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夫が愛人を正妻にするそうなので、十年尽くした宰相夫人を辞めます  作者: 九葉(くずは)
第1章

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第四話 あんたが怒らないなら、俺が怒る

 港町で商売をするなら、ギルド長の許可は避けて通れない。


 許可、というのは正確ではない。法的にはギルドに加盟しなくても商売はできる。だが、港の荷揚げ場の利用、倉庫の賃借、船便の手配──実務のすべてにギルドの顔が利く。ここを押さえないと、商会の成長に天井ができる。


(営業先の最重要クライアント、というやつね)


 ギルド長の館は、港を見下ろす丘の上にあった。


 石造りの三階建て。門柱には商船の錨を模した飾りがついていて、歴史を感じさせる。中に通されると、重厚な樫の机の向こうに、白髭の大柄な男が座っていた。


 ギルド長、ブルクハルト。

 港町の商人ギルドを二十年仕切ってきた重鎮だ。


「で、あんたが新しい商会の主か」


 こちらを見る目は、品定めそのものだった。若い女が一人で来て、護衛を一人連れているだけ。値踏みされている。


「ナディアと申します。本日は、ギルドとの提携についてご相談に参りました」


「提携ねえ」


 ブルクハルトが椅子の背にもたれた。


「悪いが、率直に言わせてもらう。貴族のお嬢さんが道楽で商売ごっこをするのは勝手だが、ギルドは遊び場じゃない。半年もたずに畳んだ商会がどれだけあるか、知っとるか」


 ──来た。


 予想通りの反応だ。むしろ、面と向かって言ってくれるだけ誠実だとも言える。


「ごもっともです。ですので、道楽ではないことを示させてください」


 鞄から書類を取り出した。


「現行の通商条約第七条第三項、港町経由の中継貿易に対する関税減免措置──これは南方航路のみが対象ですが、同条約の附則第二号を適用すれば、東方航路にも準用が可能です」


 ブルクハルトの目が、すっと細くなった。


「附則第二号は、相手国との個別の通商協定が締結済みであることが条件です。現在、東方のカルデア公国とは三年前に協定が更新されていますから、この条件は満たされています」


 書類を広げて、該当する条項に指を添えた。


「つまり、東方航路の中継貿易でも減免措置を受けられる。これを使えば、ギルドの取扱量を一割から二割近く拡大できる見込みです」


 沈黙。


 ブルクハルトが書類を引き寄せ、老眼鏡を持ち上げて条文を読み始めた。


 長い沈黙の後、白髭の口元が動いた。


「……こいつは、役所の連中でも見落としとる」


「以前、通商関連の仕事に携わっておりまして」


「以前、ね」


 ブルクハルトがこちらを見る目が変わった。品定めの色が消えている。


「いいだろう。提携の話、詳しく聞かせてもらおうか」


 商談は一時間で成立した。


 最後にブルクハルトは立ち上がり、私に向かって軽く頭を下げた。


「ナディア殿。失礼なことを言った。詫びる」


「いいえ。ご懸念はもっともでしたので」


 殿、と呼ばれた。

 さっきまで「お嬢さん」だった人に。


    ◇


 問題は、その後だった。


 ギルド長の館を出て、石段を降りようとした時。壁に寄りかかっていた三人の男が、道を塞いだ。


 ギルドの下っ端だ。商談中、部屋の外で待機していた連中。


「おい、あんた」


 先頭の男が、顎をしゃくった。


「女がギルド長に条約の講釈を垂れるとはな。いい度胸だ」


 二人目が、にやにやしながら言った。


「道楽なら他所でやってくれや。港は男の仕事場なんでね」


 三人目は何も言わず、ただ私の鞄に手を伸ばそうとした。


 ──その手が止まった。


 ヴォルフが立ち上がった。


 それだけだった。


 椅子に座っていた──ではない。石段の手すりに背をつけて立っていたのが、一歩前に出ただけだ。


 声は出していない。剣にも触れていない。


 ただ、あの体躯が、まっすぐに三人の前に立った。


 灰色の瞳が、先頭の男を見下ろしている。

 見下ろす、という言葉の通りだ。頭一つ分、高い。


 三人の顔から、にやにやが消えた。


 先頭の男が一歩退がった。

 二人目が目を逸らした。

 三人目が、鞄に伸ばしかけた手を引っ込めた。


「……行くぞ」


 先頭の男が、仲間の肩を叩いて去っていった。


 ヴォルフは何も言わなかった。一歩前に出ただけで、もう元の位置に戻っている。


 ただ──腕を組んでいた。


 拳を、隠すように。


    ◇


 事務所に戻ったのは、日が傾き始めた頃だった。


 ヴォルフが事務所の椅子──先月私が買った肘掛け付きの椅子に腰を下ろす。ぎしり、と木が軋む。もう馴染んだ音だ。


 私は机に書類を広げながら、さっきのことを考えていた。


 あの三人は粗野だったが、言葉の裏にある空気は読めた。港町の商売は男の世界だ。女が一人で乗り込んできて、ギルド長を相手に条約の話をするのが面白くない。それは、理屈ではなく感情の問題だ。


 怒っても仕方がない。結果で示すしかない。


「あんた」


 ヴォルフの声が、事務所に低く響いた。


 顔を上げると、灰色の瞳がまっすぐにこちらを見ていた。椅子に座ったまま、腕を──まだ組んでいる。


「あんたが怒らないなら、俺が怒る」


 ……え。


「さっきの連中。あんたは怒っていい場面だった」


 ヴォルフの声は静かだ。怒鳴っているわけではない。

 なのに、低い声の底に、硬い何かが混じっている。


「あんたの仕事は、道楽なんかじゃない。俺はこの一ヶ月、それを見てる」


 胸の奥が、ざわついた。


 三日前にすれ違った時のざわつきとは違う。もっと深い場所が、じわりと熱くなるような。


 ヴォルフは腕を組んだまま、窓の外に目を逸らした。


 その横顔を見て──ふと、気づいた。


 組んだ腕の下で、拳が握られている。


 怒っているのだ、この人は。

 あの石段で、声も出さずに三人を退がらせたあの瞬間から、ずっと。


 私は知らず知らず、微笑んでいた。


「ありがとうございます、ヴォルフさん」


「……何がだ」


「あなたがいてくれたから、安心して商談に集中できました」


 ヴォルフの耳が赤くなった。


 今度は夕日のせいにはできない。窓は西向きじゃないのだ。


「……仕事だ」


「ええ。お仕事ですね」


 お互いに、そういうことにした。


 机の上に、今日の分のタルトがある。いつの間に買ってきたのだろう。ギルド長の館に行く前にはなかったのに。


 タルトをひと口かじりながら、ふと思った。


 この人は、私が怒らなかった分まで、怒ってくれるのか。


 十年間、宰相府で誰にも怒ってもらえなかった分まで。


 ──考えすぎだ。きっと。


 そう思いながら、タルトの最後のひとかけらを口に入れた時、マルテが事務所に顔を出した。


「姐さん、聞いたか? 王都の噂だが」


「何でしょう」


「宰相閣下の新しい奥方が、月末に夜会を開くんだと。各国の大使を招いて、えらく派手にやるらしいぜ」


 手が止まった。


 新しい奥方。

 イレーネが、あの食堂に座っている。あの廊下を歩いている。あの夜会場の段取りを、一から仕切ろうとしている。


(──大丈夫かしら)


 心配しているのではない。


 あの夜会場の段取りが、どれほど複雑で繊細な作業か知っているから。


 席順一つ間違えれば外交問題になる。料理の手配は三週間前に始めなければ間に合わない。楽団との打ち合わせ、招待状の文面、各国大使の好み──。


 十年かけて覚えた仕事だ。


「……ふうん」


 タルトの紙包みを片付けながら、それだけ答えた。


 もう、私の仕事ではない。

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