第三十三話 息子の上官に会いたいのです
その人は、朝一番に来た。
扉を叩く音が控えめだった。商人の叩き方ではない。取引先の急ぎでもない。用件のある人の叩き方なのに、遠慮が混じっている。
開けると、白髪の女性が立っていた。
六十代だろう。背は低いが姿勢がいい。簡素な旅装が港町の潮風に少し湿っている。目元に泣いた跡はない。
「ナディア様でいらっしゃいますか」
「はい」
「マルガレーテ・ブラントと申します。辺境から参りました」
ブラント。
その名前に、記憶が反応する。ヴォルフが以前、波止場で話してくれた、三人の部下の名前。ハンス・ブラント。
壁際の椅子に目をやった。ヴォルフが座っている。腕を組んでいる。
動かない。
動かないのではなく、動けないのだ。灰色の瞳が、マルガレーテの顔を見ている。鉄板の表情はそのままだが、組んだ腕の下で、親指の付け根が白くなるほど握られている。
「息子の上官に会いたいのです」
マルガレーテが言った。
声は穏やかだった。恨みに来たのだろうか。……いや、あの目は違う。怒りの目でも、軽蔑でも、計算でもない。
ただ、会いたいという目。
それだけだった。
「どうぞ、お掛けください」
椅子を勧めた。マルガレーテが座る時、手が机の端に触れた。
指が太い。節が盛り上がっていて、爪が短く切り揃えられている。日に焼けた肌。畑を耕す手だ。帳簿を繰る手ではなく、鍬を握る手。この人は息子を辺境で育てて、その息子を騎士団に送り出したのだ。
茶を出した。
マルガレーテが両手でカップを包んだ。温まるように。旅で冷えた手を、湯気に近づける仕草。
「今日は……ご挨拶だけで結構です。明日、改めてゆっくりお話ししませんか」
マルガレーテが頷いた。
「ありがとうございます。明日、また参ります」
立ち上がる時、壁際のヴォルフをちらりと見た。そして、小さく頭を下げた。
「団長殿」
それだけだった。
ヴォルフは答えなかった。
マルガレーテが去った後、私はヴォルフの隣に立った。
手を伸ばした。
ヴォルフの組んだ腕の上に、自分の手を重ねた。
包む側が、逆になっている。二月の波止場で、ヴォルフが私の冷えた手を包んでくれた。今度は、私が。あの大きな拳を、両手で覆うには全然足りない。指先がかろうじて届くだけ。
でも、それでいい。
「……明日。一緒に行きますか」
ヴォルフは黙っていた。
親指の付け根の力が、少しだけ緩んだ。
◇
午後。マルテが事務所に顔を出した。
「姐さん、聞いてくれ。『鉄の輪』の連中、港の仲買を三軒回ったらしい。買収の話だ」
「断ったんですか」
「当たり前だ。三軒とも『うちの姐さんに相談してからだ』って追い返した」
マルテが胸を張っている。
「リーデル商会の旦那も同じだ。『ナディア殿と取引している限り、よその商会に乗り換える理由がない』って」
港町の商人たちが、一つの商会に揃って同じ返事をする。それが何を意味するか、「鉄の輪」の代表も分かっただろう。
金で釣っても動かない結束がある。時間をかけて築いたものは、札束一つでは切れない。
(……二年半かかった信用だ。安くはない)
宰相府の十年間を思い出す。あの頃の信用も宰相府の紋章ではなく、私個人のものだった。ここでも、同じ。
「マルテさん。ありがとうございます」
「礼はいらねえよ。商売仲間だろ」
商売仲間。その言葉が、妙に温かかった。
夜。テオを寝かしつけてから、台所に降りた。
ヴォルフが椅子に座っていた。卵焼きの残りとパンが机に出してある。私の分。食べていなかったのを、見ていたのだろう。
「……ナディア」
「はい」
「明日。一人で会いたい」
予感はあった。あの凍りついた表情を見た時から。
「わかりました」
「…………」
「ただ、帰ってきたら話を聞かせてください。何があっても」
ヴォルフが顔を上げた。灰色の瞳がこちらを見ている。
「それと、マルガレーテさんが最後に言っていました。『息子の最後の手紙を見せたい』と」
ヴォルフの喉仏の手前が、一度だけ上下した。
心配している。ヴォルフのことを。……いや、心配だけではない。もし恨んでくれた方が、この人にとっては楽だったのかもしれない。恨まれるなら、償いようがある。許されてしまったら、自分をどこに置けばいいのかわからなくなる。
そんなことを考えていたら、階上からテオの泣き声が響いた。
立ち上がりかけた。でもヴォルフの方が速かった。
椅子が軋む音。膝を少しかばいながら立ち上がって、階段を上がっていく。大きな背中が暗い階段に消える。
泣き声が、少しずつ小さくなった。
代わりに、低い声が聞こえてきた。何を言っているか聞き取れない。歌ではない。ただ、声。
テオの呼吸が整っていく。ひくひくと震えていた息が、ゆっくりと深くなる。ヴォルフの腕の中で。
階段の下で耳を澄ましながら、思った。
あの腕は、五年前に三人を守れなかった腕だ。
今、一人の子どもを抱いている。
「……あなたの腕が好きみたい」
独り言は、階上には届かなかっただろう。
卵焼きを一切れ口に入れた。冷めている。でも、舌の付け根に染みるような味がした。




