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夫が愛人を正妻にするそうなので、十年尽くした宰相夫人を辞めます  作者: 九葉(くずは)


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第三話 あの方の仕事ぶりを知っているから

 「宰相府ではなく、あなたと取引したいのです」


 その言葉に、私は思わず瞬きをした。


 商会を開いて二週間。事務所の椅子に座る時間より、商談で走り回る時間の方が長い日々だ。


 目の前に座っているのは、リーデル商会の主人。宰相府の外交案件で何度もやり取りをした相手だ。白髪交じりの壮年の商人が、穏やかな目でこちらを見ている。


「宰相府との取引は打ち切りました。これからはナディア様の商会と直接お取引させていただきたい」


「……それは、ありがたいお話ですが」


 戸惑いが先に立つ。

 宰相府との取引を切るということは、公爵家の後ろ盾を失うということだ。商人にとって小さな決断ではない。


「なぜ、わざわざ」


 リーデル氏は少し笑った。


「あの方の仕事ぶりを知っているからですよ」


 あの方、と言って、私を指差した。


「南方の香辛料が港で二週間止まった時、夜中に関税の特例書類を手配してくださったのはどなたでしたか。宰相閣下ではありません。あなたです」


 覚えている。あれは結婚五年目の冬だった。ルシアンは議会答弁の準備で書斎に籠もっていて、私が代わりに対応した。


「我々は宰相府の紋章と取引していたのではない。ナディア様という人間と取引していたのです」


 鼻の奥がつんとした。

 泣かない。ここで泣いたら、商談にならない。


「ありがとうございます。精一杯、務めさせていただきます」


 深く頭を下げた。頭を下げながら、こっそり目元を指で拭った。


 この日だけで、同じような申し出が三件あった。


    ◇


 同じ日の午後、教会経由で持参金返還の金貨二百枚が届いた。


 帳簿に記入する手が、少し震えた。


 金貨百五十枚の私的蓄えに加えて、二百枚。これで商会の運転資金は十分に確保できる。仕入れの幅も広がる。従業員を雇う余裕もできるかもしれない。


(資金計画、第二段階クリア)


 十年がかりの退職計画は、今のところ予定通りに進んでいる。


 ──ただ。


 二週間前に届いた宰相府の封蝋の手紙のことが、少し引っかかっていた。あの後、意を決して開けてみたら、差出人不明。中身は遠回しな圧力──「商会の届出状況について確認したい」という、役人めいた文面だった。宰相府の誰かが、私の動向を気にしている。


 考えても仕方がない。


 今は、目の前の帳簿だ。


    ◇


 気がつくと、深夜だった。


 蝋燭が短くなっている。机の上には帳簿が三冊、広げたまま。リーデル商会との取引条件、南方航路の運賃比較、関税の計算書──。


 ……いつの間にか、宰相府にいた頃と同じことをしている。


 夜中まで一人で数字と向き合って、誰にも気づかれず、朝になったらまた笑顔で人に会う。


 ふいに、視界の端が暗くなった。


 冬の路地裏。

 石畳の冷たさ。息が白い。体が動かない。


 誰もいない。

 誰も、来ない。


 ──一度目の私は、こうやって死んだのだ。


 追い出されて、行く場所を失って、お金もなく、寒さの中で倒れて。最後に見たのは、灰色の空だった。曇りだったのか、夕方だったのか、もう覚えていない。覚えているのは、冷たかったということだけ。


 指先が震えた。

 帳簿の数字が滲んで見える。


 今は違う。今回は、違うのだ。

 お金はある。居場所もある。計画通りに進んでいる。


 ──でも。


 一人だということは、変わらない。


 そのまま、机に突っ伏した。

 蝋燭が、じじ、と音を立てて揺れた。


    ◇


 目を覚ましたのは、肩に温もりを感じたからだった。


 毛布。


 薄い灰色の、少し毛羽立った毛布が、私の肩にかけられている。


 顔を上げると、机の端に紙包みが置いてあった。焼きリンゴのタルトが一つ。まだほんのり温かい。


 事務所の隅に目をやると──


 ヴォルフが壁に背をもたれて座っていた。


 外套を肩にかけたまま、目を閉じている。眠っているのかと思ったが、私が身じろぎした途端、灰色の瞳がすっと開いた。


「……起きたか」


「ヴォルフさん、ここに泊まって……?」


「鍵がかかってなかった」


 それだけ言って、立ち上がる。


 立ち上がる時、一瞬だけ──本当に一瞬だけ、彼の視線が机の上の帳簿の山に向いた。


 そしてわずかに、眉をひそめた。


 何かを思い出したような、懐かしいような。そんな表情が、鉄板のような顔の上を通り過ぎて──すぐに消えた。


「……何か?」


「いや」


 ヴォルフは窓を開けて、朝の潮風を入れた。


 毛布には、まだ体温が残っていた。


 私はタルトをひと口かじった。

 甘い。昨夜の冷たさが、少しだけ遠くなった。


(……今回は、一人じゃない。のかもしれない)


 それから。


 午前中、港の市場に買い出しに行ったついでに、家具屋に寄った。


 背もたれの高い、肘掛けつきの椅子。

 座面が広くて、長時間座っても膝に負担がかかりにくいもの。


 事務所に戻って、ヴォルフがいつも壁際に立っている場所に置いた。


「……何だ、これ」


「椅子です。立ちっぱなしだと膝に良くないでしょう」


 ヴォルフが、少し目を見開いた。


 鉄板が動いた。


「……気づいてたのか」


「護衛を雇う面接の時から」


 ヴォルフは椅子を見下ろし、それからゆっくりと腰を下ろした。ぎしり、と木が軋む。大きな体には少し小さいかもしれない。


 でも、座ったまま、しばらく動かなかった。


「……悪いな」


「いいえ。護衛に倒れられたら困りますので」


 業務上の配慮です、という顔をした。


 そういうことにしておいた方が、たぶん、お互いに楽だ。


    ◇


 夕方。


 ヴォルフが事務所の入り口から郵便を持ってきた。数通の取引書類に混じって、一通だけ──見覚えのある筆跡の封筒が入っている。


 ルシアンの字だ。


 封蝋は宰相府の紋章ではなく、ヴェルトハイム公爵家の個人紋。公的な文書ではなく、私信だった。


 封筒の表に「ナディアへ」とだけ書いてある。


 ……十年間、この字を毎日見ていた。外交文書の署名欄。領地への指示書。私への書き置き──「今夜は遅くなる」「夕食はいらない」。


 結局、この人が私に宛てた手紙で「ありがとう」の三文字が書かれていたことは、一度もなかった。


 引き出しを開けて、封筒をしまった。


 封は、切らない。


「読まなくていいのか」


 ヴォルフが低く聞いた。

 壁際の椅子から、灰色の瞳がこちらを見ている。


「読む必要がありませんので」


 微笑んだ。

 営業用の笑顔ではなく、たぶん本物の──少しだけ寂しい、でも晴れやかな笑顔が出た。


 ヴォルフは何も言わなかった。


 ただ、焼きリンゴのタルトの紙包みを、そっと机の端に寄せた。


 今日の分。

 いつ買ってきたのだろう。毎朝、事務所に来る前に菓子屋に寄っているのだろうか。


 私はタルトに手を伸ばして、ひと口かじった。


 引き出しの中の手紙のことは、もう考えなかった。

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