第五話 道に咲いていた
十二月三日が自分の誕生日だったことを、朝食の後に思い出した。
二十八歳。
数字だけ見ると、それなりの年齢だ。一度目の人生を含めれば、もっとだけれど。
宰相府にいた十年間、誕生日を祝われたことは一度もなかった。ルシアンは私の誕生日を知らなかった──正確には、聞いたことがなかったのだと思う。聞こうと思わなかったのだ。
一度目の人生でも、二度目でも。
別に構わない。大人になれば、誕生日はただの日付だ。
(さて。今日の業務は──)
事務所の扉を開けて、足が止まった。
机の上に、花が置いてある。
白い花。
一輪だけ、小さな硝子の瓶に挿してある。
丸みのある花弁が幾重にも重なった、上品な形。冬に咲く椿に似ている。ほのかに甘い香りが、事務所の潮風混じりの空気に浮いていた。
触れると、花弁が冷たかった。朝露がまだ残っている。
「……ヴォルフさん」
壁際の椅子で、ヴォルフが腕を組んで座っていた。いつもの姿勢。いつもの鉄板の顔。
「これ、あなたが?」
「道に咲いてた」
「…………道に」
「ああ。朝、歩いてたら咲いてた。それだけだ」
十二月の港町の道端に、こんな花が咲くものだろうか。
──まあ、南方だから、咲くのかもしれない。
私は港町の植物に詳しくない。王都の庭園なら品種まで言えたが、ここは違う世界だ。
「綺麗ですね。ありがとうございます」
「礼を言われることじゃない」
ヴォルフは窓の外を見ている。
耳は、見えない角度だ。残念ながら。
◇
午前の取引を済ませた後、港の市場に寄った。
目当ては、干し肉だ。
ヴォルフが昼の休憩で食べているのを何度か見ていた。いつも同じ店の、塩気の強い牛の干し肉。黙々と、あの大きな手でちぎって食べている。
店の親父に「いちばん人気のやつ」と頼んで、太い一本を買った。
事務所に戻って、ヴォルフの椅子の横に紙包みを置いた。
「お返しです」
「……何の」
「お花のお返し。どうぞ」
ヴォルフが紙包みを開けて、中身を見た。
一瞬──本当に一瞬、灰色の瞳が丸くなった。
鉄板が、動いた。二回目だ。
「……いいのか」
「ヴォルフさんがいつも食べているものですから。お口に合うかと」
「…………」
ヴォルフは干し肉をちぎって、一切れ口に入れた。
咀嚼する顎の動きが、心なしか丁寧に見える。
「……うまい」
それだけ言って、また窓の外を向いた。
よかった。
花にお返しができた。業務上の贈答品交換、成立。
(──いや、これは業務じゃないでしょう)
自分の頭の中にツッコミを入れて、帳簿を開いた。
机の端の白い花が、控えめに香っている。
◇
同じ頃、王都の宰相府では──
ルシアンは、夜会場の入り口に立ち尽くしていた。
「閣下、カルデア公国の大使が席順に不満を示しておりまして」
「何だと」
「大使の席が、ベルグラン辺境伯の下座に配置されています。条約上の序列では大使が上位ですので……」
頭が痛い。
席順表を確認する。確かに、隣国の大使が辺境伯の下に置かれている。これは外交上の侮辱に当たる。
「誰がこの席順を?」
「イレーネ様が決められました」
イレーネに席順の知識はない。なぜなら、こんな仕事をしたことがないからだ。
僕は──知っていたはずだった。この席順が、毎回完璧に組まれていたことを。
誰が組んでいたのか。
考える暇もなく、次の報告が来た。
「閣下。料理が二十人分不足しているとのことです」
「……なぜだ」
「追加招待分の手配が漏れていたようで」
さらに。
「楽団が、演奏曲目について確認の手紙が届いていないと言っています。三週間前にお送りしたはずですが」
「三週間前に──」
送っていない。
イレーネに任せたが、彼女はそもそも楽団とやり取りする方法を知らなかったのだ。
夜会場の空気が、刻一刻と凍りついていく。
隣国の大使が不快そうに席を立った。続いて、東方の外交官が二名、会釈もなく退席した。残った客の間にひそひそ声が広がる。
──前の奥様なら、こんなことには。
その囁きが、はっきりと聞こえた。
僕は、笑顔を張りつけたまま謝罪に回った。頭を下げるたびに、夜会場の照明が目に染みた。
こんなにも、と思った。
夜会という行事がこんなにも複雑で、こんなにも繊細な段取りの上に成り立っていたということを。
僕は十年間、知らなかった。
隣の席に座っていた人が、毎回これをやっていた。
一度の失敗もなく。一度の愚痴もなく。
夜会が終わった後──終わったというより崩壊した後──僕は書斎に戻り、ナディアの引き継ぎ資料の第一巻を引っ張り出した。
夜会の段取りリスト。
三ヶ月前からの準備工程表。
各国大使の席順マトリクス。
料理の人数計算シート。
楽団への連絡テンプレート。
全部、あった。全部、書いてあった。
──読んでいなかったのは、僕だ。
机に両肘をついて、額を押さえた。
書斎の窓から、冬の風が入ってくる。
「……使者を出す」
誰に言うでもなく呟いた。
「ナディアに、戻るよう伝えろ」
◇
港町の夜。
事務所の机の上で、一通の手紙を読んでいた。
差出人は、カルデア公国の外交官──宰相府時代に何度もやり取りをした相手だ。
『ナディア殿。先日の宰相府の夜会は、あまりに酷いものでした。席順の配慮も、料理の手配も、楽団との調整も──何一つまともに機能しておりませんでした。あなたがいなくなってから、宰相府の外交力は目に見えて低下しています。率直に申し上げれば、あの夜会は恥でした』
手紙を畳んだ。
嬉しくは、ない。
悲しくも、ない。
ただ──少しだけ、寂しかった。
あの段取りを、十年間やっていた。毎回、完璧に。ルシアンが一度も気づかなかった仕事を、私はずっと回していた。
それが「当たり前ではなかった」と証明されたのは、いなくなった後だった。
机の端に置いた白い花を見た。
花瓶を持っていないから、さっきから硝子の瓶に挿したままだ。水を替えよう。
花弁に触れた。
朝よりも少しだけ開いている。
道に咲いていた、とヴォルフは言った。
嘘でも本当でも──この花を置いてくれた人がいる。
それだけで、十二月三日は悪い日ではなくなった。




