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夫が愛人を正妻にするそうなので、十年尽くした宰相夫人を辞めます  作者: 九葉(くずは)
第1章

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第七話 私の隣にいてください

 年が明けて二度目の月が終わる頃、王都から金箔押しの招待状が届いた。


 王都通商会議。各国の代表と国内の有力商人が一堂に会する、年に一度の公式会合だ。


 この二ヶ月の間に、商会は従業員を二名雇うまでに成長していた。取引先はさらに増え、ギルド長との提携も軌道に乗っている。年末年始の休業期間中も、王都からは何度か手紙が届いた。すべてルシアンの名前だった。ヴォルフが無言で引き出しにしまってくれた。


 通商会議の招待は、断る理由がない。商会の信用をさらに固める好機だ。


(──誰が招待リストに入れたのか、は考えないことにする)


 馬車で二日。

 久しぶりの王都は、記憶よりも狭く見えた。


    ◇


 会議場は王城の一角にある大広間だった。


 石壁に刺繍のタペストリー。磨かれた大理石の床。天井からは硝子の燭台が何十本もぶら下がっていて、真昼のように明るい。


 ヴォルフが、明らかに居心地悪そうだった。


 大きな体を少しでも小さくしようとしているのか、肩をすくめて壁際を歩いている。外套の下の革鎧が、この場には場違いだと自分でわかっているのだろう。


「……あんたの護衛が、こんなところに来ていいのか」


「護衛だからこそ来ていただいたんです」


 ヴォルフの灰色の瞳が、落ち着かなげに広間を見渡している。各国の外交官の正装、貴族の令嬢たちの絹のドレス、金糸の刺繍が入った軍服──。


 私はヴォルフの外套の袖に、そっと手を添えた。


「私の隣にいてください」


 ヴォルフが、こちらを見た。


「それだけで十分です」


 言ってから、自分の言葉に驚いた。


 業務上の指示だ。護衛に「離れるな」と言っているだけだ。


 ──本当に?


 ヴォルフの袖を掴む指先に、少しだけ力がこもっていた。離したくない、と思っている自分がいた。


「……わかった」


 ヴォルフが低く答えた。


 いつもより、声が柔らかい気がした。


    ◇


「ヴェスターハーフェン貿易商会代表、ナディア・エルスナー殿」


 旧姓で紹介された。


 大広間に足を踏み入れた瞬間、何人かの視線がこちらに集まった。元宰相夫人が独立して商会を開いたという噂は、既に広まっているらしい。


 提案の順番が回ってきた。


 私は準備した書類を広げ、東方航路の関税減免を活用した新たな通商提案を発表した。具体的な数字、実行工程、各国への利点──宰相府で十年間培った実務知識を、すべて注ぎ込んだ提案だ。


 各国の代表が頷いている。カルデア公国の外交官が身を乗り出して質問をしてきた。


 手応えがある。


 その後に、ルシアンの提案が読み上げられた。


 政策の大枠は──さすがに、よくできていた。構想力はこの人の本領だ。

 けれど、各国への根回しが行き届いていない。以前なら、私が事前に各国の担当者に個別に話を通していた。この大使には先に草案を見せる、あの外交官には対面で説明する──引き継ぎ資料には書けない類の仕事だ。


 それが、抜けている。


 隣国の大使が首を傾げている。提案の内容ではなく、事前の擦り合わせがなかったことに不満を感じているのだ。


 ルシアンは、それに気づいていない。


    ◇


 会議が終わった後、廊下を歩いていたら──呼び止められた。


「ナディア」


 足が止まった。


 振り返ると、ルシアンが立っていた。


 四ヶ月ぶりだ。

 少し痩せた気がする。目の下に隈がある。宰相の職務と夜会の失敗が、この人から何かを削っている。


「少し、話せないか」


 丁寧に、穏やかに。ルシアンらしい声だった。


「お久しぶりです、宰相閣下」


 私は完璧な礼で返した。ルシアンの顔が、かすかに強張った。閣下、と呼ばれたことに。


「……ナディア。僕は──」


「閣下」


「やり直さないか」


 廊下の空気が、止まった。


 ルシアンの目が、まっすぐにこちらを見ている。痩せた顔に、真剣な色が浮かんでいた。


(──ああ)


 この人は、本気で言っているのだ。


 やり直せると思っている。自分が望めば、妻は戻ってくると。十年間そうだったように。自分の隣に座って、黙って仕事をしてくれると。


 胸の奥に、冷たいものが落ちた。

 怒りではない。悲しみでもない。


 確認、だ。


 この人は十年経っても──やっぱり、私を見ていない。


「いいえ」


 静かに答えた。


「もう他人ですから」


 ルシアンの顔から、色が引いた。


「ナディ──」


「失礼いたします、宰相閣下。会議のお疲れが出ませんよう」


 頭を下げて、背を向けた。


 今度は、振り返らなかった。


 あの夜──宰相府の食堂を出た時と、同じだ。振り返らない。もう、振り返る理由がない。


 ──なのに、少しだけ足が重かった。


 廊下を曲がった先で、ヴォルフが壁に背をつけて立っていた。


 何も聞かなかった。何も言わなかった。


 ただ、宿に戻ってから、温かい茶を差し出した。


「……ナディア」


 殿、がなかった。

 いつもの「ナディア殿」から、二文字が消えている。


 指摘しようとして、やめた。

 その方が──近い気がしたから。


 カップが温かかった。

 異常に温かかった。茶の熱だけではない。渡される前に、何かで温められたような──。


「……あったかい」


「茶だからな」


 それはそうだ。


 でも、いつもより温かい気がした。指先から、さっきの冷たさが溶けていく。


 ヴォルフは窓辺に立って、王都の夜景を見ていた。


 その背中を見ながら、思った。


 さっき、廊下で足が重かったのは──ルシアンに未練があったからじゃない。


 十年間、あの人の隣にいたという事実が、簡単には剥がれないだけだ。十年は長い。体に染みついた習慣のようなもので、それはもう感情ではない。


 ──でも。


 今、隣にいてほしい人は、もう違う。


 カップの温もりを両手で包みながら、その事実を、静かに飲み込んだ。


    ◇


 同じ頃。宰相府の書斎。


 ルシアンは机に向かったまま、動かなかった。


 扉が控えめに叩かれた。


「ルシアン様」


 イレーネの声だった。部屋に入ってくる足音の後ろに、もう一つ──副官ハインツの靴音が続く。


「今日の会議で、ナディア殿の提案が随分と評価されていたようですわね」


 イレーネの声は穏やかだった。けれど、その穏やかさの底に、硬いものが混じっていた。


「ハインツ」


 イレーネがハインツの方を向いた。


 小さな声で、何かを囁いた。


 ハインツが頷く。


 ルシアンには、聞こえなかった。

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