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夫が愛人を正妻にするそうなので、十年尽くした宰相夫人を辞めます  作者: 九葉(くずは)


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第二話 護衛の条件は、茶菓子付きの休憩です

 港町ヴェスターハーフェンは、潮の匂いと商人の怒鳴り声でできている。


 宰相府の廊下を歩いていた三日前が嘘のようだ。ここには絹のカーテンも銀の燭台もない。代わりに、荷馬車の車輪がごろごろと石畳を鳴らし、魚売りのおばさんが裏返った声で値段を叫んでいる。


 ──悪くない。


 私は宿の部屋で帳簿を広げ、今日の予定を確認した。


 商会設立届の提出。事務所の賃貸契約。護衛の雇用。


(業務初日にしては、予定を詰め込みすぎかしら)


 前世の記憶では「やることリスト」という便利な言葉があった気がする。今の私にぴったりだ。


    ◇


 港町の役所は、潮風でくすんだ石造りの建物だった。


 窓口の男が、私の提出した書類と私の顔を交互に見ている。


「商会設立届……ですか。ええと、資本金は」


「金貨八十枚です。残りは運転資金として手元に」


「ずいぶん……お若いのに」


 若い、ではない。女だから驚いているのだ。それも、明らかに貴族育ちの身なりをした女が、一人で商会を開くと言い出したのだから。


 窓口の男の目が泳ぐ。

 隣の同僚とひそひそ声で何かを交わしている。


 聞こえていますよ、と言いたいのを飲み込んだ。


「書類に不備はございませんか?」


「……いえ、不備は」


「では、受理をお願いいたします」


 にっこり笑った。

 十年間、宰相府で各国の外交官を相手にしてきた笑顔だ。この程度の窓口対応で怯むようでは、あの十年間が無駄になる。


 窓口の男は、少し居心地悪そうに判を押した。


 受理印の朱い色が、書類の上に丸く滲んだ。


(第一関門、突破)


 次。護衛の雇用。


    ◇


 港町の酒場は、昼間から薄暗い。


 天井の梁に干物がぶら下がっていて、潮と酢と酒が混じった匂いがする。

 宰相府の食堂とはずいぶん違う。でも、この匂いは嫌いではない。生活の匂いだ。


 酒場の親父に「腕の立つ何でも屋を知らないか」と聞いたら、奥の席を顎で指された。


 壁際の一番暗い席に、男が一人座っていた。


 ──大きい。


 それが最初の印象だった。外套を羽織った広い肩幅。テーブルに置かれた手は、私の顔ほどもある。使い込まれた革手袋の下に、古い傷跡が見える。


 そして──右膝を、少しかばうように足を組んでいた。


 三日前、宿の前ですれ違った背中を思い出す。あの時感じた胸のざわつきが、微かに戻った。


「失礼します。護衛を探しているのですが」


 男が顔を上げた。


 灰色の瞳。深い彫りの顔立ち。年齢は三十代後半だろうか。表情は──ない。鉄板のように動かない顔だ。


「……座れば」


 短い。会話の潤滑油のような言葉を一切使わない人らしい。


 向かいに座った。


「私はナディアと申します。港町で貿易商会を開くことになりまして。護衛を一名、お願いしたいのですが」


「ヴォルフ。何でも屋だ」


 名乗りも短い。


「報酬は月額銀貨八十枚を想定しています。勤務内容は商談への同行と事務所の警備が主に──」


「高い」


「……え?」


「銀貨五十でいい」


 思わず瞬いた。

 相場より安い。港町で腕の立つ護衛を雇うなら、銀貨八十は最低ラインのはずだ。


「それでは生活が」


「条件がある」


 ヴォルフが腕を組んだ。


「茶菓子付きの休憩。それがあれば五十でいい」


「…………茶菓子?」


「嫌なら別の奴を探せ」


 嫌ではない。嫌ではないが、護衛の雇用面接で「茶菓子付き休憩」を条件に出されるとは思わなかった。


(採用条件が福利厚生の充実って、どこの……)


 前世の記憶が妙なところで顔を出す。


「……承知しました。では、ヴォルフさん。明日からよろしくお願いします」


「ああ」


 立ち上がる時、ヴォルフが私の荷物──帳簿と辞書の入った重い鞄を、何も言わずに持ち上げた。


「あ、それは自分で」


「重い」


 それだけ言って、先に歩き出す。


 右膝をわずかにかばいながら。それでも、大股の一歩は速い。


 ……変わった人だ。


 でも、不思議と嫌な感じはしなかった。


    ◇


 初めての商談は、その日の午後に来た。


 港町の仲買商人──マルテという三十がらみの男が、商会の事務所に顔を出した。小柄だがよく響く声の持ち主で、開口一番こう言った。


「あんたが新しい商会の? 女一人で?」


「ええ。よろしくお願いいたします」


「ふうん。で、何を扱うんだ」


 私は準備しておいた通商条約の抜粋を広げた。


「南方諸国からの香辛料と薬草の仲介を考えています。現行の通商条約では、港町経由の中継貿易に関税の減免措置がありまして──」


 マルテの目つきが変わった。


「……その条項、知ってるのか。役所の連中でも見落としてるやつだぞ」


「以前、少しだけ関連の仕事をしておりましたので」


 少しだけ、ではない。十年間ずっとだ。でも、それは言わなくていい。


 交渉は三十分で成立した。マルテは最後に、壁際で腕を組んでいるヴォルフを一瞥してから「おたくの護衛、でかいな」と呟いて帰っていった。


 ヴォルフは商談の間、一言も口を開かなかった。壁に背をつけて立っているだけだ。なのに、マルテが最初に座った時、明らかに背筋を伸ばし直していた。


 あの体躯で無言で立たれたら、そうなるだろう。


 商談が終わった後、机の上に紙包みが置いてあるのに気づいた。


「ヴォルフさん、これは?」


「茶菓子。条件だっただろう」


 開けると、焼きリンゴのタルトが二つ入っていた。


 ──好きだ、これ。


 宰相府にいた頃、厨房に頼んでたまに焼いてもらっていた。この港町にも同じものを売る店があるのか。


「ありがとうございます。好物なんです、これ」


「……そうか」


 ヴォルフは窓の外を見たまま、短く答えた。


 その横顔は相変わらず鉄板みたいに動かない。けれど、耳の先がほんの少しだけ赤い──気がしたのは、夕日のせいだろう。


 たぶん。


 タルトをひと口かじった時、事務所の扉を叩く音がした。


 届け物だ。

 商会の開業届を出したばかりだというのに、もう郵便が来るとは──


 受け取った封筒を見て、手が止まった。


 赤い封蝋。

 見覚えのある紋章が、べったりと押されている。


 宰相府の紋章だ。


 差出人の名前はない。

 中身も確認していない。けれど、封蝋の紋章だけで、口の中のタルトの甘さが遠くなった。


「……どうした」


 ヴォルフが、壁際から低い声で聞いた。


「いえ。何でもありません」


 封筒を引き出しにしまい、タルトの残りを口に入れた。


 甘い。ちゃんと甘い。

 この味を、宰相府の紋章に台無しにされたくなかった。


    ◇


 宰相府の書斎は、地獄だった。


 ルシアンは机に積み上がった書類の山を前に、三度目の溜め息をついた。


「閣下、こちらの外交文書ですが、隣国への返書の締切が明後日です」


「明後日? 聞いていないぞ」


「奥方──いえ、前の奥方様が管理されていたようで、我々も把握しておりませんでした」


 部下の言葉が胸に刺さった。


 ナディアがいなくなって四日。

 それまで「自動的に」処理されていた書類が、突然行き先を失っている。翻訳案件、スケジュール管理、取引先との連絡調整──どれ一つとして、僕の名前で依頼した覚えがないのに、完璧に回っていた仕事だ。


「書棚の三段目だと言っていたな……」


 引き継ぎ資料を引っ張り出す。


 三冊。

 一冊目を開いた瞬間、息が止まった。


 ナディアの筆跡で、びっしりと。


 外交文書の一覧。翻訳案件ごとの進捗。各国担当者の名前と性格の特徴。「この方は朝が弱いので午後に連絡すること」「この大使は手土産に白ワインを好む」──そんな細かい注記まで、全部。


 二冊目。通商協定の更新スケジュール。向こう三年分の日程が、月単位で組まれていた。


 三冊目。領地会計。十年間の収支が一銅貨の狂いもなく記録されている。


「……こんなに、あったのか」


 呟いた声が、がらんとした書斎に落ちた。


 そうだ。これだけの仕事が「あった」のだ。

 十年間、毎日。ずっと。


 僕は、それを知らなかった。


 三冊目の最後のページに指が触れた時、机の上の書類が崩れ落ちた。慌てて手で押さえる。資料の続きを読む余裕はない。


 締切は明後日だ。


 ナディアの資料を片手に、僕は部下を呼んだ。


 ──あの席に座っていた人の名前を、初めて業務命令の中で口にした。

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