第三十四話 団長殿の下で働けて光栄でした
朝一番にエルマが報告してきた。「鉄の輪」が東側の倉庫を三棟借りた。全体の二割。まだ致命的ではないが、このまま増えれば港町の物流に響く。
ヴォルフが外套を羽織った。マルガレーテと会う日だ。
「行ってきます、とは言わないんですね」
「……ああ」
大きな背中が朝の光の中に消えていく。右膝を少しかばう歩き方。二年半前と変わらない。
茶店のテーブルは古い木でできていた。表面に傷がいくつもある。俺はその傷跡を親指でなぞっていた。
向かいにマルガレーテが座っている。白髪。穏やかな顔。ハンスの面影がある。目の形が似ていた。
茶とパンを頼んだ。マルガレーテが一口かじった。かじり方が小さい。遠慮しているのか、食が細いのか。
自分のパンを一切れちぎって、マルガレーテの皿に置いた。
「腹が減ってるだろう。遠慮するな」
「……ありがとうございます、団長殿」
団長殿。
五年ぶりにその呼び方を聞く。
査問会でクルトが言った時とは違う。あの時は仲間の声だった。この人の声には、息子を送り出した母親の響きがある。
「手紙を持ってまいりました」
マルガレーテが旅装の内側から折りたたまれた紙を取り出した。端が擦り切れている。何度も開いて畳んだ跡。
「息子が、最後の作戦の前日に書いたものです」
受け取った。
紙の手触りが薄い。軍支給の通信紙。五年前の冬、辺境の野営地で配られていたもの。
開いた。ハンスの字。右上がりの、少し雑な字。報告書の綴りを間違える男。酒を飲むと笑い上戸になる男。
『母上。元気にしていますか。こちらは寒いです。』
読んだ。
『明日、大きな作戦があります。正直に言うと、少し怖いです。』
怖い、とハンスは書いている。
あの日の朝、ハンスの顔を思い出す。怖いと言わなかった。笑っていた。いつも通り、笑っていた。
『でも大丈夫です。団長殿の下で働けて光栄です。明日の作戦は厳しいが、団長殿が必ず連れ帰ってくれると信じています。』
必ず。
連れ帰ってくれると。
信じて。
紙を持つ手が震えた。文字が滲んだ。滲んだのは紙のせいではない。
謝らなければ。違う。謝って済む話じゃない。この手紙を書いた夜、ハンスは俺を信じて眠った。翌朝、十二人で出た。連れ帰れなかった。
テーブルの傷跡がぼやけた。奥歯の裏側が痺れている。噛みしめているのに、力が抜けない。
「団長殿」
マルガレーテの声がした。遠い。
「息子は恨んでいませんでした。あなたを」
恨んでいない。
信じていた。恨んでもいなかった。
救われた。
……救われていいのか。俺が。
答えが出ない。出ないまま、紙を畳んだ。手が震えていて、端が揃わなかった。
「写しを取ってください」
マルガレーテが、穏やかに言った。
「息子があなたに伝えたかった言葉です。手元に置いてくださいませ」
事務所の扉が開いたのは、日が傾き始めた頃だった。
ヴォルフが入ってきた。目が赤い。
聞きたい。でも今は聞かない。……いや、聞けない、が正しい。あの目を見て言葉を重ねるのは、誠実ではない気がした。
茶を淹れた。カップを両手で温めてから渡す。ヴォルフは受け取って、一口飲んだ。飲み込むのに少し時間がかかった。
テオがヴォルフの膝に這い上がってきた。小さな手が外套の裾を掴んで、よじ登る。ヴォルフの大きな手が、テオの背中を支えた。
五年前に守れなかった腕が、今、この子を抱いている。
その光景を見ていたら、視界の端がじわりと歪んだ。二度目の人生で何度目かの、この感覚。
ヴォルフが外套の内側から折りたたまれた紙を取り出した。手紙の写し。ヴォルフの角ばった字で丁寧に書き写してある。
それを、帳簿の隣の引き出しにしまった。
「……マルテさんが来ました。東側の倉庫の件です」
「ああ」
「次は西側を狙うでしょう。手を打たないと」
ヴォルフが茶を一口飲んだ。テオを片腕に抱いたまま。
「……あんたがやるのか」
「私の仕事ですから」
仕事。また、この言葉が出た。
でも今はいい。この人が帰ってきて、この子が膝の上にいて、手紙が引き出しの中にある。
それだけで、今日は十分だ。




