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夫が愛人を正妻にするそうなので、十年尽くした宰相夫人を辞めます  作者: 九葉(くずは)
第4章

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第三十二話 その条項の附則は読みましたか

 革の匂いがした。

 上等な靴革。港町の潮風には似合わない、王都の匂いだ。


 事務所の扉を開けて入ってきたのは、二人の男だった。


 先頭の男は五十代半ば。白髪交じりの短い髪。仕立てのいい外套。目の奥が冷たい。値踏みする商人の目。


「ヴェスターハーフェン貿易商会のナディア殿ですな。鉄の輪商会代表、ヴィクトル・ハーゲンと申します」


 低い声。部屋の隅まで届く。商談に慣れた人間の声。


 その後ろに、もう一人。三十代前半。痩身。目が落ち着かない。


「ナディア殿、お久しぶりです。宰相府でお世話になりました。フリッツ・ヴァイスです」


 ……覚えがない。宰相府には十年いた。下級官吏は数十人。顔も名前も記憶にない。


(マウント……いや、少し違う。何だったか)


「どうぞ、お掛けください」


 椅子を勧めた。ヴィクトルは深く腰掛ける。フリッツは浅く座って、膝の上に書類を置いた。書類の持ち方に見覚えがあった。宰相府の官吏がよくやる、端を揃えて斜めに構える持ち方。この人は確かにあの場所にいたのだろう。


 壁際にマルテが立っている。ブルクハルトの代理として同席してもらった。腕を組んで、黙っている。



    ◇



 ヴィクトルが「提携」の概要を話し始めた。港町の物流網に「鉄の輪」の大陸航路を接続する。倉庫の共同利用。船便の一括手配。


 条件は悪くない。悪くないのだが、契約の行間を読むと見える。倉庫の管理権、船便の優先枠、手数料の決定権。すべてが「鉄の輪」側に集中する構造。


(……提携ではなく、吸収ね)


 フリッツが口を開いた。


「ナディア殿の手法を参考にさせていただきまして。通商条約第七条の減免措置、あれは素晴らしい着眼でした。私もあの条項を活用した提案書をいくつか」


「その条項の附則は読みましたか」


 マルテだった。


 壁際から、低い声。フリッツの顔が止まる。


「附則……ですか」


「第七条の附則第二号。東方航路への準用規定。あれを読まないで第七条を語る奴は、条文の表紙だけ舐めてるようなもんだ」


 フリッツが口を開きかけて、閉じた。


 附則第二号。二年半前にギルド長との商談で使った条項。マルテはあの場にいて、後から仕組みを聞いてきた。教えた。その知識で、今、突っ込んでいる。


 ヴィクトルの目がマルテに向いた。一瞬だけ、冷たい目の奥に別の色が混じる。驚きではない。値踏み。この男は港町の仲買人まで条約の附則を知っているのか、という。


「……失礼。勉強不足でした」


 フリッツが頭を下げた。声が薄い。


 腹が立つ。いや、腹が立つのとは少し違う。この人が条約の条文を並べている姿を見ていると、自分の仕事の輪郭をなぞられているような、落ち着かない感覚がある。



    ◇



 ヴィクトルたちが帰った後、提案書を机に広げた。


「姐さん、あれは飲めない話だろ」


「ええ。提携という名の吸収です」


 マルテが腕を組み直す。


「ところで、さっきの附則の突っ込み、見事でしたね」


「姐さんに教わったからな。俺の手柄じゃねえ」


「いいえ。覚えて使えたのは、あなたの力です」


 マルテが少しだけ目を逸らした。照れているのだ。この仲買人が照れる姿は珍しい。


 提案書に目を戻しながら、一つ気になっていたことを声にした。


「ハーゲン殿。ヴェルトハイム公爵家にも、お話を持ちかけたのでしょうか」


 先ほどの商談で直接聞けなかった問い。でもマルテなら裏の噂を知っているかもしれない。


「前公爵に接触したらしいが、断られたそうだ。『あの町の商売に口を出す立場にない』って」


 手が、一瞬止まった。


 エドムント前公爵。善意の名の下に私を取り込もうとした人。その人が「口を出す立場にない」と言って退いた。


 安堵がある。同時に、小さな何かが胸の底を掠めた。あの頑固な老人が変わったという事実が、なぜか少し寂しい。


 ……いや。寂しいのとも違う。何だろう。言葉にならないまま、提案書の分析に戻った。





 夜。テオを寝かしつけた後、階下の台所でヴォルフと向かい合っていた。


「マルテさんから聞いたんですけれど」


「ああ」


「ヴォルフの元の……部下の方の、お母さんが、港町に来ているそうです」


 ヴォルフのパンをちぎる手が止まった。


 指の力が、パンの表面に白い跡を残している。ちぎるのではなく、握っている。


「……誰だ」


「ハンスさんという方の」


 沈黙。


 パンの白い跡が、そのまま残っている。


 ヴォルフの目が机の木目を見ている。見ているのか、見ていないのか、わからない。


 私は立ち上がって、湯を沸かした。茶葉を入れて、カップに注ぐ。


 両手でカップを包んだ。


 いつからだろう。この仕草を覚えたのは。ヴォルフがいつも、私に茶を渡す前にやっていたこと。カップを両手で包んで、温めてから差し出す。理由を聞いたことはない。聞かなくてもわかっていた。


 温かいカップを、ヴォルフの前に置いた。


「……明日、一緒に会いましょう」


 ヴォルフは答えなかった。


 代わりに、カップに手を伸ばした。湯気の向こうで、肩甲骨のあたりが固くなっているのが見えた。


 返事は、明日でいい。


 カップの温もりだけが、暗い台所に残った。

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