第三十九話 あんたの勝ちだ
会議場は、ギルド長の館の一階広間だった。壁に港町の地図。窓から入る九月の朝の光が木の床を白く照らしている。
テオをマルテに預けてきた。「行ってこい、姐さん」と言いながらガラガラを振っていた。テオはマルテの膝の上で機嫌がいい。
長机が三列。各国の代表、王都の商人、ギルドの役員。四十人ほど。港町でこれほどの人数が集まったのは初めてだ。
入口で深呼吸した。
隣に、ヴォルフが立っている。
正装だった。
黒の上着。銀のボタン。仕立屋に任せたのだろう、肩幅に合わせて正確に裁たれている。普段の作業着とは別人のようだが、背筋の角度は変わらない。
一瞬だけ、上着の袖に触れた。布地が硬い。新しい生地の手触り。一度も袖を通していなかったのだ。今朝、初めて着たのか。
「似合ってます」
「……うるさい」
それだけで、緊張が少しだけほどけた。
壇上に進んだ。
◇
「通商条約第十二条に基づき、港町ヴェスターハーフェンを特別経済区域に指定する構想をご提案いたします」
声が広間に反響した。手元の書類は見ない。この条文は暗唱できるまで読み込んだ。
法的根拠を述べた後、クルトが壇上に立った。
「港町の直近六ヶ月間の取引実績をご報告いたします」
声が少し震えていた。でも止まらなかった。途中で一度、壇上からこちらを見た。確認の目線。私は小さく頷いた。声の震えが消えた。
「以上のデータは、ナディア殿の指導のもと、商人連合が独自に収集・分析したものです」
ナディア殿。姐さん、ではなく。
エルマが続いて運用計画を発表した。質疑応答にも一人で答えた。私が口を挟む必要はなかった。
枢密院の委員が書記に指示した。即時承認ではない。でも、審議入りの決定。
◇
休憩を挟んで、午後の部が始まった。
各商会からの提案が続く。三番目に、フリッツが立ち上がった。
「私からも、通商の効率化に関する提案がございます」
書類を広げた。枢密院に事前提出したという草案。
聞き始めて、背中が冷えた。論理の組み立て方、条文の引用順序、附則への言及のタイミング。私の「型」だ。宰相府で間近に見て覚えたのだろう。十年間で磨いた手法が、そのまま使われている。
ただし中身が薄い。条約の深読みがない。反論への備えがない。
カルデアの外交官が手を挙げた。あの気難しい顔。
「失礼ですが、この提案書の論理構成はナディア殿のものと酷似しています。条文の引用順序、附則への言及パターン。以前からナディア殿の手法を見てきた者として、偶然とは考えにくい」
会場がざわついた。
フリッツの顔から血の気が引いた。
「それは……参考にはしましたが、独自の分析を」
「独自の分析とおっしゃいますが、結論への導き方まで同じです」
「私も宰相府で通商実務に携わっておりましたので……」
「では、こちらをご覧ください」
私は立ち上がらなかった。クルトが立った。
三者署名入り原本を提示した。作成日、九月三日。フリッツが枢密院に提出した日付は九月八日。
「この提案書は、私たち三名が共同で作成し、署名したものです。作成日はフリッツ殿の提出日より五日前です」
フリッツが口を開きかけた。閉じた。もう一度開いた。言葉が出ない。
会場が静まった。
枢密院の委員が書記に指示した。今度は別のことを書いているだろう。
フリッツは最後まで何も言わなかった。席に戻り、書類を抱えたまま俯いた。翌日、王都の商人ギルドから除名の通知が届くことを、この時の私はまだ知らない。
◇
会議が終わった。広間の外。港の風。
ヴィクトルが歩いてきた。供の者を下がらせている。
「ナディア殿」
「ハーゲン殿」
「あんたの勝ちだ」
静かな声だった。怒りも未練もない。商人としての決算報告のような声。
「港町からは撤退する。倉庫の契約は順次解消する」
「ありがとうございます」
「礼を言われることじゃない。負けただけだ」
一歩、踵を返しかけて、止まった。
「一つ聞いていいか」
「どうぞ」
「あんたが育てた連中は、あんたがいなくても戦えるのか」
即答できなかった。
クルトの声が壇上で震えていたことを思い出す。エルマが質疑応答で一人で答えたことを思い出す。三者署名の原本を、三人で保管していることを思い出す。
戦える、と言い切りたかった。でも、まだだ。
「……今は、まだ」
「正直だな」
ヴィクトルが背中を向けた。何か言いかけて、やめた。そのまま港の光の中に消えていく。
即答できなかった。それは正直だったと思う。でも、答えが出ないのと答えがないのは違う。答えは、これから作る。
壇上から降りてきたクルトが「姐さん」と呼びかけて、途中で口を閉じた。周囲にまだ人がいることに気づいたのだ。
「……ナディア殿。お疲れ様でした」
「お疲れ様でした、クルト」
ヴォルフが壁際に立っていた。腕を組んでいる。拳は握られていない。あの日とは違う。怒りの代わりに、信頼がある。
手首の内側に、九月の風が当たった。涼しかった。
事務所に戻ると、机の上に封書が一通。ヴェルトハイム公爵家の封蝋。ルシアンの字ではない。角張った力強い字。エドムント。
『商人学校の話を聞いた。面白い試みだ。かつてわしがしようとしたことの、もっとましなやり方だな。』
善意の檻を作ろうとした男が、善意の別の形を認めている。手紙を書類ファイルにしまった。返事は書かない。この手紙は、それ自体が返事だから。




