第二八話 善意でも、檻は檻です
クルトが来たのは、朝一番だった。
「姐さん。カルデアに行くって聞いた」
マルテから聞いたのだろう。この港町で秘密は三日と持たない。
「ええ。来週の出発を考えています」
「俺も行く」
断る理由はなかった。クルトは元騎士だ。カルデア国境の地理に詳しい。護衛としても心強い。それに──ヴォルフが来られない以上、信頼できる同行者は必要だった。
「ありがとうございます、クルトさん」
「礼はいらないです。──姐さんがやろうとしてることの意味、わかってますから」
クルトの目が真っ直ぐだった。五年前の命令書を握りしめていた時と同じ目。
交渉資料を広げた。通商条約の特例条項。民間仲介の前例二件。カルデア穏健派の返信。南方経由の運賃比較表。
壁際で、ヴォルフが腕を組んでいた。
準備の間、一言も口を開かなかった。クルトの同行にも頷いただけ。資料にも目を向けなかった。
でも──灰色の瞳が、ずっと私の手元を見ていた。
◇
夜。台所で、二人きり。
今夜の茶は、いつもより濃い。苦い。ヴォルフの手元が狂ったのか、意図的なのか。
沈黙が長かった。
「ヴォルフ」
「ああ」
「……言いたいことがあるなら」
「行くなと言いたい」
遮るように出てきた。この人にしては、速い。
「身重だ。外国だ。馬車で一週間。何があるかわからない」
ヴォルフの声は低い。怒りではない。もっと奥にあるもの。
「俺がついていけない。あんたの隣に──いられない」
隣にいる、とこの人は言った。あの夕食の夜。「どっちでも俺は隣にいる」と。
その「隣」が、物理的に離れる。
「クルトがいる。あいつは信用できる。──わかってる」
わかっている。頭では。
「でも──」
拳が、テーブルの上で握られた。
「守れなかったら──また──」
言葉が途切れた。ヴォルフが自分の拳を見下ろしている。
この人は、閉じ込めたいのではない。
怖いのだ。手の届かない場所で、大切なものを失うことが。五年前の冬山と同じだ。命令通りに送り出して、帰ってこなかった三人。
──でも。
私を止めることは、この人にはできない。
できないのではなく、しないのだ。
止めたら、それはエドムントと同じになる。善意で、好意で、心配で──相手の選択を奪うことになる。
ヴォルフは、それを知っている。言葉にはしないけれど──拳を握ったまま、「行くな」の先を言わないことで、知っていると示している。
手を伸ばした。テーブルの上の拳に、自分の手を重ねた。
「無理はしません。約束します」
「…………」
「来月には安定期に入ります。馬車も、クルトさんが手配してくれます。一番揺れない経路を──」
「ナディア」
「はい」
「……帰ってこい」
短い。ぶっきらぼう。でも──拳が、開いた。私の手を包んだ。温かかった。
「帰ってきます」
「ああ」
◇
出発の朝。
荷物を事務所に降ろしたところで、扉が叩かれた。丁寧な音。
──最後に来ると、わかっていた。
「どうぞ」
エドムントが入ってきた。今日は笑っていなかった。穏やかな好々爺の顔がない。代わりに、疲れた顔。目の下に影がある。
息子の手紙と公爵の通達。あの二つが、この人から何かを削ったのだろう。
「ナディア殿。カルデアに行くと聞いた」
「はい」
「身重の体で、外国への渡航は──」
「存じています」
「……わしは善意で言っている。なぜ──わかってくれない」
その声は、本物だった。演技ではない。この人は本当に、心の底から善意で言っている。
だから──言わなければならなかった。
「お断りします、前公爵閣下」
立ち上がった。背筋を伸ばした。
「恩義はあります。ディートリヒの件では、本当に感謝しています。その気持ちは変わりません」
一呼吸。
「でも──善意でも、人を自由にしない好意は、檻と同じです」
事務所が静まった。
言い過ぎただろうか。──いや、言わなければ伝わらない。この人は善意の人だから、正面から言葉にしなければ届かない。
エドムントの目が──揺れた。値踏みでも笑顔でもない。もっと深いところにある何かが、浮かんですぐに沈んだ。
「……檻、か」
「はい」
エドムントが帽子を手に取った。
何か言いかけて、やめた。口を開いて、閉じて。
扉を開けて出ていった。
──「また来る」とは、言わなかった。
◇
馬車が事務所の前に待っている。クルトが荷物を積み終えた。
ヴォルフが入口に立っていた。外套を着ていない。腕も組んでいない。
ただ、立っている。
「行ってきます」
「ああ」
ヴォルフが一歩近づいた。大きな手が肩に触れて──額に、唇が触れた。
柔らかい。温かい。一瞬。
「二人分、守って帰ってこい」
二人分。私と、お腹の中のもう一人。
目の奥が熱くなった。泣かない。ここでは泣かない。
「……はい」
馬車に乗り込んだ。クルトが御者台の隣に座る。
窓から振り返った。ヴォルフが立っている。手は振らない。ただ、立っている。大きな背中──いや、正面だ。こちらを見ている。
馬車が角を曲がる前に、事務所の階段が目に入った。
手すりが──新しくなっている。
木の色が周りと違う。太い釘が丁寧に打ち込まれている。握ったら、びくともしないだろう。いつの間に直したのか。気づかなかった。
あの大きな手で。あの不器用な人が。夜中に起きていた時間は、木彫りだけじゃなかったのだ。
窓の外が、滲んだ。
クルトが黙って手拭いを差し出した。余計なことは言わない。この人も──不器用な優しさを知っている人だ。
受け取って、一度だけ目元を押さえた。
港町の石畳が、遠くなっていく。




