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夫が愛人を正妻にするそうなので、十年尽くした宰相夫人を辞めます  作者: 九葉(くずは)
第4章

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第三十三話 息子の上官に会いたいのです

 その人は、朝一番に来た。


 扉を叩く音が控えめだった。商人の叩き方ではない。取引先の急ぎでもない。用件のある人の叩き方なのに、遠慮が混じっている。


 開けると、白髪の女性が立っていた。


 六十代だろう。背は低いが姿勢がいい。簡素な旅装が港町の潮風に少し湿っている。目元に泣いた跡はない。


「ナディア様でいらっしゃいますか」


「はい」


「マルガレーテ・ブラントと申します。辺境から参りました」


 ブラント。


 その名前に、記憶が反応する。ヴォルフが以前、波止場で話してくれた、三人の部下の名前。ハンス・ブラント。


 壁際の椅子に目をやった。ヴォルフが座っている。腕を組んでいる。


 動かない。


 動かないのではなく、動けないのだ。灰色の瞳が、マルガレーテの顔を見ている。鉄板の表情はそのままだが、組んだ腕の下で、親指の付け根が白くなるほど握られている。


「息子の上官に会いたいのです」


 マルガレーテが言った。


 声は穏やかだった。恨みに来たのだろうか。……いや、あの目は違う。怒りの目でも、軽蔑でも、計算でもない。


 ただ、会いたいという目。


 それだけだった。


「どうぞ、お掛けください」


 椅子を勧めた。マルガレーテが座る時、手が机の端に触れた。


 指が太い。節が盛り上がっていて、爪が短く切り揃えられている。日に焼けた肌。畑を耕す手だ。帳簿を繰る手ではなく、鍬を握る手。この人は息子を辺境で育てて、その息子を騎士団に送り出したのだ。


 茶を出した。


 マルガレーテが両手でカップを包んだ。温まるように。旅で冷えた手を、湯気に近づける仕草。


「今日は……ご挨拶だけで結構です。明日、改めてゆっくりお話ししませんか」


 マルガレーテが頷いた。


「ありがとうございます。明日、また参ります」


 立ち上がる時、壁際のヴォルフをちらりと見た。そして、小さく頭を下げた。


「団長殿」


 それだけだった。


 ヴォルフは答えなかった。


 マルガレーテが去った後、私はヴォルフの隣に立った。


 手を伸ばした。


 ヴォルフの組んだ腕の上に、自分の手を重ねた。


 包む側が、逆になっている。二月の波止場で、ヴォルフが私の冷えた手を包んでくれた。今度は、私が。あの大きな拳を、両手で覆うには全然足りない。指先がかろうじて届くだけ。


 でも、それでいい。


「……明日。一緒に行きますか」


 ヴォルフは黙っていた。


 親指の付け根の力が、少しだけ緩んだ。



    ◇



 午後。マルテが事務所に顔を出した。


「姐さん、聞いてくれ。『鉄の輪』の連中、港の仲買を三軒回ったらしい。買収の話だ」


「断ったんですか」


「当たり前だ。三軒とも『うちの姐さんに相談してからだ』って追い返した」


 マルテが胸を張っている。


「リーデル商会の旦那も同じだ。『ナディア殿と取引している限り、よその商会に乗り換える理由がない』って」


 港町の商人たちが、一つの商会に揃って同じ返事をする。それが何を意味するか、「鉄の輪」の代表も分かっただろう。


 金で釣っても動かない結束がある。時間をかけて築いたものは、札束一つでは切れない。


(……二年半かかった信用だ。安くはない)


 宰相府の十年間を思い出す。あの頃の信用も宰相府の紋章ではなく、私個人のものだった。ここでも、同じ。


「マルテさん。ありがとうございます」


「礼はいらねえよ。商売仲間だろ」


 商売仲間。その言葉が、妙に温かかった。





 夜。テオを寝かしつけてから、台所に降りた。


 ヴォルフが椅子に座っていた。卵焼きの残りとパンが机に出してある。私の分。食べていなかったのを、見ていたのだろう。


「……ナディア」


「はい」


「明日。一人で会いたい」


 予感はあった。あの凍りついた表情を見た時から。


「わかりました」


「…………」


「ただ、帰ってきたら話を聞かせてください。何があっても」


 ヴォルフが顔を上げた。灰色の瞳がこちらを見ている。


「それと、マルガレーテさんが最後に言っていました。『息子の最後の手紙を見せたい』と」


 ヴォルフの喉仏の手前が、一度だけ上下した。


 心配している。ヴォルフのことを。……いや、心配だけではない。もし恨んでくれた方が、この人にとっては楽だったのかもしれない。恨まれるなら、償いようがある。許されてしまったら、自分をどこに置けばいいのかわからなくなる。


 そんなことを考えていたら、階上からテオの泣き声が響いた。


 立ち上がりかけた。でもヴォルフの方が速かった。


 椅子が軋む音。膝を少しかばいながら立ち上がって、階段を上がっていく。大きな背中が暗い階段に消える。


 泣き声が、少しずつ小さくなった。


 代わりに、低い声が聞こえてきた。何を言っているか聞き取れない。歌ではない。ただ、声。


 テオの呼吸が整っていく。ひくひくと震えていた息が、ゆっくりと深くなる。ヴォルフの腕の中で。


 階段の下で耳を澄ましながら、思った。


 あの腕は、五年前に三人を守れなかった腕だ。


 今、一人の子どもを抱いている。


「……あなたの腕が好きみたい」


 独り言は、階上には届かなかっただろう。


 卵焼きを一切れ口に入れた。冷めている。でも、舌の付け根に染みるような味がした。

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