表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
夫が愛人を正妻にするそうなので、十年尽くした宰相夫人を辞めます  作者: 九葉(くずは)
第4章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

35/40

第三十五話 一人でやった方が早い、は呪いです

 帳簿の数字が、赤くなり始めていた。


 比喩ではない。仕入れ原価に対して倉庫の賃借料が上がっている。三週間前に「鉄の輪」が東側の倉庫を押さえてから、残りの倉庫に商人が集中して相場が跳ね上がった。


「西側の倉庫も、先週から問い合わせが増えてます」


 エルマが報告する。


「『鉄の輪』名義ですか」


「直接ではないですが……仲介の商人が、どうも繋がっているようで」


 間接的に借り上げを広げている。全体の二割五分。あと少しで三割に届く。


 マルテが昼前に来た。


「姐さん、港の連中がざわついてる。荷物を置く場所がないって、小さい商会から悲鳴が上がってるぜ」


「わかっています。対策を考えています」


「対策って?」


 帳簿を閉じた。


「商人連合です」


 マルテの眉が動いた。


「港町の商人が共同で倉庫を持つ。個別に『鉄の輪』と交渉するのではなく、一つの組織として対抗する」


(前世では確か、協同組合と呼んでいた気がする。仕組みは似ている)


「共同で倉庫を借りて、使用枠を分け合う。大手が一社で独占できない構造を作るんです」


 マルテが腕を組んだ。


「……面白いな。で、誰がまとめるんだ」


「私が骨組みを作って、ギルドの承認を取ります」


「骨組みって、書類か?」


「規約の草案、参加条件、費用の分担比率、倉庫の配分ルール。それから各商会への説明資料」


 並べてみると、多い。


(一人で全部作ったら、二週間はかかる)


 でも、私が書いた方が早い。条約の条文を引用する精度も、交渉相手に見せる書類の説得力も、私が書けば一番確実だ。


 中指の第二関節が、無意識に曲がっていた。書類を書くときの癖。ペンを握る前から、指が準備を始めている。



    ◇



 午後。カルデア公国からの手紙が届いた。


 旧知の外交官からだった。宰相府時代に夜会の席順で苦労させた、あの気難しい人。


 封を切って読んだ。


『ナディア殿。お元気ですか。一つ、気になることがあり筆を取りました。先日、王都の通商会合で「フリッツ・ヴァイス」という商人の提案書を見ました。論理の組み立て方が、ナディア殿の手法に酷似しています。条文の引用順序、附則への言及の仕方、結論への導き方。偶然とは思えません。模倣ではないでしょうか』


 手紙を机に置いた。


 模倣。


 あの男が宰相府で学んだのは、私の仕事の「型」だったのだ。条文を並べる順番。附則に触れるタイミング。相手を説得する論理の組み方。中身ではなく、外側の形。


 怒り、ではない。もっと静かな……悔しさに近い何かだ。


 自分の仕事が他人に認められるほどの「型」を持っていたということは、裏を返せば、私の手法が独自のものだったという証明でもある。宰相府の十年間は無駄ではなかった。


 なのに、気持ちが悪い。自分の影を、知らない場所で勝手に使われている感覚。鎖骨の窪みのあたりが、妙に張りつめた。


 手紙を書類ファイルにしまった。今は動かない。証拠として保管しておく。


 マルテが夕方にまた来て、別の話を持ってきた。


「『鉄の輪』の代表、あんたのこと調べてるらしいぜ。『あの女、厄介だな』って」


 厄介。上等だ。


(厄介でなければ、調べる価値もない)





 夜。台所の机に書類を広げていた。商人連合の規約草案。白紙の紙が三枚、半分まで埋まっている。インクの匂いが指先に染みついている。


 テオはもう寝た。ヴォルフがガラガラを振って寝かしつけてくれた。あの大きな手がガラガラを振る姿は何度見ても少しおかしい。


 書類に戻る。参加条件の第三項。倉庫の配分比率を取引額に応じて按分する案を書いていたら、足元に温かいものが触れた。


 桶だ。


 湯が張ってある。


 ヴォルフが、いつの間にか湯を沸かして、桶に注いで、私の足元に置いていた。


「……何ですか、これ」


「足が冷えてる」


「冷えてません」


「嘘だ。さっきから爪先が机の脚に当たってる。冷えると無意識にやる癖だ」


 知っていたのか。私の癖を。


 足を湯に浸けた。温かい。指先から、じんわりと血が巡り始める。


「……ずるい」


 口をついて出た。感謝ではなく、この言葉が出る自分に少し驚く。


「何がだ」


「こういうことをされると、怒れなくなるんです」


「怒る理由がない」


「あります。一人で全部やろうとしてるって、今から叱るつもりだったでしょう」


 ヴォルフが黙った。図星だ。


 それから、低い声で言った。


「全部あんたが書いたら、あんたがいなくなった時に誰が書くんだ」


 手が止まった。


 ペンがインク壺の縁に触れて、小さな音を立てた。


「一人でやった方が早い。それはわかる。あんたは頭がいいからな。でも」


 ヴォルフが窓の外を見た。


「あんたの仕事を、あんた一人しか書けないなら。あんたが倒れたら……誰も代わりに書けない。それは、まずい」


 まずい。


 この人の言葉はいつも短くて、飾らなくて、真ん中を突く。


 呪いだ、と思った。一人でやった方が早い、は呪い。


 宰相府にいた十年間を思い出す。全部一人で回していた。引き継ぎ資料を三冊残して去った。あの資料がなければ、宰相府は回らなかった。


 引き継ぎ資料は「去る人間の責任」だった。でも、資料を書ける人を育てていたら、資料は要らなかった。


「……そうですね」


 湯の中で足を動かした。温かい。


「明日、クルトに規約の書き方を教えます」


「ああ」


「エルマにも。交渉資料の作り方を」


「ああ」


 短い。相変わらず短い。


 でも、あの一言で十年分の呪いが解ける気がした。一人でやった方が早い。それは事実だ。でも、事実が正しいとは限らない。


 ペンを取り直した。規約草案の余白に、小さく書き足す。


「教育計画(案)」


 足湯の温もりが、膝の裏まで届いていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ