表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
夫が愛人を正妻にするそうなので、十年尽くした宰相夫人を辞めます  作者: 九葉(くずは)
第4章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

34/40

第三十四話 団長殿の下で働けて光栄でした

 朝一番にエルマが報告してきた。「鉄の輪」が東側の倉庫を三棟借りた。全体の二割。まだ致命的ではないが、このまま増えれば港町の物流に響く。


 ヴォルフが外套を羽織った。マルガレーテと会う日だ。


「行ってきます、とは言わないんですね」


「……ああ」


 大きな背中が朝の光の中に消えていく。右膝を少しかばう歩き方。二年半前と変わらない。






 茶店のテーブルは古い木でできていた。表面に傷がいくつもある。俺はその傷跡を親指でなぞっていた。


 向かいにマルガレーテが座っている。白髪。穏やかな顔。ハンスの面影がある。目の形が似ていた。


 茶とパンを頼んだ。マルガレーテが一口かじった。かじり方が小さい。遠慮しているのか、食が細いのか。


 自分のパンを一切れちぎって、マルガレーテの皿に置いた。


「腹が減ってるだろう。遠慮するな」


「……ありがとうございます、団長殿」


 団長殿。


 五年ぶりにその呼び方を聞く。


 査問会でクルトが言った時とは違う。あの時は仲間の声だった。この人の声には、息子を送り出した母親の響きがある。


「手紙を持ってまいりました」


 マルガレーテが旅装の内側から折りたたまれた紙を取り出した。端が擦り切れている。何度も開いて畳んだ跡。


「息子が、最後の作戦の前日に書いたものです」


 受け取った。


 紙の手触りが薄い。軍支給の通信紙。五年前の冬、辺境の野営地で配られていたもの。


 開いた。ハンスの字。右上がりの、少し雑な字。報告書の綴りを間違える男。酒を飲むと笑い上戸になる男。


『母上。元気にしていますか。こちらは寒いです。』


 読んだ。


『明日、大きな作戦があります。正直に言うと、少し怖いです。』


 怖い、とハンスは書いている。


 あの日の朝、ハンスの顔を思い出す。怖いと言わなかった。笑っていた。いつも通り、笑っていた。


『でも大丈夫です。団長殿の下で働けて光栄です。明日の作戦は厳しいが、団長殿が必ず連れ帰ってくれると信じています。』


 必ず。


 連れ帰ってくれると。


 信じて。


 紙を持つ手が震えた。文字が滲んだ。滲んだのは紙のせいではない。


 謝らなければ。違う。謝って済む話じゃない。この手紙を書いた夜、ハンスは俺を信じて眠った。翌朝、十二人で出た。連れ帰れなかった。


 テーブルの傷跡がぼやけた。奥歯の裏側が痺れている。噛みしめているのに、力が抜けない。


「団長殿」


 マルガレーテの声がした。遠い。


「息子は恨んでいませんでした。あなたを」


 恨んでいない。


 信じていた。恨んでもいなかった。


 救われた。


 ……救われていいのか。俺が。


 答えが出ない。出ないまま、紙を畳んだ。手が震えていて、端が揃わなかった。


「写しを取ってください」


 マルガレーテが、穏やかに言った。


「息子があなたに伝えたかった言葉です。手元に置いてくださいませ」






 事務所の扉が開いたのは、日が傾き始めた頃だった。


 ヴォルフが入ってきた。目が赤い。


 聞きたい。でも今は聞かない。……いや、聞けない、が正しい。あの目を見て言葉を重ねるのは、誠実ではない気がした。


 茶を淹れた。カップを両手で温めてから渡す。ヴォルフは受け取って、一口飲んだ。飲み込むのに少し時間がかかった。


 テオがヴォルフの膝に這い上がってきた。小さな手が外套の裾を掴んで、よじ登る。ヴォルフの大きな手が、テオの背中を支えた。


 五年前に守れなかった腕が、今、この子を抱いている。


 その光景を見ていたら、視界の端がじわりと歪んだ。二度目の人生で何度目かの、この感覚。


 ヴォルフが外套の内側から折りたたまれた紙を取り出した。手紙の写し。ヴォルフの角ばった字で丁寧に書き写してある。


 それを、帳簿の隣の引き出しにしまった。


「……マルテさんが来ました。東側の倉庫の件です」


「ああ」


「次は西側を狙うでしょう。手を打たないと」


 ヴォルフが茶を一口飲んだ。テオを片腕に抱いたまま。


「……あんたがやるのか」


「私の仕事ですから」


 仕事。また、この言葉が出た。


 でも今はいい。この人が帰ってきて、この子が膝の上にいて、手紙が引き出しの中にある。


 それだけで、今日は十分だ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ