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夫が愛人を正妻にするそうなので、十年尽くした宰相夫人を辞めます  作者: 九葉(くずは)
第4章

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第三十八話 机の脚は、いつの間に直ったんですか

 九月に入って、港町の空気が変わった。


 夏の濃い潮風が薄くなり、朝晩に涼しさが混じり始めている。事務所の窓を開けると、遠くの水平線がくっきりと見える。秋が近い。


 通商会議まで一週間。


「ギルド長には、なりません」


 ブルクハルトの見舞いに行った時、正式に伝えた。


 ブルクハルトは寝台の上で目を細めた。三月に倒れてから半年。顔色は戻ってきたが、体力は戻りきらない。杖があれば歩ける。でも長時間は椅子に座れない。


「……わかっておった」


「え?」


「あの日、あんたが『私の仕事でしょうか』と言うた時に、わかっておった。この人は椅子に座る人間ではないと」


 見抜かれていた。三月の時点で。


「代わりに、商人連合の顧問として仕組みを作ります。ギルド長はもう少し、ブルクハルト殿が座ってください」


「まだわしが座る。だが、あと数年だ」


「その間に、次の人を育てます」


 ブルクハルトが白髭の奥で笑った。久しぶりに見る笑い方だった。



    ◇



 事務所に戻り、提案書の最終仕上げに入った。


 机の上に三つの書類が並んでいる。


 一つ目は私の担当。通商条約第十二条に基づく特区構想の法的根拠と条件整理。これは自分で書いた。宰相府の十年間の蓄積がなければ書けない内容だ。


 クルトの担当は港町の取引実績と共同倉庫の運用データ。数字の並べ方が三ヶ月前とは見違えている。エルマの運用計画は八割方正確で、私が修正したのは二箇所だけだった。


「署名しましょう」


 三人で机を囲んだ。


(連名か。前世でもやったな。稟議書の……何だったか)


 思い出せない。でも、あの時は形式的な署名だった。今は違う。


 署名用のインクが重い。粘度の高い墨液。公式文書用の、乾きにくいインク。


 私が先に署名した。


 クルトがペンを握った。筆圧が強い。紙に食い込むような力で、名前を書く。元騎士の手が、ペンに慣れた証拠。


「姐さん。これで」


「ナディア殿、と書いてありますよ」


「え?」


「署名欄の上。あなたの名前が『ナディア殿』になっています」


 クルトが赤くなった。署名欄の肩書きに「ナディア殿代理」と書こうとして「殿」で止まったらしい。


「消さなくていいです。そのままで」


 エルマが静かに署名した。三つの名前が、一枚の紙の上に並ぶ。


 私の仕事だ。……いや、私たちの仕事だ。


 原本を三部作成した。一部は私が、一部はクルトが、一部はエルマが保管する。作成日を記入。九月三日。


 マルテが夕方に来て、別の話を持ってきた。


「フリッツって男、最近枢密院の周りをうろついてるらしいぜ。何か出そうとしてるのかもな」


 何かを出す。提案書か。


 あの男がどんな提案書を出しても、私たちの原本には三者の署名と作成日が入っている。模倣であることは証明できる。


 不安がないと言えば嘘になる。でも、不安があるということは、賭けているということだ。賭ける相手がいる。クルトが書いた数字と、エルマが書いた計画と、ブルクハルトが見つけた条項がある。


 一人で書いた引き継ぎ資料とは、違う。





 前夜。事務所の机に向かっていた。明日の発表の段取りを最終確認している。


 テオはもう寝た。ヴォルフが寝かしつけてくれた。最近、テオが走り回るようになって、寝かしつけに時間がかかる。ヴォルフが追いかける姿は、正直に言って少しおかしい。


 書類を確認しながら、ふと気づいた。


 机がぐらつかない。


 三ヶ月前まで、この机は左の前脚が少し短くて、書き物をすると紙が揺れた。毎回、紙の下に端切れを敷いて調整していた。


 今は、揺れない。


「……いつの間に直ったんですか」


 ヴォルフが台所から顔を出した。


「何がだ」


「机の脚です。ぐらつかなくなってます」


「……さあ」


 さあ、ではない。この家で木を削れる人間は一人しかいない。


 何も聞かない。聞かなくてもいい。


 マルテが昼間に言っていた言葉を思い出す。


「ヴォルフの旦那、仕立屋に行ったらしいぜ。正装を仕立てたって」


 正装。あの男が。


 通商会議に来るつもりなのだ。私の隣に立つために。


 薬指の付け根が、少しだけ熱い。指輪が肌に馴染んで、もう外せない温度。


 窓の外で、波の音がしている。九月の夜風が書類の端を揺らす。机は揺れない。


 明日だ。


「行きましょう」


 階段の上に声をかけた。


「ああ」


 短い。変わらず、短い。


 でも、同じ返事のはずなのに、二年半前とは重さが違う。

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