙、読む価値がない。


 資料の山の下から、父──前公爵エドムントの調査報告書が出てきた。副官ハインツが、イレーネに懐柔されて宰相府の権限を私的に流用し、ナディアの商会に放火と刺客を送り込んでいた。


 イレーネは、知っていたのだ。ナディアがいなくなれば僕が困ることを。だから排除しようとした。


 僕は──知らなかった。


 妻を追い出した愛人が、元妻を殺そうとしていたことを。


 父がイレーネとの関係を清算しろと言った時、反論する気力は残っていなかった。


 イレーネは社交界から実質的に追放された。ハインツは免職、投獄。


 それで──何が変わるというのだろう。


 ナディアは戻らない。


 机に額をつけた。


 十年間、僕は何を見ていたのだろう。


 あの食堂で向かいに座っていた人の顔を、今、正確に思い出そうとして──うまくいかないことに気づいた。


 いつも微笑んでいた。それは覚えている。


 でも、その微笑みの下に何があったのか、一度も考えたことがなかった。


 母が死んだ後、世話をしてくれる人をずっと探していた。ナディアに──母を、重ねていたのかもしれない。世話をしてくれるのが当然の存在。感謝する対象ではなく、そこにいるのが自然な人。


 十年経って、いなくなって、初めて気づくなんて。


 ──遅すぎた。


    ◇


 港の外れ。


 船着き場に近い、灰色の波止場。冬の終わりの風が、海の匂いを運んでくる。


 ヴォルフが、小さな渡し船の前に立っていた。


 肩に革鞄を一つだけ担いでいる。旅装だ。この船に乗って、どこかへ行くつもりなのだ。


 走った。


 全力で走った。石畳が滑る。靴が脱げそうになる。そんなことはどうでもいい。


「ヴォルフ!」


 叫んだ。


 ヴォルフが振り返った。


 灰色の瞳が、私を見て──驚いていた。あの鉄板が、はっきりと揺れていた。


「……何で、ここが」


「マルテさんに──聞きました──港の渡し船に──大きい男が──」


 息が切れて、言葉が途切れる。膝に手をついて、肩で息をした。


 ヴォルフが一歩、近づいた。


「ナディア。俺は──」


「逃げないでください」


 顔を上げた。


 涙は出ていなかった。泣いている場合ではない。


「十年、誰かのために生きてきました」


 声が震えている。今度は止められなかった。止める必要もなかった。


「やっと自分のために生き始めたんです。やっと──自分が何を望んでいるか、わかったんです」


 ヴォルフの灰色の瞳が、まっすぐに私を見ている。


「だからお願いです。私が選んだ人から、勝手にいなくならないでください」


 波止場に、波の音だけが残った。


 ヴォルフは動かなかった。


 長い沈黙の後──革鞄を、ゆっくりと地面に下ろした。


「……本当に、いいのか」


 その声は、震えていた。


 あの鉄板のような男の声が、微かに──震えていた。


「俺は元騎士だ。爵位も金もない。膝に古傷があって、まともに走れない日もある。あんたに釣り合う男じゃない」


「釣り合いなんて、要りません」


「……ナディア」


「毎朝タルトを買ってきてくれる人を、私は知っています」


 ヴォルフの目が、見開かれた。


「道端で見つけたという花を届けてくれる人も。書類の山を見て眉をひそめてくれる人も。いつも温かいカップを渡してくれる人も」


 全部、知っていた。

 気づいていないふりをしていただけだ。


「あなたがいいんです」


 波が、岸壁を打った。


 ヴォルフは、しばらく何も言わなかった。


 それから、不器用に──本当に不器用に、口の端を持ち上げた。


 笑っている。


 この人が笑うのを、初めて見た。


「……答えは、明日でいいか」


「──え?」


「今ここで返事したら、格好がつかない。船の前で荷物下ろして、泣きそうな顔してる男が何を言っても、締まらないだろう」


 ……泣きそうな顔。


 確かに、灰色の瞳が──少しだけ潤んでいた。


 おかしくなって、笑ってしまった。笑いながら、目元がじわりと熱くなった。


「……ずるいです、そういうの」


「あんたには言われたくない」


 波止場の夕陽が、二人の影を長く伸ばしていた。

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― 新着の感想 ―
【六話で使者として来た、あの男。】 これが一番ありがたく、そして一番笑えました♪
>六話で使者として来た、あの男。 WWW AIに書かせた後、校正しないんですか? AI作品ならタグにAIを付けて欲しいです。
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