第一話 引き継ぎ資料は書棚の三段目です
「長い間、お世話になりました」
十年間の結婚生活を、私はその一言で終わらせた。
──いや、正確に言えば終わらせたのは目の前の男だ。私はただ、処理を済ませただけ。
秋の夕暮れ。
宰相府の食堂には、いつもと同じ二人分の食事が並んでいる。銀の燭台が、白い食卓布の上にゆらゆらと影を落としていた。
向かいの席で、ルシアンが銀のフォークを置いた。
「ナディア。話がある」
知っている。
「イレーネを、正妻として迎え入れようと思う」
知っている。
「君には……別邸を用意するつもりだ。不自由のないようにする。そこは約束する」
全部、知っている。
ルシアンの声は穏やかだった。罪悪感はあるのだろう。彼なりに、配慮をしているつもりなのだろう。別邸。体のいい追い出し先に、きちんとした名前をつけてくれる律儀さだけは十年変わらない。
一度目の人生でも、まったく同じ言い方だった。
私は微笑んだ。
「存じております」
「──え?」
「イレーネ様のことでしょう? 三年ほど前からお付き合いがあることも、存じております」
ルシアンの目が見開かれた。
彼が動揺で言葉を失うのは珍しい。議会では誰よりも弁が立つ人なのに。
「ですので」
私は姿勢を正した。
「離縁届は二週間前に教会へ提出いたしました。不貞を正当事由として、証人も二名つけてあります。本日付で承認が下りましたので、ご報告まで」
食堂が、しん、と静まった。
銀の燭台が、蒼白になったルシアンの顔を照らしている。
「何を……言って……」
「引き継ぎ資料は書棚の三段目です」
指を一本立てる。
「外交文書の翻訳案件と各国担当者の連絡先が第一巻。通商協定の更新スケジュールと交渉時の注意事項が第二巻。領地の会計帳簿と取引先一覧が第三巻。付箋のついた箇所は今月中に対応が必要なものですので、お早めに」
一つ、二つ、三つ。
十年分の仕事を三冊にまとめるのに、まる二ヶ月かかった。我ながら馬鹿げた労力だと思う。でも、まとめなければ困るのは残される側だ。
(これが最後の業務だから。きちんと引き継ぎはしないと)
退職する社員の心得、というやつだ。前世の記憶の中にそんな言葉があった気がする。
「お体に気をつけて。それでは」
椅子を引き、立ち上がる。
背筋は伸ばしたまま。裾を踏まないように、一歩、二歩。
ルシアンが何か言いかけた気配がした。
けれど、言葉になる前に食堂の扉を閉めた。
十年間、毎晩歩いた廊下だ。
夜会の準備で走り回ったことも、真夜中に外交文書を抱えて書斎へ駆け込んだこともある。
全部、終わり。
不思議と足取りは軽かった。
◇
私室に戻り、旅支度を確認する。
荷物は驚くほど少ない。着替えが三着。帳簿と筆記具。翻訳用の辞書が一冊。それから──目には見えないもの。
前世の記憶。
結婚三年目の冬だった。高熱で三日間寝込んだ夜、唐突に「一度目の人生」が頭の中に流れ込んできた。
一度目の私は、もっと愚かだった。
ルシアンに「別の女を正妻にする」と告げられた時、泣いて縋った。「私の何がいけなかったの」とみっともなく問い詰めた。
結果、追い出された。持参金の返還もなく、実家にも帰れず、冬の路地裏で倒れて──そのまま。
二度目の人生を自覚したあの夜、私は寝台の上で泣いた。
悔しかったんじゃない。答え合わせができてしまったのだ。
ルシアンは悪人ではない。
ただ、決定的に──鈍い。
政治の場では誰よりも頭が切れる。議会答弁も、外交交渉も、この国で彼の右に出る者はいない。なのに隣で十年間、毎晩夕食を共にした妻が何を食べて、何を好んで、何に疲れているか。一度も気にしたことがない人だ。
政策の行間は読めるのに、人の行間は読めない。
でも、その鈍さを糾弾しても何も変わらない。一度目の人生で学んだ。
だから私は、泣く代わりに帳簿を開いた。
結婚三年目から七年目まで──ルシアンの不貞が始まるまでの四年間。ひたすら翻訳の仕事を受け、報酬を別口座に貯めた。宰相府の仕事で築いた人脈を、「宰相府の名前」ではなく「ナディア個人の信用」として育てた。
結婚七年目、ルシアンがイレーネに心を移した。
これで正当事由が成立する。
そこからの三年間で、証拠を固め、離縁後の生活を設計した。
離縁届を出した時、教会からルシアンにも通知は届いているはずだ。けれどあの人のことだから、読まなかったのだろう。公爵家の郵便物は山のように届く。その中の一通に、自分の結婚の終わりが書かれているとは思いもしないのだ。
七年。
長かった。本当に、長かった。
でも、一度目の人生で死んだ私に比べたら──七年分の準備ができただけ、ずっとましだ。
旅支度を肩にかけて、宰相府の裏口を出る。
振り返らなかった。
◇
馬車に揺られて丸一日。
窓の外の景色が、王都の石畳から田園に、田園から海沿いの街道に変わっていく。
一度目の人生では見ることのなかった景色だ。あの時の私は追い出された後、王都の裏通りをさまよっていた。行く場所もない、頼る人もいない。嫁ぎ先にすべてを捧げた女の末路。
……でも、今回は違う。
七年分の蓄えがある。
人脈がある。
通商条約の知識がある。
そして、行く場所を決めてある。
港町ヴェスターハーフェン。
南方の通商都市。各国との貿易路が交差する、商売人の町。宰相府の仕事で何度も名前を見た。ここに貿易商会を開く。
もう誰かのために生きなくていい。
今度こそ、私の人生を生きる。
馬車が港町の石畳に入った頃には、日が暮れかけていた。潮の匂いが窓の隙間から滑り込んでくる。遠くで、船の汽笛が鳴った。王都にはない音だ。
宿の前で馬車を降りる。
荷物を抱えて門をくぐろうとした時──誰かとすれ違った。
大きな背中だった。
外套の下の広い肩幅。少しだけ右足をかばうような歩き方。人混みの中でもひときわ目を引く体躯が、すれ違いざまに視界を横切っていく。
胸の奥が、ほんの少しだけ、ざわついた。
見知らぬ人のはずだ。
なのに、潮風に混じって微かに届いた匂い──火にかけた薬草のような、温かい匂いが、記憶のどこかを引っ掻いた。
振り返った時には、もうその背中は人混みに消えていた。
……気のせいだ。きっと。
私は荷物を抱え直して、宿の扉を押した。
新しい人生の一日目が始まる。
◇
食堂にひとり残されたルシアンは、冷めた紅茶のカップを握ったまま動けずにいた。
ナディアが座っていた椅子は、きちんと元の位置に戻されている。食器も片付けられていた。いつ準備したのか──その場所には、小さな封筒が一通だけ置かれている。
教会の紋章入りの封蝋。
離縁承認書の写し。
……僕は。
十年間、あの席に誰が座っていたのか。
今夜初めて、考えている。




