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夫が愛人を正妻にするそうなので、十年尽くした宰相夫人を辞めます  作者: 九葉(くずは)
第4章

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第三十六話 全部背負うな

 教えるというのは、やるよりも難しい。


 商人連合の規約草案を書きながら、それを痛感していた。


 朝。机の上に書きかけの書類を広げて、クルトとエルマを呼んだ。


「今日は、この草案を一緒に作ります」


 クルトが目を丸くした。エルマは静かに頷く。


「条約の読み方から始めます。第七条の本文を見てください。ここに書いてある減免措置は南方航路だけが対象ですが、附則を見ると」


「附則ってのは、この下の小さい字ですか」


「はい。条約の本文が『原則』で、附則が『例外』です。本文だけ読んで満足する人が多いですが、本当に大事なのは例外の方です」


 クルトがペンを握った。ペンの握り方が独特だった。人差し指と中指の間に挟んで、親指で支える。剣を握る時の手の形に似ている。騎士の体が、ペンの握り方にまで出ている。


「つまり、条文の裏を読めってことですね」


「裏、というよりは」


 言いかけて止まった。


 自分でやった方が早い。附則の引用箇所を指差して「ここがこう」と説明するより、自分で書いた方が正確で、速い。


 ……いや、それは昨夜の話で決めたはずだ。


「裏というよりは、条文が言っていないことを読む、という方が近いです。書いてあることは誰でも読める。書いていないことを読むのが、仕事です」


 クルトが、ペンの先を紙に当てた。附則の一行目をなぞりながら、口の中で条文を読んでいる。


 遅い。私の三倍は時間がかかっている。


(OJTと呼ぶんだったか、こういうの。実務を通じて教える研修……)


 前世の言葉が顔を出す。


 エルマは隣の机で、説明資料の下書きを始めていた。こちらは黙々と書く。質問が少ない代わりに、出来上がったものを見ると八割方正しい。残りの二割を修正すれば使える。


「姐さん」


 クルトが顔を上げた。


「この附則の『準用』って、元の条文と同じルールを別の場所にも使えるって意味ですか」


「はい。そうです」


「だったら、東方航路だけじゃなくて、北方航路にも使えませんか。カルデアとの協定があるなら」


 手が止まった。


 それは。私がまだ検討していなかった視点だ。


「……調べてみましょう」


 クルトが少しだけ笑った。あの波止場で「姐さん」と呼んだ時と同じ、まっすぐな笑い方。


 この子が育てば、私がいなくても回る。


 安堵、だと思った。でも安堵の底に、薄い影が一枚ある。私がいなくても回るということは、私がいなくてもいいということでもある。


 ……考えすぎだ。窓の外を見た。五月の港が、午後の光に白く光っている。



    ◇



 夕方。郵便の中に、見覚えのある封蝋が混じっていた。


 ヴェルトハイム公爵家の個人紋。藍色のインクで書かれた宛名。ルシアンの字だ。


 十年間、毎日見ていた筆跡。でも以前の手紙とは違うものがある。字の勢いが穏やかだ。宰相時代の鋭い走り書きではない。


 封を切った。


 内容は簡潔だった。公爵として港町の経済状況を把握している。「鉄の輪」の進出についても聞き及んでいる。助力の用意がある。


 身勝手な要求は一行もなかった。「戻ってこい」も「仕事が回らない」もない。


 追伸が添えてあった。


『一度、話がしたい。今度は、他人としてではなく。』


 他人としてではなく。


 懐かしい、のだろうか。いや、懐かしさとも違う。あの食堂で向かい合っていた十年間の記憶は、もう痛みではない。かといって温もりでもない。ただそこにあったという事実。


 手紙を書類ファイルにしまった。返事は書く。でも今日ではない。





 帰り支度をしていたら、鞄の中に見覚えのないものが入っていた。


 干し肉。


 紙に包まれた、塩気の強い牛の干し肉。いつもヴォルフが食べている店のものだ。


「……入れた覚えがないんですけど」


 首を傾げながら、一切れちぎって口に入れた。塩辛い。でも歩きながら食べるにはちょうどいい。昼を食べ損ねていたのだ。


(まあ、朝に入れて忘れたのかしら)


 忘れるはずがない。そもそもあの店で干し肉を買ったことは一度もない。


 でも、そのまま食べた。


 事務所に戻ると、ヴォルフがテオを膝に乗せて座っていた。窓越しに、私が干し肉を食べながら歩いてくるのが見えたのだろう。視線を外した。


 何も聞かない。


「ヴォルフ」


「ああ」


「ヴェルトハイム公爵家の……ヴェルトハイム公から手紙が来ました。港町に来たいそうです」


「ああ」


「それと、商人連合の書類。クルトが半分書いてくれました」


「……そうか」


 声の温度が少し変わった気がした。


「全部背負うな」


「……知ってます」


 テオがヴォルフの外套の裾を引っ張っている。


「知ってます。だから悩めるんです」


 ヴォルフが顔を上げた。


「前は悩む余裕もなかったので。全部一人でやるしかなかったから。今は、あなたがいて、クルトがいて、エルマがいて。だから……どこまで手放していいのか、悩める」


 贅沢な悩みだ。宰相府にいた頃の私が聞いたら笑うだろう。


 ヴォルフは何も言わなかった。


 代わりに、テオを抱き上げて立った。台所に向かう背中。後頭部の付け根のあたりの髪が少し跳ねている。朝、寝癖を直し忘れたのだ。


 この人は、私が悩んでいる時に答えを出さない。ただ隣にいる。


 それがどれほどのことか、十年前の私は知らなかった。

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