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夫が愛人を正妻にするそうなので、十年尽くした宰相夫人を辞めます  作者: 九葉(くずは)


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第十話 家族なら、一緒に食うだろう

 「あなたがいいんです」


 二度目の人生で、初めて自分の気持ちを口にした。


 波止場の夕陽が眩しい。ヴォルフの顔が逆光で半分影になっている。革鞄は地面に下ろされたまま、渡し船は桟橋に繋がれたまま。


 ヴォルフが口を開いた。


「……答えは明日と言ったが」


「はい」


「撤回する」


 心臓が跳ねた。


「もう逃げない」


 低い声が、波の音にかき消されずに、まっすぐ届いた。


「あんたが選んだなら──俺は、もう逃げない」


 言ってから、耳を赤くしている。逆光でも、耳の赤さだけはわかった。


 笑いたいのか泣きたいのかわからなかった。どちらも正解な気がした。


「……帰りましょう」


「ああ」


「タルト、明日からまた買ってきてくれますか」


「…………当たり前だ」


 二人で、港町の石畳を歩いた。


 並んで歩くのは初めてだった。いつもヴォルフは後ろか横の壁際にいた。今は隣にいる。肩の位置が全然違う。私の頭が、ヴォルフの肩にも届かない。


 商会の明かりが見えた時、マルテが入り口に立っていた。


 私たちの顔を見て、にやりと笑った。


「おかえり」


 その一言で、胸がいっぱいになった。


    ◇


 ──数ヶ月後。五月。王都。


 ルシアンは、宰相の辞表を国王に提出した。


 慰留はなかった。陛下は辞表を受け取り、短くこう言った。


「ご苦労だった、ヴェルトハイム公」


 公爵位は残る。領地もある。政治生命が完全に絶たれたわけではない。


 けれど、宰相府を出る時、振り返った書斎は──がらんとしていた。


 机の上には、まだナディアの引き継ぎ資料が置いてある。角が擦り切れて、何度も開いた跡がある。


 三冊目の最後のページを、めくった。


 今まで見落としていた──最後の一行。


 ナディアの筆跡で、小さく、こう書いてあった。


『どうかお元気で。十年間の経験に感謝しています。 ナディア』


 感謝しています。


 彼女の方が、感謝していた。


 十年間、一度も感謝の言葉をかけなかった僕に対して──去る時に、彼女の方から「感謝しています」と書いていた。


 恨みも、未練も、皮肉も、何もない。


 ただの、別れの言葉だった。


 視界が歪んだ。


 机に手をついた。涙が、引き継ぎ資料の表紙に一滴落ちた。インクが少しだけ滲んだ。


「僕は……彼女に、感謝の言葉すら言ったことがなかった」


 誰もいない書斎に、その声は吸い込まれて消えた。


    ◇


 五月の港町は、朝が早い。


 日の出と同時に漁船が出ていく。魚市場がざわめき始める。パン屋の窯に火が入って、焼きたての匂いが路地に漂い始める。


 商会の事務所の扉を開けた。


 王都に二号店を出してから、本店の業務はだいぶ落ち着いた。従業員が四人に増えて、私が一人で帳簿を抱える必要もなくなった。


 机に着いた。


 いつものように帳簿を──開こうとして、手が止まった。


 机の上に、焼きリンゴのタルトが置いてある。


 二つ。


 いつもは一つだ。私の分が一つ。

 今日は、二つ。


 向かいの席を見た。


 ヴォルフが座っていた。


 壁際の肘掛け椅子ではない。私の向かいの席──今まで誰も座ったことのない、もう一つの椅子に。


 手には茶のカップを持っている。湯気が立っている。


 机の上には、もう一つのカップ。私の分。たぶん、両手で温めてから置いたのだろう。もう知っている。


「……ヴォルフ」


「ああ」


「タルトが二つあるんですけど」


「ああ」


「一つは私の分ですよね。もう一つは」


 ヴォルフが、茶を一口飲んだ。カップの陰で、口元が見えない。


「……家族なら、一緒に食うだろう」


 時が、止まった。


 家族。


 指輪もない。ひざまずきもしない。花束もない。


 ただ、焼きリンゴのタルトが二つ。温かい茶が二つ。向かいの席に座った、不器用な男が一人。


「家族……」


「嫌なら」


「嫌じゃないです」


 即答した。


 ヴォルフの耳が、真っ赤になった。カップで顔を隠しているが、耳は隠せない。


 笑いが込み上げてきた。

 同時に、目の奥が熱くなった。


「嫌なわけ、ないじゃないですか……」


(──業務上の贈答品交換、ではない。もうそんな言い訳はしない)


 声が震えた。タルトに手を伸ばしたら、指も震えていた。


 ひと口かじった。

 甘い。いつもの味だ。二話で初めて食べた時と、同じ味。


 ──でも。


 向かいに誰かがいるだけで、こんなに違う。


 泣きながら笑って、二口目をかじった。


 ヴォルフは何も言わなかった。カップの向こうで、口元だけが少し──ほんの少しだけ、緩んでいた。


    ◇


 その日の午後。


 帳簿を整理していたら、手帳の間から何かが落ちた。


 押し花だ。


 白い花弁。十二月の誕生日に、ヴォルフが「道に咲いてた」と言って置いてくれた、あの冬咲きの花。枯れた後、こっそり押し花にして手帳に挟んでいた。


 ふと、棚の隅に港町の植物図鑑があるのを思い出した。ギルド長の館でもらった資料の中に混じっていたものだ。


 花弁の形を見比べて、ページをめくった。


 見つけた。

 冬咲きカメリア。温室栽培。港町では──。


『港町では自生しない。温室花屋でのみ取り扱い。一輪あたり銀貨二〜三枚』


 本を閉じた。


 道に、咲いているわけがなかった。


 銀貨三枚。ヴォルフの月収の、二十分の一。


 あの不器用な人が、十二月の朝に温室花屋まで歩いて、銀貨三枚を払って、一輪だけ買って、机の上に置いて、「道に咲いてた」と嘘をついた。


 押し花を手帳に戻した。


 戻してから、手帳をぎゅっと胸に押し当てた。


(──ずっと、だったんだ)


 タルトも。花も。毛布も。カップの温もりも。


 全部、最初から。


 向かいの席でヴォルフが茶を飲んでいる。何も気づいていない顔をしている。いつもの鉄板だ。


 でも今は知っている。

 あの鉄板の下に、どれだけの温かさが隠れているか。


 手帳を引き出しにしまって、帳簿を開き直した。


 窓の外では、港町の五月の陽射しが石畳を白く照らしている。遠くで船の汽笛が鳴った。パン屋の匂いと、潮の匂いと、向かいの席から微かに届く──火にかけた薬草のような、温かい匂い。


 あの夜──港町に着いた最初の夜、宿の前ですれ違った時と同じ匂いだ。


 あの時胸がざわついた理由を、今ならわかる。


 タルトの最後のひとかけらを口に入れた。


 ──これが、私の人生だ。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!


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