第二七話 俺は誰の剣にもならない
取引先が、二軒減った。
朝、帳簿を開いて気づいた。昨日まで並んでいた取引先の名前のうち、二つに取り消し線が引かれている。従業員のエルマが申し訳なさそうに報告してきた。
「どちらも、昨夕のうちに取引停止の通知が来ました。理由は──」
「聞かなくても分かります。ありがとう、エルマ」
分かる。
マルテが昼前に来た時には、もっと詳しい話が聞けた。
「前公爵が直接回ってる。二軒とも、先週のうちに面会してたらしい。『公爵家と提携すれば、王都への販路が開ける。関税の優遇もつく』──そう言われたら、小さい商会は揺れるよ」
帳簿を見た。二軒分の取引額は、商会全体の一割弱。致命的ではない。でも、これが続けば話は変わる。
「ブルクハルトの爺さんにも、また接触してるらしい」
「ギルド長はどうですか」
「今のところ踏ん張ってる。だが──前公爵が『王都の倉庫に加えて、枢密院への口利きもする』と言い出したらしい。爺さんの顔が曇ってたよ」
エドムントの手が、広がっている。
提携の提案を断られたから、今度は周りから崩しにかかっている。取引先。ギルド長。この港町でナディアの商会を支えている柱を、一本ずつ揺さぶっている。
(──善意のつもりなのだろう。「わしが手を貸せば、みんなが得をする」と、本気で思っている)
善意だから、たちが悪い。悪意なら怒れる。嫌がらせなら証拠を集めて対抗できる。でも、エドムントがやっているのは──合法的で、公爵家としての資源を使った、正当な提案活動だ。
断る自由はある。でも、断った側が損をする構造になっている。
マルテが出ていった後、窓の外を見た。港は南方航路の荷で動いている。エドムントに頼らずに確保した航路だ。
でも──足元が崩れ始めている。
◇
午後、ヴォルフが市場から戻ってきた。干し肉の包みを片手に、事務所の扉を開ける。
顔が──いつもと違った。
鉄板の顔は同じだ。でも、顎の筋肉が硬い。歯を噛み締めている時の顔だ。
「どうしました」
「……市場で、軍服の男に声をかけられた」
軍服。王都から来た視察員か、あるいは──
「ヴォルフ・フォン・シュタインベルク子爵殿、と呼ばれた」
手が止まった。
子爵。ヴォルフが辞退したはずの子爵位。名誉回復の際に提示されて、自分で断った爵位。
「前公爵が、復権の手続きを進めているらしい。枢密院に申請書が出ている、と」
「……ヴォルフ本人の署名なしで?」
「ないだろうな。署名した覚えはない」
ヴォルフが干し肉の包みを机に置いた。
いつもなら棚にしまう。今日は置いたまま。手が、少し震えている。
──怒っている。
拳ではない。あの頃のように腕を組んで拳を隠す必要もない。今は違う種類の怒りだ。
自分の意思を踏みにじられた怒り。
「あの爺さんは」
ヴォルフの声が低い。静かだ。でも──硬い。
「俺を、駒にしようとしてる」
「ヴォルフ──」
「子爵位を返したのは俺だ。自分で決めた。爵位も金も要らない。あんたの隣にいられれば──それでいいと決めた」
椅子の肘掛けを握っている。木が軋む音がした。
「それを──勝手に覆して、公爵家の剣にしようとしてる」
声が、ほんの少し大きくなった。ヴォルフにしては珍しい。
「俺は誰の剣にもならない」
灰色の瞳が、こちらを見た。
「ナディアの家族でいる。──それだけだ」
剣ではなく、家族。
道具ではなく、人。
この人は──自分がどれだけのことを言ったか、わかっているのだろうか。
たぶん、わかっていない。この人はいつもそうだ。自分がどれだけのものを差し出しているか、気づいていない。
「……ありがとうございます」
「礼を言われる──」
「──ことじゃない。でしょう?」
先に言った。ヴォルフが口を閉じた。
顎の筋肉が──少しだけ緩んだ。怒りが全部消えたわけではないが、口元の硬さが、ほんの少し解けた。
おかしかった。怒っていたはずなのに、私の先回りで毒気を抜かれている。
◇
夕方、郵便の中にルシアンの筆跡があった。
公爵家の紋章の封蝋。ただし、宛先はナディアではない。
同封されていたのは、写しだった。ルシアンが港町の取引先に宛てた公式通達の写し。
『先日、前公爵エドムント・フォン・ヴェルトハイムが各商会を訪問し、ヴェルトハイム公爵家との提携について申し入れを行ったとの報告を受けました。
この件について、現当主である私、ルシアン・フォン・ヴェルトハイムは、前公爵の行動を公爵家として正式に承認しておりません。
前公爵が提示したいかなる条件も、公爵家の公式な約束とはみなされません。ご判断の際には、この点をご留意ください。
ヴェルトハイム公爵 ルシアン・フォン・ヴェルトハイム』
通達の写しの余白に、ルシアンの手書きが添えてあった。
『ナディア。これが僕にできることです。父には別途、手紙を送りました。──ルシアン』
紙を下ろした。
ルシアンが動いた。
公爵権限で、父の行動を否認した。取引先に対して「前公爵の約束は公式ではない」と明言した。
これでエドムントは、少なくとも「公爵家の名前」を使った交渉ができなくなる。
──息子が、父を止めようとしている。
十年前のルシアンにはできなかったことだ。あの人は父の言うとおりに宰相になり、父の望むとおりに政治を動かし、その枠の中で優秀だった。
今は違う。枠を、自分で描き直そうとしている。
(……変わったな、あの人も)
その感慨は、少しだけ複雑だった。でも──ありがたかった。
通達の写しを書類ファイルにしまった。エドムントの契約書と、カルデアからの返信と、ルシアンの通達。引き出しの中に、三通の紙が並んでいる。
──あと一つ。自分の足で、証明すること。
◇
夜、蝋燭の灯りの下で、南方航路の地図を広げた。
カルデア公国までの経路。港町から馬車で南下し、テルマ港から船で東へ。所要日数は片道約一週間。
お腹に手を当てた。まだ平らだ。でも──中にいる。
(……妊婦が外国に行く。正気の沙汰じゃない)
前世の記憶が、ちらりと顔を出した。前世では──妊婦が飛行機に乗る話を聞いたことがある。安定期なら問題ないと。馬車は飛行機ほど快適ではないが、来月にはもう少し安定するはずだ。
リスクはある。
でも──行かなければ、もっと大きなものを失う。
エドムントの力を借りてカルデア危機を解決したら、借りはもう返せないほど大きくなる。公爵家の庇護なしに解決できたら──それが、答えになる。
ヴォルフに相談しなければ。妊婦の妻を外国に送り出すことを、あの人が──「守れなかった」のトラウマを持つあの人が、どう受け止めるか。
簡単ではない。
でも、決めるのは私だ。ヴォルフはそう言った。「あんたが決めろ。俺は隣にいる」と。
地図を畳んだ。蝋燭の炎が揺れた。
明日、話そう。




