第二五話 一緒に怖がればいい
ヴォルフが夜中に起きている気配は、三日目から確信に変わった。
隣の部屋から物音がする。床がきしむ音。窓を開ける音。それから、長い沈黙。
朝食は変わらず二人分の皿が並ぶ。卵焼き。黒パン。干し肉。焼きリンゴ。レモン水。──ただし、ここ数日、卵焼きの厚みが均一になった。焦げがない。パンの切り方も整っている。
以前のヴォルフは、五回に一回は卵に殻を入れたし、パンは大雑把にちぎっていた。それが、妙に──丁寧になっている。
丁寧すぎる。
(……不安な時ほど、手元に集中する。この人は、そういう人だ)
宰相府でも同じだった。ルシアンは不安を抱えると書斎に籠もって書類を積み上げた。ヴォルフは台所に立って卵を割る。方法は違うが、手を動かして何かを制御しようとしているのは同じだ。
──違う。ルシアンの話はいい。今は関係ない。
向かいの席で、ヴォルフが黒パンをちぎっている。丁寧に。正確に。同じ大きさに。
食べ終えた皿を片付ける時、ヴォルフの目の下に隈があるのに気づいた。
指摘しなかった。
その夜。
蝋燭を消して、布団に入って、目を閉じた。
眠れない。
体は疲れているのに、頭が回っている。南方航路の荷が来週届く。エドムントの契約書はまだ引き出しの中。カルデアの情勢は続報がない。帳簿の数字。取引先の名前。来月の仕入れ計画──
隣の部屋から、足音がした。
床がきしむ。窓が開く音。
──また、起きている。
布団を出た。上着を羽織って、隣の部屋の扉を──叩かずに、開けた。
ヴォルフが窓辺に立っていた。
外套を着ていない。薄い寝巻きの上に、膝掛けだけをかけている。窓から入ってくる十二月の夜風が冷たいのに、寒そうにしていない。
大きな背中だった。
広い肩幅。少しだけ右膝をかばう立ち方。一年前、宿の前ですれ違った時と同じ背中。
あの時は、追いかけなかった。
今は、ここにいる。
「ヴォルフ」
背中が、わずかに動いた。振り返らない。
「……起こしたか」
「起きてました」
窓辺に近づいた。ヴォルフの隣に立つと、港の灯りが見えた。冬の海は黒い。波の音だけが、低く繰り返している。
沈黙が流れた。
嫌な沈黙ではない。商会を開いて間もない頃。事務所で、蝋燭の灯りの下で、初めてヴォルフに弱さを見せた夜と同じ空気。
あの時は、私が話した。ヴォルフが聞いてくれた。
今夜は──
「怖いんだな」
言った。
ヴォルフの肩が、ほんの少しだけ下がった。
「……わかるか」
「三日間、卵焼きに焦げがない」
「…………」
「あなたが丁寧に料理する時は、何かを考えている時です。嘘をつく時は理由が短くなるし、怒っている時は拳を隠すし、怖い時は──手元が正確になる」
ヴォルフが、ようやく振り返った。
灰色の瞳が、蝋燭のない暗い部屋の中で、窓からの月明かりだけに照らされている。
「……三人を、守れなかった」
低い声。
あの夜と同じ言葉だ。二月の事務所で、肩を斬られた後に語った言葉と同じ。
「あの時も、ちゃんとやれていると思ってた。足りてると思ってた。それでも──三人、死んだ」
波の音が、窓の外から聞こえている。
「今度は──妻と、子どもだ」
声が、少し掠れた。
「俺に──守れるのか」
守れるのか。
私は──「守れる」とは言えなかった。
嘘になる。何があっても守れると保証できる人間など、この世にいない。ヴォルフはそれを知っている。辺境の冬山で、身をもって知っている。
だから、違うことを言った。
「一緒に怖がればいい」
ヴォルフの瞳が、揺れた。
「完璧に守れなくても──一緒にいてくれたら、それでいい」
あの夜、ヴォルフが私に言ってくれたのは「あんたは間違ってない」だった。
短い。事実の確認。それだけで、十年分の傷が少し軽くなった。
今度は私の番だ。
でも──「あなたは間違っていない」とは言わなかった。ヴォルフの恐怖は、正しいとか間違っているとかの問題じゃない。
ただ、隣にいること。一緒に怖がること。それだけが、今の私にできること。
ヴォルフが目を伏せた。
長い沈黙。波の音。冷たい夜風。
「……あんたは」
「はい」
「怖くないのか」
笑ってしまった。少しだけ。
「怖いです。ものすごく」
前世の記憶が、一瞬よぎった。冬の路地裏。灰色の空。あの時は一人だった。
「でも──一人で怖がるより、二人で怖がる方がましです」
ヴォルフの口元が、かすかに──ほんのかすかに動いた。
笑い、とは言えない。でも、鉄板の端が、少しだけ緩んだ。
「……ましか」
「ましです」
「……そうか」
窓を閉めた。ヴォルフの手が窓枠を押す。大きな手。四日前に私の手を包んだ手。
まだ少し、震えていた。
でも──閉めた窓の向こうで、波の音が遠くなった。部屋の中の空気が、少しだけ温かくなった。
その夜は、二人とも眠れなかった。
でも、一人で眠れない夜よりは、ずっとましだった。
◇
翌日の午後だった。
事務所で帳簿を開いていたら、扉が叩かれた。丁寧な音。
──わかっていた。この叩き方。
「どうぞ」
エドムントが入ってきた。いつもの穏やかな笑顔。杖はつかない。足取りは確かだ。
「やあ、ナディア殿。調子はどうかな」
調子。
その聞き方に、含みがあった。
「おかげさまで」
「それはよかった。──体の方も、順調かな」
手が止まった。
体の方も。
「……何か、お聞きになりましたか」
「港町は狭いからな。薬師のところに行ったと聞いた。めでたいことだ」
穏やかに笑っている。声は温かい。祝福の言葉だ。
なのに──胃の底が、また冷たくなった。
「ナディア殿。子どもが生まれるとなれば、なおさらだ」
エドムントが椅子に──また、勧められていない椅子に座った。
「この港町は良い町だが、子を育てるには心許ない。教育、護衛、身分の保証──公爵家の後ろ盾があれば、その子の将来は──」
「前公爵閣下」
声が、自分でも驚くほど硬かった。
エドムントの言葉が止まった。
「恩義はあります」
立ち上がっていた。いつ立ったのか、自分でもわからない。
「ディートリヒの件では、本当に感謝しています。でも──」
声が震えた。怒りだ。恐怖ではない。
「私の子どもを、交渉材料に使わないでください」
事務所が、しん、と静まった。
壁際で、ヴォルフが立ち上がっていた。声は出していない。ただ、立っている。
エドムントの目が──一瞬だけ、細くなった。あの値踏みの目だ。
それから、穏やかな笑顔に戻った。
「……気分を害したなら謝る。わしは善意で言っておるのだ」
善意。
その言葉が、一番重い。
「失礼しました。少し、感情的になりました」
「いや、母親とはそういうものだ。強い方がいい」
エドムントが立ち上がり、帽子を手に取った。
「また来る」
同じ言葉。同じ笑顔。同じ──善意の檻の匂い。
扉が閉まった後、膝が少し震えていた。
ヴォルフが何も言わずに、事務所の窓を閉めた。
十二月の隙間風が止まった。冷たかった空気が、少しだけ和らいだ。
──この人は言葉より先に、手を動かす。
向かいの席に戻って、帳簿を開き直した。窓の外の風音がなくなった分、蝋燭の炎が安定している。
揺れない灯りの下で、もう一度だけ息を吐いた。




