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夫が愛人を正妻にするそうなので、十年尽くした宰相夫人を辞めます  作者: 九葉(くずは)
第3章

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第二十四話 子どもが、できました

 薬師の部屋は、乾いた草の匂いがした。


 天井から束ねた薬草がぶら下がっている。棚には硝子の小瓶が並んでいて、中身のわからない液体が琥珀色に光っている。窓は小さい。差し込む冬の日差しが、埃の粒を照らしていた。


 初老の薬師が、私の手首から手を離した。脈を診ていたのだ。


「ナディアさん」


 薬師が穏やかに言った。


「お子が宿っておいでです」


 知っていた。


 知っていた、と思う。二週間前からの朝の吐き気。食欲の変化。匂いに敏感になったこと。前世の記憶にある断片的な知識が、全部同じ答えを指していた。


 知っていたのに──薬師の口から聞いた瞬間、指先が冷たくなった。


「まだ初期です。無理は禁物ですが、順調ですよ」


「……ありがとうございます」


 声が普通に出たことに、自分で驚いた。


 薬師が薬草茶を勧めてくれた。温かい。苦い。飲みながら、手元を見た。


 この手で帳簿を書いている。この手で契約書を読んでいる。この手の持ち主の体の中に、もう一つの命がある。


 薬師の家を出る時、入口のところで助手の若い女が隣の家のおかみさんと立ち話をしていた。こちらを見て、声を落とした。


 聞こえなかった。聞こえなかったが、目が合った。



 港町の通りを歩いた。


 十二月の風が冷たい。外套の襟を立てる。市場は南方航路の荷が入り始めて、少しだけ活気が戻っている。魚売りのおばさんが声を張り上げている。荷馬車が石畳をごろごろ鳴らしている。


 いつもの港町だ。


 なのに、景色が少し違って見えた。


 石畳の段差が気になる。以前は気にしなかったのに。人混みの中で肩がぶつかりそうになると、咄嗟に腹を庇おうとした。まだ何も変わっていないはずの、平らなお腹を。


 ──一度目の私は、母にならなかった。


 路地裏を通り過ぎた時、ふと足が止まった。


 冬の路地裏だった。奥に行くほど空気が冷えて、日差しは入口で止まっている。石畳が黒く濡れているのは、昨夜の雨のせいだろう。


 一度目の人生の最後の記憶だ。追い出されて、寒さの中で倒れて、そのまま。体が動かなくなって、灰色の空を見上げて──終わった。


 あの時の私は、何も持っていなかった。金もなく、行く場所もなく、頼る人もなく。


 子どもなんて、想像すらしなかった。そんな余裕はなかった。明日を生きることすら叶わなかったのだから。


 足が、動かなくなった。


 ──怖い。


 母になることが、怖い。


 一度目の人生で経験しなかったことだ。前世の記憶には「つわり」の名前はあっても、自分の体で感じたことはない。本で読んだ知識と、体で知っている知識は、まったく違う。


 私は知らない。子どもを産むとはどういうことか。育てるとはどういうことか。母親とはどういう生き物なのか。


 ルシアンの母は──エドムントの亡き妻は、どんな人だったのだろう。あの人のことを、私はほとんど知らない。


 冷たい風が、路地裏を吹き抜けた。


 ──でも。


 今回は違う。


 今回は、お金がある。居場所がある。仕事がある。


 そして──帰る場所に、人がいる。


 足が動いた。路地裏を抜けて、商会の通りに出た。見慣れた石畳。見慣れた看板。事務所の窓から、従業員のエルマが手を振っていた。


 振り返した。少し、ぎこちなかったかもしれない。



    ◇



 夜になった。


 夕食を済ませて、皿を片付けて、台所の竈の火が落ちた。


 ヴォルフが向かいの席で茶を飲んでいる。今日の分の焼きリンゴのタルトは、二人で半分ずつ食べた。半分、という食べ方は初めてだった。いつもは丸ごと一つが私の分で、ヴォルフは「いらない」と言う。


 今日は私が「半分、食べませんか」と差し出した。ヴォルフは少しだけ目を丸くして、それから何も言わずに受け取った。


 ──言わなければ。


 茶のカップを両手で包んだ。温かい。指先がまだ少し冷たい。昼間の路地裏の冷気が、まだ残っている気がする。


「ヴォルフ」


「ああ」


「……少し、話があります」


 ヴォルフがカップを置いた。灰色の瞳がこちらを見た。


 待っている。何も急かさない。いつもそうだ。この人は「早く言え」とは言わない。


 ──言おう。


「子どもが、できました」


 蝋燭の炎が、じじ、と音を立てた。


 ヴォルフが動かなかった。


 一秒。二秒。灰色の瞳が、こちらを見たまま。鉄板が──いや、鉄板ではなかった。あの顔の奥で、何かが動いている。波打っている。


 ヴォルフの右手が、テーブルの上にあった。


 震えていた。


 大きな手が、指の先から、微かに──震えていた。


 三人の部下を守れなかった手だ。あの辺境の冬山で、仲間を失った手だ。


 私は──この手に、新しい「守るべきもの」を渡そうとしている。


 怖いだろう。この人も、怖いのだ。


 手を伸ばした。


 震えているヴォルフの右手に、自分の手を重ねた。


 その瞬間──ヴォルフの手が動いた。


 震えたまま、私の手を包んだ。


 大きな手だ。硬い。指が太い。甲に古い傷跡がある。


 温かかった。


 震えているのに、温かかった。


 何も言わなかった。ヴォルフは何も言わなかった。言葉の代わりに、手が全部を伝えていた。


 怖い。でも、ここにいる。


 ──それだけで、充分だった。


 蝋燭の炎が揺れている。台所のどこかで、水が一滴落ちた音がした。窓の外から、遠くの汽笛。


 手を包んだまま、長い時間が過ぎた。


 どちらからともなく指を離した時、ヴォルフが低い声で言った。


「……タルト」


「え?」


「明日。丸ごとのを、買ってくる」


 ──今日、半分ずつにしたことを、気にしていたのだ。


 おかしくなって、少しだけ笑ってしまった。


 笑いながら、目元が熱くなった。


「……お願いします」


「ああ」


 短い。いつも通り、短い。


 でも──震えた手が包んだ温もりを、私はたぶん、ずっと覚えている。

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