第四十話 引き継ぎ資料は、もう要りません
杖の音がした。
石畳を叩く、ゆっくりとした音。事務所の扉が開いて、白髭の老人が入ってきた。
ブルクハルトだった。
半年ぶりに自分の足で歩いている。顔色は三月よりずっと良い。背筋は曲がったが、目の奥の光は変わらない。
「……よう、ナディア殿」
「ギルド長殿。お元気そうで」
「元気ではないが、死んでもおらん」
椅子を勧めた。ブルクハルトが腰を下ろすと、杖を机に立てかけた。杖の先が床を一つ叩く。
「頼みがある」
「はい」
「引き継ぎ資料を作ってくれんか。わしもいつまで持つかわからん。ギルドの仕事を、次の者にちゃんと渡しておきたい」
引き継ぎ資料。
あの言葉が、二年半ぶりに目の前に現れた。
宰相府を去る日に残した三冊のファイル。書棚の三段目に入れた、あの資料。私の十年間を詰め込んだもの。
「引き継ぎ資料は、もう要りません」
ブルクハルトの目が丸くなった。
「要らんだと?」
「代わりに、商人学校を作りましょう」
机の上に、一枚の計画書を広げた。昨夜、書き上げたもの。
「条約の読み方。帳簿の付け方。交渉術。附則の探し方。それを教える場所を、港町に作ります」
「教える場所……」
「引き継ぎ資料を渡しても、資料を読める人がいなければ意味がありません。資料を書ける人を育てれば、資料そのものが要らなくなります」
ブルクハルトが計画書に目を落とした。白い眉の下で、目が動いている。条件を読んでいるのだ。二十年間ギルドを率いた目で。
やがて、白髭の奥で笑った。
「……あんたらしいな」
その一言で十分だった。
午後。港。
マルガレーテが帰る日だった。
辺境行きの乗合馬車が波止場の端に止まっている。荷物は小さな革鞄一つ。来た時と同じ。
ヴォルフが隣に立っていた。
マルガレーテが振り返った。
「お世話になりました。ナディアさん」
「こちらこそ。長い旅でしたね」
「楽しかったですよ。港町のパン、美味しかった」
ヴォルフが口を開いた。
「……また来てください」
マルガレーテが目を見開いた。ヴォルフも驚いているように見えた。自分の口から出た言葉に。
五年前には言えなかった言葉だ。部下を死なせた上官が、その母親に「また来い」と言える日が来るとは、この人自身も思っていなかっただろう。
「あなたのお子さんに会えてよかった。ハンスと同じくらい、いい子だった」
マルガレーテが笑った。穏やかな、農婦の笑い方。
馬車が動き出した。白い髪が窓の向こうで揺れている。
ヴォルフの横顔を見た。傷が癒えたのではない。傷はまだある。でも、傷を抱えたまま歩ける人になった。手紙の写しは引き出しの中にある。あの手紙がある限り、この人は大丈夫だ。
夕方。事務所に戻ると、扉が叩かれた。
マルテの紹介だという若い女性が立っていた。二十代前半。商人見習い。
「商人学校のことを聞いて、見学に来ました。あの……これ、手土産です」
差し出されたのは、紙に包まれた焼きリンゴのタルトだった。
「港町で一番おいしいお店で買ってきました」
あの店だ。ヴォルフが毎朝買いに行っていた店。
タルトを受け取った。まだ温かい。
見学者に事務所を案内した。条約の棚、帳簿の並べ方、取引先のファイル。クルトが横から説明を加えた。「附則が大事なんです」と言っている。半年前に私が教えた言葉を、この子はもう自分の言葉として使っている。
見学者が帰った後、タルトを切り分けた。
私の分。ヴォルフの分。テオの分。クルトとエルマの分。
テオがタルトのかけらを握りしめて、口に運んでいる。指がべたべただ。満足そうに唇を動かしている。
ヴォルフがガラガラを振っている。片手にタルト、片手にガラガラ。器用なのか不器用なのかわからない。
「もう一つ、作るか」
「タルトですか? それとも」
ヴォルフの耳が赤くなった。
それとも、の先は言わなかった。言わなくても伝わっている。
窓の外では、十月の港町の陽射しが石畳を照らしている。パン屋の匂い。潮の匂い。隣の席から届く、火にかけた薬草のような温かい匂い。
テオの寝室の窓枠を見た。
木彫りの鳥が、四羽になっていた。
いつの間に増えたんですか、とは聞かない。
もう、わかっているから。
引き継ぎ資料は、もう要らない。次は、自分の足で歩ける人を育てる。自分でタルトの店を見つけられる人を。
それが、宰相府を出た日に始まった、私の最後の仕事だ。
いや。最後、ではないか。
隣の席でヴォルフが耳を赤くしている。テオがガラガラを振っている。クルトが帳簿を閉じて「お先に失礼します、姐さん」と言った。事務所の扉が閉まる。
四羽の鳥が、夕陽の中で並んでいる。




