第三十七話 頼まれなくても
ルシアンは、馬車ではなく徒歩で来た。
供は二人。以前の宰相行列とは違う。公爵の私的な訪問として、静かに港町の石畳を歩いてきた。
事務所の扉が叩かれた時、私は帳簿を閉じて立ち上がった。
「お久しぶりです」
二年半ぶりだ。
痩せていた。頬の線が鋭くなっている。目の下の隈は消えたが、代わりに目尻の皺が増えた。襟元が少し緩い。宰相時代は完璧に整えていた人なのに。
「ナディア殿。お元気そうで」
「ええ。公爵職もお忙しいのですね」
業務的に返した。業務的にしか返せなかった。十年分の記憶が足元に溜まっていて、踏まないように歩いている。
椅子を勧めた。ルシアンが座る。壁際でヴォルフが腕を組んでいる。二人の男が同じ部屋にいる。初めてのことだ。
呼び方を決めなければ。
ヴェルトハイム公。それが公式だ。でも、今日は公的な訪問ではない。手紙に「他人としてではなく」と書いた人が、ここにいる。
「……ルシアン殿」
口にした。
ルシアンの手が、膝の上で一瞬止まった。閣下でも、ルシアン様でもない。名前に殿をつけただけ。対等の距離。
「港町の状況は把握しています。『鉄の輪』の進出について、公爵家として牽制をかける用意があります」
「お力添えに感謝します。ただし」
「借りにはしない、ですか」
少しだけ笑った。先を読まれた。
……いや。借りだと思うこと自体が、まだ過去を引きずっている。この人の助力を「借り」にするかどうかは、私が決めることだ。
「借りではなく、協力としてお受けします」
ルシアンが頷いた。
◇
午後。ブルクハルトから伝言が届いた。
見舞いに行ったクルトが、紙片を持ち帰ってきた。震える字で、短く書いてある。
『ギルド規約第十四条を確認しろ。わしが寝ている間に好き勝手されておる』
規約を引っ張り出した。第十四条。倉庫の占有制限。
「港町の倉庫総面積の三割を超える単一商会の借り上げを禁止する」
条項は存在していた。ただし罰則規定がない。二十年前にブルクハルトが定めた時、大規模商会の進出など想定していなかったのだ。
条項はある。罰則がない。なら、罰則を作ればいい。
商人連合の名義で、ギルド評議会に罰則追加を提案した。「超過分の契約は無効とする」「違反には評議会への報告義務を課す」。ブルクハルトの賛同書が病床から届いた。評議会は全会一致で承認。
同時に、共同倉庫の設立を進めた。商人連合の加盟商会が共同で借り上げた倉庫五棟。これで小商人の荷物の行き場が確保される。
「鉄の輪」は既に全体の二割五分を押さえている。だが三割を超えることはもうできない。追加の借り上げは法的に封じられた。
マルテが夕方に報告してきた。
「『鉄の輪』の連中、評議会の決定を聞いて顔色変えてたぜ。ヴィクトルの旦那が部下を怒鳴ってたって」
あの冷静な男が声を荒らげた。つまり、想定外だったのだ。
(ブルクハルトの爺さん、病床でもやるな)
条項を発見したのはブルクハルトだ。私は罰則を整備しただけ。二十年前に規約を書いた人と、今それを使う人。引き継ぎとは、こういうことかもしれない。
◇
ルシアンが帰る前に、もう一つ知らせがあった。
「通商会議が九月に開催されます。場所は、ここです」
「港町で?」
「初めての地方開催です。ギルド長の推薦と、カルデアからの支持がありました」
港町で通商会議。私たちの庭で、勝負ができる。
ルシアンが外套を羽織り、事務所の入口に立った。
ヴォルフが壁際から動いた。
二人の男が向き合っている。ルシアンの方が背は高いが、ヴォルフの方が肩幅が広い。
「ヴォルフ殿、でしたか」
「ああ」
「彼女を頼む」
短い言葉。宰相時代なら、もっと飾った言い方をしただろう。でも今のルシアンには、これだけしか出てこなかったのだと思う。
ヴォルフが答えた。
「頼まれなくても」
ルシアンの口元が、一瞬だけ歪んだ。笑いとも苦さともつかない形。
それだけだった。
ルシアンが歩き出した。供の二人が後に続く。港町の石畳に、三人の足音が遠ざかっていく。
ヴォルフの手が、私の肩にそっと触れた。
重くも軽くもない。ただ、ここにいる、という手。
◇
馬車に揺られながら、僕は港町の景色を見ていた。
あの商会の窓に、灯りがついている。
あの席に座っていた人は、もうここにいる。宰相府の食堂ではなく。銀の燭台の下ではなく。潮風の匂いがする、小さな事務所に。
大きな男が隣にいた。子どもを片腕に抱いて、もう片方の手でパンをちぎっていた。
僕がしなかったことを、あの男はしている。毎日、隣にいる。
襟首を正した。緩んでいたことに、今さら気づいた。
窓の外に、六月の港が暮れていく。
「父上に手紙を書かなければ」
呟いた。供の者には聞こえなかっただろう。
あの人を手放すべきだと。もう、公爵家が口を出す場所ではないのだと。
それが僕にできる、最後の仕事だ。




