第二九話 僕がしたことと、同じです
カルデア公国の外務省は、潮の匂いがしない。
石造りの建物の中は、書類と蝋燭の匂いがする。廊下の壁に掛かった地図の海岸線が、港町で見慣れたものと微妙に違っていた。同じ海を描いているはずなのに、国が違うと線の引き方が変わる。
六週間。長かった。
最初の一週間は、会ってもらえなかった。穏健派の内部でも慎重論があった。「民間の商人に通商協定の仲介を任せるのか」という声があったと、旧知の外交官が申し訳なさそうに教えてくれた。
二週目で、ようやくレオポルト外務大臣との会談が実現した。
白髪交じりの壮年の男だった。慎重な目をしている。ギルド長のブルクハルトとどこか似ていた。数字を確認してから判断する人の目だ。通訳官が出してくれたカップには、茶ではなく苦い黒い液体が入っていた。この国では朝一番にこれを飲む習慣があるらしい。
「民間仲介の前例は、過去に二件ある。ナディア殿はそれを御存じだそうだな」
「はい。宰相府で外交文書の翻訳に携わっておりました折に、記録を拝見しました」
「翻訳、か」
レオポルトの目が、少し変わった。
「あなたの翻訳は正確だったと、うちの外交官が申しておりましたよ。──あの男は人を褒めない。それが褒めた」
あの気難しい外交官。宰相府にいた頃に夜会の席順で苦労させられた人だ。
交渉は、そこから少しずつ進んだ。
三週目に壁にぶつかった。穏健派内部の慎重派が、会議の席で反論してきたのだ。
「前例の二件は、いずれも両国に居住実績のある商人による仲介です。ナディア殿にはカルデアでの居住歴がない。前例の要件を満たさないのでは」
レオポルトが私を見た。答えを求める目だった。
「おっしゃる通り、居住実績はありません。ですが──前例の要件に『居住』は明記されていません。記載されているのは『双方の通商事情に精通し、両国の信頼を得ている者』です」
翻訳した文書の原文を引用した。宰相府で、深夜に一人で訳していた文書だ。まさか原文を暗記していたことが役に立つとは。
「──通商事情への精通は、宰相府での十年間の実務で立証できます。カルデア側の信頼については、レオポルト外務大臣のご判断に委ねます」
慎重派の男が口を閉じた。
レオポルトが、ふっと息を吐いた。
そこから、条件の擦り合わせに二週間。暫定協定の文言調整に一週間。クルトが細かい物流の数字を計算してくれた。元騎士とは思えない正確さで、「団長の下で兵站計算をやっていたので」と照れくさそうに言っていた。
六週目の午後。
暫定通商協定書に、二つの署名が並んだ。
カルデア公国外務大臣レオポルト。
ヴェスターハーフェン貿易商会代表ナディア・エルスナー。
公爵家の名前は、一度も使わなかった。
ペンを置いた時、レオポルトがこちらを見た。
「ナディア殿。──あなたは、どこの貴族の後ろ盾もなしに、ここに来ましたな」
「はい」
「なぜです」
「……自分の足で立っていたいからです」
レオポルトが、ふっと息を吐いた。笑ったのかもしれない。
「カルデアにも、あなたのような人が必要です」
その言葉は──エドムントの「さすがだ」とは、違う響きがした。
◇
港町の石畳を踏んだ時、足の裏から何かが伝わってきた。
懐かしい、という感覚。六週間ぶりだ。潮の匂い。魚売りの声。パン屋の窯の匂い。全部、同じだ。何も変わっていない。
港の桟橋に、人影が立っていた。
大きな背中──いや、こちらを向いている。正面だ。
ヴォルフ。
外套を着ている。腕は組んでいない。ただ、立っている。桟橋の端で、船が着くのを待っていた。
タラップを降りた。
石畳を歩いた。ヴォルフの前に立った。
見上げた。相変わらず高い。私の頭が肩にも届かない。
「ただいま」
「……ああ」
短い。六週間ぶりの再会なのに、一言。
でも──灰色の瞳が、少し潤んでいた。泣いてはいない。泣く手前の顔。鉄板が揺れている。
ヴォルフの手が伸びた。
私の腹に、そっと触れた。
大きな手が、外套の上から──まだ目立たないお腹を、確かめるように。
「……動いた、か?」
「まだ早いですよ」
「……そうか」
がっかりしたような声だった。
おかしくなって、笑ってしまった。六週間で、この人は「動いたか」と聞ける人になっていた。あの窓辺で「守れるのか」と震えていた人が。
「順調です。二人とも」
「……ああ」
短い。でも──手を離さなかった。
◇
商会の事務所に戻ると、二人の男が待っていた。
ルシアンと、エドムント。
ルシアンは窓際の椅子に座っていた。穏やかな顔。外套の袖に泥はない。今日は正装だ。公爵として来ている。
エドムントは──机の向こうに立っていた。座っていない。いつもなら勧められなくても座る人が、今日は立ったまま。
顔が、疲れていた。前に会った時より、さらに。
「お帰りなさい、ナディア」
ルシアンが立ち上がった。
「カルデアとの暫定協定、署名が済んだと聞いた」
「はい。東方航路は来月から再開の見込みです」
「……立派だ」
エドムントが低く言った。
立派、という言葉に「さすが」の響きはなかった。ただ──疲れた声だった。
ルシアンが私を見た。それからエドムントを見た。
「父上。少し──二人で話せますか」
エドムントの目が、息子を見た。
長い間があった。
「……いいだろう」
二人が、事務所の奥──倉庫に使っている小部屋に入っていった。
扉が閉まった。
ヴォルフが壁際に立っている。私は机の前に立っている。
扉の向こうから、声は聞こえなかった。
◇
小部屋は狭かった。
木箱が積んである。南方航路の荷札がついた箱。帳簿の入った棚。窓は一つ。小さい。冬の午後の光が、薄く差し込んでいる。
エドムントは──息子の顔を、見ていた。
ルシアンは正装をしていた。公爵の紋章入りの留め具。整えられた襟。泥のついていない靴。
宰相をしていた頃の──あの切れ者の顔ではなかった。もっと落ち着いた顔だ。領地で、土を踏み、人と話し、汗をかいてきた人間の顔。
──あの書簡を寄越した時から、この子の目は変わっていた。いや、もっと前からだったのかもしれない。
「父上」
「……何だ」
「あの人が、カルデアとの協定を結びました。公爵家の名前を使わずに。父上の力を借りずに」
知っている。
知っている。だから──ここに来た。
「それで──何が言いたい」
「一つだけ、言わせてください」
ルシアンの目が、まっすぐにこちらを見た。
「あなたが彼女にしようとしていることは──僕がしたことと、同じです」
息が、止まった。
「十年間、あの人は僕の隣にいました。食堂で向かいに座って、引き継ぎ資料を完璧に作って、夜会の席順を一度も間違えず、外交官の名前と好みを全部覚えて──」
ルシアンの声は静かだった。怒っていない。責めてもいない。
ただ、事実を並べている。
「僕はそれを、当たり前だと思っていました。感謝もしなかった。名前すら呼ばなかった。あの人を──道具にしていたのです。十年間」
道具。
その言葉が、胸に入ってきた。刺さったのではない。もっと深い場所に、ゆっくりと沈んでいった。
「父上。あなたは──あの人の才覚を認めている。それは本当です。でも、認めているからこそ手放せない。手放せないから、檻に入れようとしている。善意という名前の檻に」
「……わしは──」
口が動いた。
「善意だったのだ」
言い訳だ。自分でもわかっている。
ルシアンが、少し笑った。苦い笑みだった。
「僕も、そう思っていました。彼女のためだと。公爵家のためだと。──でも父上、それは同じことです」
同じ。
「その善意が──檻なのです」
ナディアが言った言葉と、同じだった。あの朝、事務所で。出発の日に。
善意でも、檻は檻だと。
──わしは。
口を開こうとした。反論しようとした。違う。わしは息子とは違う。十年間放置したのとは違う。わしは本気で、あの女のために──
言葉が、出なかった。
代わりに──妻の顔が、浮かんだ。
死んだ妻。三十年前に亡くなった、ルシアンの母。
あの人も──
小部屋の窓から、冬の光が差し込んでいる。木箱の角に、光の筋が落ちている。
沈黙が、長かった。




