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夫が愛人を正妻にするそうなので、十年尽くした宰相夫人を辞めます  作者: 九葉(くずは)
第3章

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第二十三話 南方経由なら、来週の荷に間に合います

 吐き気で目が覚めた。


 窓の外はまだ暗い。十二月の港町の夜明けは遅い。布団の中で体を丸めて、深く息を吐いた。胃の底が重い。昨夜は早めに寝たのに、体が鉛のようだ。


 ──風邪かしら。


 先週もこうだった。朝だけ調子が悪くて、昼になると治る。夕方にはもう忘れている。朝だけ。朝だけが、おかしい。


 何か引っかかるものがあった。頭の隅で、前世の記憶の断片が手を振っている気がする。


 でも今は、帳簿が先だ。


「起きたか」


 階下からヴォルフの声がした。竈に火が入っている音。


 階段を降りた。台所の入口に、木くずが散らばっていた。小さな削りかす。踏むと靴の裏にくっつく。


(……何か削ったのかしら。椅子の脚でも直してる?)


 気に留めずに台所に入った。


 机の上に二枚の皿。卵焼き。黒パン。干し肉。レモン水。私の皿にだけ焼きリンゴ。


 いつもの朝食だ。


 ──ただし、魚がない。


 先週あたりから、朝食に魚が出なくなった。以前は塩漬けの鰯や干物が並んでいたのに。


「ヴォルフ。最近、魚が出ませんね」


「市場で良いのがなかった」


 一週間ずっと良いのがない。港町の市場で。


 ……まあ、時期的なものかもしれない。十二月は漁が減る季節だ。たぶん。


 レモン水を飲んだ。酸っぱさが、胃の重さを少し流してくれる。


 ヴォルフが茶を淹れてくれた。カップを両手で受け取ると──温かかった。いつも通り、渡す前に手で温めてあるのだろう。もう知っている。知っているけれど、毎朝ありがたい。


「ありがとうございます」


「ああ」


 短い朝が過ぎていく。



    ◇



「姐さん、大変だ!」


 マルテが事務所に飛び込んできたのは、帳簿を開いた直後だった。茶がこぼれそうになって、慌ててカップを押さえた。


「朝から騒がしいですね」


「騒がしいどころじゃねえ。カルデアで政変だ」


 帳簿を閉じた。


「政変?」


「軍の一部がクーデターを企てたらしい。港を押さえてる。東方航路が──止まった」


 東方航路。


 香辛料。薬草。カルデア経由の絹。うちの取扱品目の三割が、あの航路を通っている。


「いつから」


「三日前だ。王都の早馬が来て、今朝ギルドに通達が回った。正式な封鎖命令じゃないが、カルデアの港に船が入れない」


 頭の中で帳簿の数字が回り始めた。


 仕入れコスト。在庫量。納品予定。来週の出荷分は倉庫にある。再来週の分は──ない。


(──猶予は二週間)


 二週間以内に代替の仕入れルートを確保しないと、取引先への納品が止まる。納品が止まれば信用が落ちる。一年かけて積み上げた信用が、二週間で崩れる。


「マルテさん。南方航路の運賃、今の相場はいくらですか」


「南方? ええと──東方の三割増しくらいだな」


 三割増し。利益率は下がる。でも取引は維持できる。


「南方経由でカルデアの品目を代替できる仕入れ先はありますか」


「南方にはカルデアの品は──」


「直接のカルデア品でなくてよいんです。同等品質の香辛料と薬草が、南方諸国のどこかにあるはずです」


 マルテが目を見開いた。


「……姐さん、もう動くのか。通達が回って半日だぞ」


「半日あれば、帳簿は読めます」


(──腹が立つ時ほど、計算が速くなる。前世でもそうだった)



    ◇



 午後、ギルド長の館に向かった。


 ブルクハルトの書斎は一年前と変わらない。重厚な樫の机。老眼鏡。白髭。ただし、今日の白髭の奥の目は──困っている。


「ナディア殿。来ると思っておった」


「東方航路の件です」


「うむ。ギルドの商人は皆、頭を抱えとる。うちの取扱量の四割が東方だからな」


 四割。うちの三割より多い。ギルド全体への打撃は甚大だ。


「ギルド長殿。南方迂回路の手配を提案します」


 準備してきた書類を広げた。


「南方諸国のうち、テルマ港とリオネス港に、カルデア品と同等品質の香辛料の取引実績があります。薬草はリオネス港の方が品揃えがよい。運賃は三割増ですが、納品を止めるよりは──」


「まともだ」


「来週の荷に間に合わせるなら、明後日までに発注が要ります。ギルド名義で発注すれば、個別の商会より運賃が下がります」


 ブルクハルトが書類を引き寄せた。老眼鏡を持ち上げて数字を確認している。


 長い沈黙。


 ──前と同じだ。この人は数字を確認してから答える。公正な人だ。


「……リオネス港の薬草は、品質の差はどうだ」


「カルデア産より苦みが強いですが、効能は同等です。取引先には事前に説明すれば問題ないかと」


「よかろう。ギルド名義で動く。ナディア殿、手配を頼めるか」


「はい」


 書類にブルクハルトの署名が入った。


 ギルド長の館を出た時、空は曇っていた。十二月の港町の風が冷たい。


 ひとつ、片付いた。


 ──エドムントの助けは、借りなかった。



    ◇



 三日後の夕方だった。


 南方航路の手配が動き始めて、最初の荷がリオネス港を出たという連絡が来た。来週には届く。取引先にも通知を出した。ひとまず、呼吸ができる。


 帳簿を閉じて、冷めた茶を飲もうとした時──マルテが、いつもより静かに事務所に入ってきた。


 蹴り開けない時のマルテは、大体ろくでもない話を持ってくる。


「姐さん」


「何ですか」


「ブルクハルトの爺さん、昨日──前公爵に会ったらしい」


 手が止まった。


「会った?」


「前公爵が直接ギルド長の館に来たんだと。『王都に公爵家の倉庫がある。ギルドの荷を預かる用意がある』って」


 王都の倉庫。


 東方航路が止まっている間、南方経由の荷はどこかに保管しなければならない。港町の倉庫は足りるが、王都への転送を考えると──王都側に倉庫があれば、物流は格段に楽になる。


 エドムントが差し出したのは、ナディアが持っていないカードだった。


「ブルクハルトの爺さん、ちょっと揺れてるらしい」


 揺れている。


 あの公正なギルド長が。


「……そうですか」


「姐さん、あの前公爵──何がしたいんだ」


 マルテの目が、珍しく真剣だった。


 何がしたいか。


 引き出しの中に、答えがある。紙四枚の、上等な羊皮紙の契約書の中に。


「大丈夫です。対処します」


 マルテが出ていった後、窓の外を見た。


 港の灯りが、一つずつ点いていく。船が少ない。東方航路が止まって、港が静かになっている。


 エドムントは「助けてやろう」と言いに来たのではない。


 「助けが必要な状況」を、使いに来たのだ。


 危機の時に手を差し伸べる。ありがたい。ありがたいから、断れない。断れないから、もっと深い条件を呑むことになる。


(──善意は、借金と同じだ。積み上がるほど返しにくくなる)


 朝の吐き気のことを、ふと思い出した。今日は昼前には治っていた。毎朝、同じだ。朝だけ。


 引っかかるものが、まだ頭の隅にある。


 でも今は、帳簿の方が先だ。

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