第三十一話 ギルド長を引き受けてくれんか
からん。
小さな音が台所に響いて、私は寝台から目を開けた。
からん、からん。
ガラガラの音だ。テオが起きている。
窓の外から潮風が入ってくる。三月の港町は朝がまだ冷たい。でも光の色が変わった。石畳を少しだけ黄色く染める、春の手前の光。
階下に降りると、ヴォルフが竈の前に立っていた。
袖をまくった腕。卵を割る手つき。二年半前は五回に一回、殻が混じっていた。一年前は三回に一回。今は……入らない。
手の角度が変わった。握りつぶすように割っていたのが、指先だけで叩いて片手で開く。加減を覚えた手。
「起きたか」
「おはようございます」
「ああ」
短い。変わらず短い。結婚して一年半、このやりとりが毎朝の儀式になっている。
机に着いた。二枚の皿と、もう一枚。崩した卵焼きとパンの端を載せた小さな皿。テオの分。
テオは椅子の脚につかまって立とうとしている。小さな指が木を握る。握力だけは父親譲り。膝があと一歩伸びない。何度か試して、ぺたん、と座り込む。
それでもまた握る。
(……根性だけは一人前ね)
前世の記憶が顔を出す。
(PDCAサイクル……いや、それは違う)
言葉にならない。でも、椅子の脚を離さないこの子を見ていると、鼻の奥がつんとする。
テオの寝室の窓枠に目をやった。木彫りの鳥が三羽並んでいる。ヴォルフが台所に木くずを散らかしていた頃に彫ったのだろう。丸みのある素朴な形。
可愛らしい、とだけ思って、タルトをひと口かじった。
◇
事務所に降りると、クルトが帳簿を広げていた。
「姐さん、おはようございます。南方航路の運賃、先月より一割下がってます」
「ありがとう。仕入れ値の再計算、お願いできますか」
「もうやってあります」
帳簿を受け取った。数字が整然と並んでいる。二年前に「姐さん」と呼び始めた元騎士は、仕入れ計算を一人で回せるようになっていた。
隣ではエルマが取引先への返信を書いている。半年前まで私が最終確認をしていたが、もう要らない。
従業員六名。本店四名、王都二号店に二名。
(業務の属人化が減ってきた、というやつね)
この朝がずっと続けばいい。……いや。続くと信じているのに、条約の条文を読むように「ただし書き」を探している自分がいる。
港を通って帰る道すがら、足が止まった。
午後。マルテが血相を変えて飛び込んできた。
「姐さん、ブルクハルトの爺さんが倒れた!」
ギルド長の館に駆けつけた。門柱の錨の飾りが、二年半前と同じまま潮風でくすんでいる。
寝室に通された。ブルクハルトは寝台に横たわっていた。白髭の顔色が青く、あの分厚い指が布団の上で妙に頼りない。
「……来たか」
「お加減は」
「悪い。年だな」
ギルドを二十年仕切ってきた重鎮が、枕に頭を沈めている。商談で私を「お嬢さん」から「ナディア殿」に変えた人。
「ナディア殿」
「はい」
「頼みがある」
白髭の口元が、少しだけ動いた。
「ギルド長を引き受けてくれんか」
空気が変わった。
ギルド長。港の倉庫配分権、認可権、対外交渉の代表権。港町の通商を左右する椅子。
光栄だ。光栄なのに、顎の付け根が固くなる。
「……ギルド長殿」
「わしはもう長くない。死にはせんが、何年も椅子に座れる体ではない」
「それは」
「あんたしかおらん。わかっとるだろう」
わかっている。条約の知識、商人の信頼、カルデアとの繋がり。
事実だ。なのに。
「それは……私の仕事でしょうか」
口をついて出た言葉に、自分で驚いた。
ブルクハルトが目を細めた。体調のせいではない。あの値踏みの目。二年半前の商談と同じ。
「……考えてくれ」
「はい」
頭を下げて寝室を出た。
廊下を歩きながら、自分の言葉を反芻する。
引き受けるべきなのだろうか。いや、べきかどうかではなく。
あの十年間、宰相府で「すべてを一人で回していた」私が、ギルド長の権限を握ったら。エドムント前公爵が善意の名の下にやろうとしたことと、何が違う。
自分が、あれになりかける予感。
それが顎の付け根を固くしていたのだ。
日が傾いた頃、港を通って帰る道すがら、足が止まった。
見慣れない船が停泊している。
大型の商船。帆柱が四本。船体に鎖と車輪を組み合わせた紋章。港町の船にはない意匠だ。
荷揚げ場で声をかけた。
「あれ、何の船ですか」
「王都の大手の商会らしいですよ。『鉄の輪』とかいう」
鉄の輪。聞いたことがない。
帆は畳まれ、船体だけが港に影を落としている。夕陽が水面を橙に染めるのに、あの船の陰だけが濃い。
背中を向けて、歩き出した。
事務所に戻ったらテオの夕飯を用意しないと。クルトの帳簿も。ブルクハルトの返事も。
やることが多い。嫌いではない。
でも、港に落ちた影のことが、頭の端からしばらく離れなかった。




