表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
夫が愛人を正妻にするそうなので、十年尽くした宰相夫人を辞めます  作者: 九葉(くずは)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

1/10

第一話 引き継ぎ資料は書棚の三段目です

「長い間、お世話になりました」


 十年間の結婚生活を、私はその一言で終わらせた。


 ──いや、正確に言えば終わらせたのは目の前の男だ。私はただ、処理を済ませただけ。


 秋の夕暮れ。

 宰相府の食堂には、いつもと同じ二人分の食事が並んでいる。銀の燭台が、白い食卓布の上にゆらゆらと影を落としていた。


 向かいの席で、ルシアンが銀のフォークを置いた。


「ナディア。話がある」


 知っている。


「イレーネを、正妻として迎え入れようと思う」


 知っている。


「君には……別邸を用意するつもりだ。不自由のないようにする。そこは約束する」


 全部、知っている。


 ルシアンの声は穏やかだった。罪悪感はあるのだろう。彼なりに、配慮をしているつもりなのだろう。別邸。体のいい追い出し先に、きちんとした名前をつけてくれる律儀さだけは十年変わらない。


 一度目の人生でも、まったく同じ言い方だった。


 私は微笑んだ。


「存じております」


「──え?」


「イレーネ様のことでしょう? 三年ほど前からお付き合いがあることも、存じております」


 ルシアンの目が見開かれた。

 彼が動揺で言葉を失うのは珍しい。議会では誰よりも弁が立つ人なのに。


「ですので」


 私は姿勢を正した。


「離縁届は二週間前に教会へ提出いたしました。不貞を正当事由として、証人も二名つけてあります。本日付で承認が下りましたので、ご報告まで」


 食堂が、しん、と静まった。


 銀の燭台が、蒼白になったルシアンの顔を照らしている。


「何を……言って……」


「引き継ぎ資料は書棚の三段目です」


 指を一本立てる。


「外交文書の翻訳案件と各国担当者の連絡先が第一巻。通商協定の更新スケジュールと交渉時の注意事項が第二巻。領地の会計帳簿と取引先一覧が第三巻。付箋のついた箇所は今月中に対応が必要なものですので、お早めに」


 一つ、二つ、三つ。

 十年分の仕事を三冊にまとめるのに、まる二ヶ月かかった。我ながら馬鹿げた労力だと思う。でも、まとめなければ困るのは残される側だ。


(これが最後の業務だから。きちんと引き継ぎはしないと)


 退職する社員の心得、というやつだ。前世の記憶の中にそんな言葉があった気がする。


「お体に気をつけて。それでは」


 椅子を引き、立ち上がる。

 背筋は伸ばしたまま。裾を踏まないように、一歩、二歩。


 ルシアンが何か言いかけた気配がした。


 けれど、言葉になる前に食堂の扉を閉めた。


 十年間、毎晩歩いた廊下だ。

 夜会の準備で走り回ったことも、真夜中に外交文書を抱えて書斎へ駆け込んだこともある。


 全部、終わり。


 不思議と足取りは軽かった。


    ◇


 私室に戻り、旅支度を確認する。


 荷物は驚くほど少ない。着替えが三着。帳簿と筆記具。翻訳用の辞書が一冊。それから──目には見えないもの。


 前世の記憶。


 結婚三年目の冬だった。高熱で三日間寝込んだ夜、唐突に「一度目の人生」が頭の中に流れ込んできた。


 一度目の私は、もっと愚かだった。


 ルシアンに「別の女を正妻にする」と告げられた時、泣いて縋った。「私の何がいけなかったの」とみっともなく問い詰めた。

 結果、追い出された。持参金の返還もなく、実家にも帰れず、冬の路地裏で倒れて──そのまま。


 二度目の人生を自覚したあの夜、私は寝台の上で泣いた。

 悔しかったんじゃない。答え合わせができてしまったのだ。


 ルシアンは悪人ではない。

 ただ、決定的に──鈍い。


 政治の場では誰よりも頭が切れる。議会答弁も、外交交渉も、この国で彼の右に出る者はいない。なのに隣で十年間、毎晩夕食を共にした妻が何を食べて、何を好んで、何に疲れているか。一度も気にしたことがない人だ。


 政策の行間は読めるのに、人の行間は読めない。


 でも、その鈍さを糾弾しても何も変わらない。一度目の人生で学んだ。


 だから私は、泣く代わりに帳簿を開いた。


 結婚三年目から七年目まで──ルシアンの不貞が始まるまでの四年間。ひたすら翻訳の仕事を受け、報酬を別口座に貯めた。宰相府の仕事で築いた人脈を、「宰相府の名前」ではなく「ナディア個人の信用」として育てた。


 結婚七年目、ルシアンがイレーネに心を移した。

 これで正当事由が成立する。

 そこからの三年間で、証拠を固め、離縁後の生活を設計した。


 離縁届を出した時、教会からルシアンにも通知は届いているはずだ。けれどあの人のことだから、読まなかったのだろう。公爵家の郵便物は山のように届く。その中の一通に、自分の結婚の終わりが書かれているとは思いもしないのだ。


 七年。


 長かった。本当に、長かった。

 でも、一度目の人生で死んだ私に比べたら──七年分の準備ができただけ、ずっとましだ。


 旅支度を肩にかけて、宰相府の裏口を出る。


 振り返らなかった。


    ◇


 馬車に揺られて丸一日。


 窓の外の景色が、王都の石畳から田園に、田園から海沿いの街道に変わっていく。


 一度目の人生では見ることのなかった景色だ。あの時の私は追い出された後、王都の裏通りをさまよっていた。行く場所もない、頼る人もいない。嫁ぎ先にすべてを捧げた女の末路。


 ……でも、今回は違う。


 七年分の蓄えがある。

 人脈がある。

 通商条約の知識がある。


 そして、行く場所を決めてある。


 港町ヴェスターハーフェン。

 南方の通商都市。各国との貿易路が交差する、商売人の町。宰相府の仕事で何度も名前を見た。ここに貿易商会を開く。


 もう誰かのために生きなくていい。


 今度こそ、私の人生を生きる。


 馬車が港町の石畳に入った頃には、日が暮れかけていた。潮の匂いが窓の隙間から滑り込んでくる。遠くで、船の汽笛が鳴った。王都にはない音だ。


 宿の前で馬車を降りる。

 荷物を抱えて門をくぐろうとした時──誰かとすれ違った。


 大きな背中だった。


 外套の下の広い肩幅。少しだけ右足をかばうような歩き方。人混みの中でもひときわ目を引く体躯が、すれ違いざまに視界を横切っていく。


 胸の奥が、ほんの少しだけ、ざわついた。


 見知らぬ人のはずだ。

 なのに、潮風に混じって微かに届いた匂い──火にかけた薬草のような、温かい匂いが、記憶のどこかを引っ掻いた。


 振り返った時には、もうその背中は人混みに消えていた。


 ……気のせいだ。きっと。


 私は荷物を抱え直して、宿の扉を押した。


 新しい人生の一日目が始まる。


    ◇


 食堂にひとり残されたルシアンは、冷めた紅茶のカップを握ったまま動けずにいた。


 ナディアが座っていた椅子は、きちんと元の位置に戻されている。食器も片付けられていた。いつ準備したのか──その場所には、小さな封筒が一通だけ置かれている。


 教会の紋章入りの封蝋。

 離縁承認書の写し。


 ……僕は。


 十年間、あの席に誰が座っていたのか。


 今夜初めて、考えている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ