第八話 俺はもう、誰も失いたくない
焦げた木材の匂いで目が覚めた。
深夜だった。宿の窓から外を見ると、港の方角に赤い光がにじんでいる。
──嘘でしょう。
駆け出した。夜着のまま、上着だけ引っかけて。
商会の倉庫が、燃えていた。
炎はまだ小さい。壁の一面に火が這い始めたところだ。倉庫の前にヴォルフがいた。外套を脱いで火を叩き消している。汗と煤で顔が黒くなっていた。
「ヴォルフさんっ──」
「水を持ってこい!」
叫ばれて、我に返った。
近くの井戸から桶で水を汲み、ヴォルフに渡す。二杯、三杯。近隣の住人も起きてきて、バケツリレーが始まった。
火は鎮火した。倉庫の壁が一面焼け焦げただけで済んだ。
ヴォルフが倉庫の裏手を指した。
「油が撒いてあった。人の手だ」
放火。
背筋が冷えた。
「犯人は」
「逃げた。追えなかった」
ヴォルフの声に、苛立ちが滲んでいた。
──誰が、何のために。
頭の隅で、先日の通商会議の後にちらついた不穏な影がよぎった。けれど、今は考えている場合ではない。倉庫の中の在庫を確認しなければ。
朝まで、二人で焼け跡の片付けをした。
◇
翌日の午後だった。
事務所の前の通りを歩いていた時、人混みの中から男が飛び出してきた。
刃物が光った。
──え。
思考より先に、体が動こうとした。けれど、それよりも速くヴォルフの腕が私の前を遮った。
鋼がぶつかる音。
ヴォルフの手に、いつの間にか短剣が握られていた。
男の一撃を弾く。返す刃で、男の手首を打った。刃物が石畳に落ちる。男がうめいてよろめいた。
速い。
この人、こんなに──。
感嘆する間もなかった。
背後から、二人目が来た。
気づいた時には遅かった。ヴォルフが振り向きざまに受けたが、刃が肩に入った。
赤い線が、外套の布を割って走った。
「ヴォルフッ──!」
さん、がつかなかった。声が裏返っていた。
ヴォルフは肩から血を流しながら、二人目の男を蹴り飛ばした。男は石畳に叩きつけられて動かなくなった。
一人目は既に逃走していた。
通りに人が集まってくる。誰かが衛兵を呼びに走った。
そんなことは、どうでもよかった。
「ヴォルフ、肩──見せて、早く」
「大丈夫だ」
「大丈夫じゃない!」
外套を剥がした。革鎧の隙間から、血が染み出している。切り傷だ。深くはないが、長い。肩から上腕にかけて、二十センチ近く裂けている。
事務所に引きずり込んだ。
椅子に座らせて、清潔な布を傷口に押し当てた。
手が震えている。使者が来た日と同じだ。──いや、違う。あの時は自分が怖かった。今は、この人を失うのが怖い。
前世の記憶が、頭の隅で回り始めた。薬草。止血に効く薬草。商会で扱っている乾燥薬草の中に──あった。
棚から薬草の瓶を引っ張り出し、すり鉢で潰して湿布を作った。正確な調合法は知らない。でも、基礎的な止血と消毒の効果があることは覚えている。
湿布を傷口に当てながら、声が漏れた。
「……あなたを、失いたくない」
言ってから、はっとした。
業務上の──何でもない。これは業務上の何でもない。
ヴォルフが、こちらを見ていた。
灰色の瞳が、いつもと違う色をしていた。痛みではない。もっと深いところにある、古い何かが浮かんでいた。
「……昔」
ヴォルフが、低い声で言った。
「守れなかった部下がいた。三人」
湿布を押さえる私の手が止まった。
「戦場で、俺の判断が遅れて、三人死んだ。目の前で。俺の代わりに」
淡々と。事実だけを、短い文で。
「それから、ずっと──大切な人間の近くにいる資格がないと思ってた」
蝋燭の炎が揺れた。事務所の外で、まだ人の声がざわめいている。
「俺はもう、誰も失いたくない」
その声は、私に向けられていた。
誰も、という言葉の中に──私が、入っている。
涙が出そうになった。こらえた。今この手を離したら、傷口から血が出る。
「……私もです」
それだけ、絞り出した。
◇
夕方になって、事務所の前に人が集まり始めた。
最初に来たのはマルテだった。
「姐さん、聞いたぞ! 襲われたって?」
続いて、ギルドの荷運び人足が三人。魚市場の親父。仕立屋のおかみさん。港の船乗りが二人。
みんな、商会ができてから取引をした相手だ。直接仕事をした人もいれば、仕事の噂を聞いて顔見知りになった人もいる。
「警備、手伝うぜ。交代で見張る」
マルテが腕まくりをしながら言った。
「あんたにはこの町が必要だし、この町にはあんたが必要だ。簡単に潰されてたまるかよ」
返事ができなかった。
喉の奥がぎゅっと締まって、声が出なかった。
十年間、宰相府で一人で回してきた仕事には、こんなことは一度もなかった。困った時に駆けつけてくれる人なんて、いなかった。
──ここが、私の居場所なのだ。
深く頭を下げた。頭を下げたまま、こっそり目を拭った。リーデル氏に感謝を伝えた時と同じだ。人前では泣かない。でも、頭を下げている間だけ、少しだけ。
◇
三日後。
ヴォルフの傷は順調に塞がりつつあった。薬草の湿布が効いたらしい。
事務所の椅子に座ったヴォルフが、いつもの低い声で言った。
「ナディア」
「はい」
「護衛を辞める」
心臓が、一拍止まった。
「俺では不釣り合いだ。あんたの商会は、もっとまともな護衛を雇える規模になってる。俺がいたせいで危険を引き寄せたかもしれん」
「それは──」
「別の者に頼め」
ヴォルフは立ち上がった。右膝を少しかばいながら。
三日前、「誰も失いたくない」と言った人が──離れようとしている。
失いたくないから、離れる。
この人は、そういう人なのだ。
「ヴォルフ」
呼んだ。さん、はもうつけなかった。
ヴォルフが振り返った。
言葉が、出てこなかった。引き留める言葉が。業務上の理由なら並べられる。でも、今ここで業務の話をしても意味がない。
この人を引き留める言葉は、業務の中にはない。
「……考えさせてください」
それだけ、言った。
ヴォルフは何も言わず、事務所を出ていった。
机の上に、今日の焼きリンゴのタルトが置いてあった。
辞めると言いながら、朝のタルトは買ってきたのだ。
その矛盾に気づいた時──ようやく、涙が一粒だけ、落ちた。




