第三十五話 一人でやった方が早い、は呪いです
帳簿の数字が、赤くなり始めていた。
比喩ではない。仕入れ原価に対して倉庫の賃借料が上がっている。三週間前に「鉄の輪」が東側の倉庫を押さえてから、残りの倉庫に商人が集中して相場が跳ね上がった。
「西側の倉庫も、先週から問い合わせが増えてます」
エルマが報告する。
「『鉄の輪』名義ですか」
「直接ではないですが……仲介の商人が、どうも繋がっているようで」
間接的に借り上げを広げている。全体の二割五分。あと少しで三割に届く。
マルテが昼前に来た。
「姐さん、港の連中がざわついてる。荷物を置く場所がないって、小さい商会から悲鳴が上がってるぜ」
「わかっています。対策を考えています」
「対策って?」
帳簿を閉じた。
「商人連合です」
マルテの眉が動いた。
「港町の商人が共同で倉庫を持つ。個別に『鉄の輪』と交渉するのではなく、一つの組織として対抗する」
(前世では確か、協同組合と呼んでいた気がする。仕組みは似ている)
「共同で倉庫を借りて、使用枠を分け合う。大手が一社で独占できない構造を作るんです」
マルテが腕を組んだ。
「……面白いな。で、誰がまとめるんだ」
「私が骨組みを作って、ギルドの承認を取ります」
「骨組みって、書類か?」
「規約の草案、参加条件、費用の分担比率、倉庫の配分ルール。それから各商会への説明資料」
並べてみると、多い。
(一人で全部作ったら、二週間はかかる)
でも、私が書いた方が早い。条約の条文を引用する精度も、交渉相手に見せる書類の説得力も、私が書けば一番確実だ。
中指の第二関節が、無意識に曲がっていた。書類を書くときの癖。ペンを握る前から、指が準備を始めている。
◇
午後。カルデア公国からの手紙が届いた。
旧知の外交官からだった。宰相府時代に夜会の席順で苦労させた、あの気難しい人。
封を切って読んだ。
『ナディア殿。お元気ですか。一つ、気になることがあり筆を取りました。先日、王都の通商会合で「フリッツ・ヴァイス」という商人の提案書を見ました。論理の組み立て方が、ナディア殿の手法に酷似しています。条文の引用順序、附則への言及の仕方、結論への導き方。偶然とは思えません。模倣ではないでしょうか』
手紙を机に置いた。
模倣。
あの男が宰相府で学んだのは、私の仕事の「型」だったのだ。条文を並べる順番。附則に触れるタイミング。相手を説得する論理の組み方。中身ではなく、外側の形。
怒り、ではない。もっと静かな……悔しさに近い何かだ。
自分の仕事が他人に認められるほどの「型」を持っていたということは、裏を返せば、私の手法が独自のものだったという証明でもある。宰相府の十年間は無駄ではなかった。
なのに、気持ちが悪い。自分の影を、知らない場所で勝手に使われている感覚。鎖骨の窪みのあたりが、妙に張りつめた。
手紙を書類ファイルにしまった。今は動かない。証拠として保管しておく。
マルテが夕方にまた来て、別の話を持ってきた。
「『鉄の輪』の代表、あんたのこと調べてるらしいぜ。『あの女、厄介だな』って」
厄介。上等だ。
(厄介でなければ、調べる価値もない)
夜。台所の机に書類を広げていた。商人連合の規約草案。白紙の紙が三枚、半分まで埋まっている。インクの匂いが指先に染みついている。
テオはもう寝た。ヴォルフがガラガラを振って寝かしつけてくれた。あの大きな手がガラガラを振る姿は何度見ても少しおかしい。
書類に戻る。参加条件の第三項。倉庫の配分比率を取引額に応じて按分する案を書いていたら、足元に温かいものが触れた。
桶だ。
湯が張ってある。
ヴォルフが、いつの間にか湯を沸かして、桶に注いで、私の足元に置いていた。
「……何ですか、これ」
「足が冷えてる」
「冷えてません」
「嘘だ。さっきから爪先が机の脚に当たってる。冷えると無意識にやる癖だ」
知っていたのか。私の癖を。
足を湯に浸けた。温かい。指先から、じんわりと血が巡り始める。
「……ずるい」
口をついて出た。感謝ではなく、この言葉が出る自分に少し驚く。
「何がだ」
「こういうことをされると、怒れなくなるんです」
「怒る理由がない」
「あります。一人で全部やろうとしてるって、今から叱るつもりだったでしょう」
ヴォルフが黙った。図星だ。
それから、低い声で言った。
「全部あんたが書いたら、あんたがいなくなった時に誰が書くんだ」
手が止まった。
ペンがインク壺の縁に触れて、小さな音を立てた。
「一人でやった方が早い。それはわかる。あんたは頭がいいからな。でも」
ヴォルフが窓の外を見た。
「あんたの仕事を、あんた一人しか書けないなら。あんたが倒れたら……誰も代わりに書けない。それは、まずい」
まずい。
この人の言葉はいつも短くて、飾らなくて、真ん中を突く。
呪いだ、と思った。一人でやった方が早い、は呪い。
宰相府にいた十年間を思い出す。全部一人で回していた。引き継ぎ資料を三冊残して去った。あの資料がなければ、宰相府は回らなかった。
引き継ぎ資料は「去る人間の責任」だった。でも、資料を書ける人を育てていたら、資料は要らなかった。
「……そうですね」
湯の中で足を動かした。温かい。
「明日、クルトに規約の書き方を教えます」
「ああ」
「エルマにも。交渉資料の作り方を」
「ああ」
短い。相変わらず短い。
でも、あの一言で十年分の呪いが解ける気がした。一人でやった方が早い。それは事実だ。でも、事実が正しいとは限らない。
ペンを取り直した。規約草案の余白に、小さく書き足す。
「教育計画(案)」
足湯の温もりが、膝の裏まで届いていた。




