第二十二話 さすがだ、と言われるほど逃げられなくなる
契約書は上等な紙に書かれていた。
厚みのある羊皮紙。角が綺麗に揃えられていて、封蝋はヴェルトハイム公爵家の紋章。インクの色は黒ではなく深い藍。公爵家の正式な文書に使われる色だ。十年間、嫌というほど見てきた。
朝食を終えて事務所に降りたら、もうエドムントが椅子に座っていた。昨日と同じ席。約束の時間より半刻早い。
「お早い到着ですね、前公爵閣下」
「年寄りは朝が早くてな」
エドムントが穏やかに笑った。机の上に契約書を広げる。
「読んでもらえるかな」
受け取った。
ヴォルフが壁際の椅子に座っている。腕を組んで、目を閉じているように見える。でも閉じていない。あの灰色の瞳が、外套の影から事務所の入口を見ている。
◇
契約書は全部で四枚だった。
第一条。ヴェスターハーフェン貿易商会は、ヴェルトハイム公爵家の庇護を受け、その名義の下で事業を行う。
第二条。商会の運営はナディア・エルスナーが担う。人事権は代表に帰属する。
第三条。利益の三割を公爵家に納める。公爵家は名義、政治的庇護、および王都での取次を提供する。
第四条。
ここで、指が止まった。
第四条第二項。取引先の選定に関しては、ヴェルトハイム公爵家の事前承認を要する。
──ここだ。
一条から三条は悪くない。利益の三割は安くないが、公爵家の名義と政治力がつけば、南方航路以外の通商路にも手が伸びる。王都での取次があれば、枢密院との折衝も楽になる。表面だけ見れば、好条件だ。
でも、四条二項。
取引先を選ぶ権利が公爵家にある。つまり、どこと商売するか、しないかを、公爵家が決められる。
これは庇護ではない。
(……首輪だ)
紙の上に書かれた文字は丁寧で、条項の番号は正確で、インクの色は美しい。
でも、四条二項がある限り、この契約を結んだ日から、私の商会は私のものではなくなる。
「前公爵閣下」
「うむ」
「第四条第二項について、お伺いしてよろしいですか」
エドムントの目が、ほんの一瞬だけ──細くなった。
一瞬だ。すぐに穏やかな表情に戻る。
「取引先の選定に公爵家の承認が要る、とありますが。これは具体的に、どのような場面を想定されていますか」
「ああ、それはな。港町の商人は玉石混交だ。公爵家の名義を使うからには、信用のおける相手とだけ取引してもらわねばならん。ナディア殿の判断を疑うわけではないが、念のための安全弁だ」
安全弁。
宰相府にいた十年間、同じ言葉を何度聞いただろう。
ルシアンも言っていた。「念のための確認だ」「君の判断を疑うわけではない」。そう言いながら、外交文書の最終決裁権は常にルシアンにあった。私はいつも、最終の手前までしか触れなかった。
「安全弁、ですか」
「そうだ。実際には、ナディア殿が選んだ相手にわしが口を出すことはほとんどない。信頼しておるからな」
ほとんど。
その「ほとんど」が問題なのだ。
「失礼ですが、この条項があると、私が取引先を開拓しても、公爵家が承認しなければ成立しません。逆に言えば、公爵家が望む相手と取引するよう、事実上強制されることもあり得ます」
エドムントが、ふっと息を吐いた。
怒りではない。感嘆に近い。
「……さすがだ、ナディア殿。四条二項の意味を、ここまで正確に読み取れる人間は少ない」
さすがだ、と言われた。
ブルクハルトにも言われた。マルテにも言われた。カルデアの外交官にも言われた。
でも今、その言葉の後ろに──別のものが聞こえる。
さすがだ。だから手元に置きたい。
「修正は可能だ。四条二項を削除してもよい。わしが言いたいのは形ではなく──ナディア殿、あんたの才覚が、この小さな港町だけに留まるのは惜しい」
エドムントが身を乗り出した。
「ディートリヒが消えた。だが、あの男の席は空いたままだ。軍務省にも外務にも、新しい顔が出てきておる。わしが動ける時間は、限られている」
声が低くなった。穏やかな好々爺の笑顔が、一瞬だけ消えた。
代わりに覗いたのは、政治家の目だ。
「公爵家がこの先も影響力を持ち続けるには、力が要る。知恵が要る。あんたのような人間が、要る」
──要る。
その一語が、胸に引っかかった。
大切にしている、とは言わなかった。必要だと言ったのだ。道具を語る時と同じ順番で──まず用途があって、次に性能がきて、最後に値段が決まる。
「……検討させてください」
「もちろんだ。急かすつもりはない」
急かすつもりはない、と言いながら、契約書を置いていった。
「また来る。わしは諦めの悪い男でな」
笑って帰っていった。
扉が閉まった。
◇
契約書を引き出しにしまった。
朝のレモン水の残りが机の上にある。種は沈んでいた。
椅子に座ったまま、天井を見上げる。事務所の天井は低い。宰相府の書斎とは比べものにならない。木の梁に、去年の冬に直した跡が残っている。
──十年間、同じだった。
宰相府でも、私は「要る」と言われたことがある。ルシアンに直接ではない。取引先から。外交官から。宰相府の部下から。「あなたがいてくれるから回っている」と。
でも──「回っている」は機械の話だ。歯車が噛み合っているかどうかの話であって、歯車が何を感じているかの話ではない。
エドムントは──感謝しているのだろう。善意もあるのだろう。
でも、その善意の中身を開けてみたら、中に入っているのは道具の扱い方だった。
帳簿を開いた。今月の収支を見る。黒字だ。大きくはないが、安定している。
この帳簿の数字は、全部私が作った。公爵家の名義ではない。ナディア・エルスナーの名前で、港町の商人たちと一件ずつ取引を重ねて積み上げた数字だ。
引き出しの中の契約書が、やけに重い気がした。紙四枚のはずなのに。
◇
夕食の時、ヴォルフは何も聞かなかった。
黒パンをちぎって、干し肉を噛んで、茶を飲んでいる。いつも通りだ。
エドムントがいた時間、ヴォルフは壁際で一言も口を開かなかった。契約書の中身も見ていない。
でも──たぶん、全部聞いていた。
「ヴォルフ」
「ああ」
「……どう思いますか」
聞いてしまった。聞くつもりはなかったのに。
ヴォルフがパンを置いた。
「あんたが決めろ」
短い。いつも通り短い。
「どっちでも──俺は隣にいる」
隣にいる。
前に立つ、ではない。後ろで守る、でもない。
隣。
「……ありがとうございます」
「礼を言われることじゃない」
花の時と同じ言葉。毛布の時と同じ言葉。
この人は「隣にいる」とだけ言う。「こうしろ」とは言わない。
エドムントは「こうした方がいい」と言った。ルシアンは「こうするつもりだ」と言った。
ヴォルフだけが、「あんたが決めろ」と言う。
引き出しの中の契約書は、明日もそこにある。
でも──答えは、もう少しだけ見えた気がした。




