第三十話 準備は早い方がいい
エドムント前公爵が、事務所の扉を叩いたのは、朝食の前だった。
台所でヴォルフが卵を割っている音が聞こえる。いつもの朝だ。まだ皿は並んでいない。
叩き方が、いつもと違った。前より──弱い。丁寧というより、躊躇いが混じっている。
「どうぞ」
扉を開けた。
エドムントが立っていた。
杖をついていた。初めて見る。以前は使っていなかった。
顔は──穏やかだった。でも、あの好々爺の笑顔ではない。もっと静かな顔。何かを手放す前の顔。
「朝早くにすまない」
「いえ。お入りください」
事務所の椅子に案内した。エドムントが──今日は勧められてから座った。
初めてだ。
◇
「一つだけ、聞かせてくれ」
エドムントの声は低かった。
「わしは──善意だったのだ。あんたの才覚を認めて、公爵家の力で支えようとした。子どもが生まれると聞いて、後ろ盾が要ると本気で思った」
目が、まっすぐにこちらを見ている。値踏みの目ではない。
「それでも──間違っていたのか」
間違っていたのか。
その問いに、嘘は言えなかった。
「善意だったことは──知っています」
言葉を選んだ。丁寧に。一語ずつ。
「閣下がディートリヒの一件で力を貸してくださったこと。本気で私のためを思ってくださったこと。それは嘘ではないと、わかっています」
エドムントが黙って聞いている。杖を持つ手の甲に、老斑が浮いている。六十二年の手だ。
「でも──善意でも、人を檻に入れることはできるのです」
エドムントの目が、伏せられた。
長い沈黙が落ちた。
窓の外から、漁船の汽笛が聞こえた。遠い。
「……妻のことを、思い出しておった」
エドムントが口を開いた。声が、少し掠れていた。
「ルシアンの母だ。三十年前に──病で亡くなった」
ルシアンから断片的に聞いたことがある。若くして亡くなった公爵夫人。
「あの人は──優秀な女だった。あんたのように、聡明で、芯が強くて。わしよりずっと頭が切れた」
エドムントの目が、窓の外を見ている。港ではなく、もっと遠くを。三十年前の何かを。
「だから──守ろうとした。公爵家の力で、あの人が傷つかないように。何も困らないように。全部、わしが整えてやろうと」
声が、ほんの少し震えた。
「あの人は──窮屈だったのだろうな」
「……」
「あの人は何も言わなかった。笑っていた。いつも微笑んでいた。でも──」
いつも微笑んでいた。
その言葉が、深い場所に落ちた。
ルシアンが宰相府にいた頃の引き継ぎ資料の最後に書いた言葉を思い出す。「十年間の経験に感謝しています」。微笑みの下に何があったか、気づかなかった男の話。
ルシアンの母も、同じだったのだろうか。
「息子にも──同じことをした。宰相になれ、力を持て、公爵家を守れ。善意だった。全部」
エドムントが杖に額をつけた。
老人が、うなだれていた。
「年寄りの頑固は──たちが悪い。自分の善意を疑えないのだ。だって本気で、相手のためだと思っているのだから」
──この人は、悪人ではなかった。
ルシアンが鈍感な善人だったように。ルシアンの父もまた、善意で人を縛る人だったのだ。親子だ。同じだ。
でも──今、この人は自覚した。ルシアンよりずっと遅く。三十年遅く。
「前公爵閣下」
「……うむ」
「ありがとうございました」
エドムントが顔を上げた。
「ディートリヒの件だけではありません。今──そのお話をしてくださったことに」
エドムントの目が、少し赤くなっていた。泣いてはいない。泣く手前の──我慢している顔。ルシアンと似ている。
「……参ったな」
小さく笑った。苦い笑みだった。
「感謝を言われると、わしの方が参る」
立ち上がった。杖をつく。
入口に向かう途中で、壁際に立っているヴォルフの前で足を止めた。
「ヴォルフ殿」
ヴォルフが灰色の瞳を上げた。
エドムントが──頭を下げた。
前公爵が。六十二歳の、かつてこの国の政治を動かした男が。護衛あがりの元騎士に。
「良い家族を、持ったな」
ヴォルフは、しばらく黙っていた。
「……ああ」
短い。いつも通り短い。
でも──それだけで、全部だった。
エドムントが事務所を出ていった。杖の音が石畳に響いて、遠くなって、消えた。
──「また来る」とは、もう言わなかった。
◇
翌朝。
二月の終わりの港町は、まだ寒い。でも、日差しに少しだけ春の気配がある。窓を開けると、冷たい潮風と一緒に、パン屋の窯の匂いが入ってくる。
台所に降りた。
机に着いて──手が止まった。
焼きリンゴのタルトが並んでいる。
三つ。
二つは、いつも通り。私の分と、ヴォルフの分。
三つ目は──小さかった。半分くらいの大きさ。
「ヴォルフ」
「ああ」
「三つ目は」
「まだ食えないだろうが」
「気が早すぎます」
「……準備は早い方がいい」
向かいの席で、ヴォルフが茶を飲んでいる。カップの陰で、口元が見えない。耳だけが赤い。
笑ってしまった。
それから──ヴォルフが、椅子の横に置いていた道具箱に手を伸ばした。
中から、何かを取り出した。
小さな──木彫り。
手のひらに載るくらいの大きさ。丸みを帯びた形。振ると、中で小さな玉がからからと鳴った。
ガラガラだ。
赤ん坊用の。
角が丁寧に削られている。ところどころ削り跡が残っていて、滑らかとは言えない。でも──角だけは完璧に丸い。赤ん坊が口に入れても痛くないように。そこだけは、不器用な手が何度も何度もやり直した跡がある。
「……ヴォルフ」
「椅子の修理じゃない」
木くず。三ヶ月前の台所に散らばっていた、あの削りかす。
「……知ってました」
嘘だ。知らなかった。椅子だと思っていた。
「嘘が下手だな」
「あなたに言われたくないです」
ガラガラを両手で包んだ。
木の温もりが、指先に伝わってくる。
この人は、夜中に起きていた。窓辺で恐怖と向き合いながら、同じ夜に──これを彫っていた。怖いまま、震える手で。子どものために。
涙が、一粒だけ落ちた。
ガラガラの木肌に、染みを作った。
それから──笑ってしまった。順番が逆だ。普通は笑ってから泣くものだろう。でも、そうなってしまった。
「……おい」
「泣いてません」
「泣いてる」
「泣いてないです。──笑ってるんです」
「……両方だろう」
「…………両方です」
ヴォルフが黙った。カップの向こうで、口元が少しだけ──緩んだ。
タルトに手を伸ばした。ひと口かじった。
甘い。いつもの味。一年前に初めて食べた時と、同じ味。
ガラガラを、からん、と鳴らした。小さな音が、朝の台所に響いた。
窓の外では、港町の二月の日差しが石畳を照らし始めている。遠くで船の汽笛が鳴った。パン屋の匂いと、潮の匂い。向かいの席から微かに届く──火にかけた薬草のような、温かい匂い。いや、向かいではない。いつの間にか、隣に椅子を寄せていた。
あの夜、港町に着いた最初の夜。宿の前ですれ違った時と同じ匂い。
あの時は、知らなかった。
この匂いの人が、誰なのか。この人がどれだけ不器用で、どれだけ温かくて、どれだけ怖がりで、どれだけ──私のことを、見ていてくれたか。
手の中のガラガラを、もう一度鳴らした。
三つ目のタルトは、まだ誰も食べていない。
でも──もうすぐ。
これが、私たちの家族だ。




