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夫が愛人を正妻にするそうなので、十年尽くした宰相夫人を辞めます  作者: 九葉(くずは)
第4章

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第三十七話 頼まれなくても

 ルシアンは、馬車ではなく徒歩で来た。


 供は二人。以前の宰相行列とは違う。公爵の私的な訪問として、静かに港町の石畳を歩いてきた。


 事務所の扉が叩かれた時、私は帳簿を閉じて立ち上がった。


「お久しぶりです」


 二年半ぶりだ。


 痩せていた。頬の線が鋭くなっている。目の下の隈は消えたが、代わりに目尻の皺が増えた。襟元が少し緩い。宰相時代は完璧に整えていた人なのに。


「ナディア殿。お元気そうで」


「ええ。公爵職もお忙しいのですね」


 業務的に返した。業務的にしか返せなかった。十年分の記憶が足元に溜まっていて、踏まないように歩いている。


 椅子を勧めた。ルシアンが座る。壁際でヴォルフが腕を組んでいる。二人の男が同じ部屋にいる。初めてのことだ。


 呼び方を決めなければ。


 ヴェルトハイム公。それが公式だ。でも、今日は公的な訪問ではない。手紙に「他人としてではなく」と書いた人が、ここにいる。


「……ルシアン殿」


 口にした。


 ルシアンの手が、膝の上で一瞬止まった。閣下でも、ルシアン様でもない。名前に殿をつけただけ。対等の距離。


「港町の状況は把握しています。『鉄の輪』の進出について、公爵家として牽制をかける用意があります」


「お力添えに感謝します。ただし」


「借りにはしない、ですか」


 少しだけ笑った。先を読まれた。


 ……いや。借りだと思うこと自体が、まだ過去を引きずっている。この人の助力を「借り」にするかどうかは、私が決めることだ。


「借りではなく、協力としてお受けします」


 ルシアンが頷いた。



    ◇



 午後。ブルクハルトから伝言が届いた。


 見舞いに行ったクルトが、紙片を持ち帰ってきた。震える字で、短く書いてある。


『ギルド規約第十四条を確認しろ。わしが寝ている間に好き勝手されておる』


 規約を引っ張り出した。第十四条。倉庫の占有制限。


「港町の倉庫総面積の三割を超える単一商会の借り上げを禁止する」


 条項は存在していた。ただし罰則規定がない。二十年前にブルクハルトが定めた時、大規模商会の進出など想定していなかったのだ。


 条項はある。罰則がない。なら、罰則を作ればいい。


 商人連合の名義で、ギルド評議会に罰則追加を提案した。「超過分の契約は無効とする」「違反には評議会への報告義務を課す」。ブルクハルトの賛同書が病床から届いた。評議会は全会一致で承認。


 同時に、共同倉庫の設立を進めた。商人連合の加盟商会が共同で借り上げた倉庫五棟。これで小商人の荷物の行き場が確保される。


 「鉄の輪」は既に全体の二割五分を押さえている。だが三割を超えることはもうできない。追加の借り上げは法的に封じられた。


 マルテが夕方に報告してきた。


「『鉄の輪』の連中、評議会の決定を聞いて顔色変えてたぜ。ヴィクトルの旦那が部下を怒鳴ってたって」


 あの冷静な男が声を荒らげた。つまり、想定外だったのだ。


(ブルクハルトの爺さん、病床でもやるな)


 条項を発見したのはブルクハルトだ。私は罰則を整備しただけ。二十年前に規約を書いた人と、今それを使う人。引き継ぎとは、こういうことかもしれない。



    ◇



 ルシアンが帰る前に、もう一つ知らせがあった。


「通商会議が九月に開催されます。場所は、ここです」


「港町で?」


「初めての地方開催です。ギルド長の推薦と、カルデアからの支持がありました」


 港町で通商会議。私たちの庭で、勝負ができる。


 ルシアンが外套を羽織り、事務所の入口に立った。


 ヴォルフが壁際から動いた。


 二人の男が向き合っている。ルシアンの方が背は高いが、ヴォルフの方が肩幅が広い。


「ヴォルフ殿、でしたか」


「ああ」


「彼女を頼む」


 短い言葉。宰相時代なら、もっと飾った言い方をしただろう。でも今のルシアンには、これだけしか出てこなかったのだと思う。


 ヴォルフが答えた。


「頼まれなくても」


 ルシアンの口元が、一瞬だけ歪んだ。笑いとも苦さともつかない形。


 それだけだった。


 ルシアンが歩き出した。供の二人が後に続く。港町の石畳に、三人の足音が遠ざかっていく。


 ヴォルフの手が、私の肩にそっと触れた。


 重くも軽くもない。ただ、ここにいる、という手。



    ◇



 馬車に揺られながら、僕は港町の景色を見ていた。


 あの商会の窓に、灯りがついている。


 あの席に座っていた人は、もうここにいる。宰相府の食堂ではなく。銀の燭台の下ではなく。潮風の匂いがする、小さな事務所に。


 大きな男が隣にいた。子どもを片腕に抱いて、もう片方の手でパンをちぎっていた。


 僕がしなかったことを、あの男はしている。毎日、隣にいる。


 襟首を正した。緩んでいたことに、今さら気づいた。


 窓の外に、六月の港が暮れていく。


「父上に手紙を書かなければ」


 呟いた。供の者には聞こえなかっただろう。


 あの人を手放すべきだと。もう、公爵家が口を出す場所ではないのだと。


 それが僕にできる、最後の仕事だ。

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