第二十一話 あの爺さんは、目が笑ってなかった
港町に来て、一年が経った。
十月の終わりに宰相府を出て、十一月に商会を開いて、冬を越して、春が来て、夏に戦って、秋に結婚して──そしてまた、晩秋。
窓の外から冷たい潮風が入ってくる。今朝は曇りだ。漁船の汽笛がいつもより近い。
階下の台所で、かちゃん、と皿の音がした。
降りていくと、ヴォルフが竈の前に立っていた。袖をまくった腕が、小さな鍋をかき混ぜている。卵を割る手つきはだいぶ上達した。ひと月前までは五回に一回、殻が入っていたのに。
「起きたか」
「おはようございます」
「ああ」
結婚して三ヶ月。この短いやり取りが、毎朝の儀式になっている。
机に着くと、いつもの二枚の皿。卵焼き。黒パン。干し肉の薄切り。私の皿にだけ焼きリンゴ。そこまでは、いつも通り。
──ただ、今朝は見慣れないものが添えてある。
「ヴォルフ。これ、何ですか」
「レモン水」
「……レモン水」
「ああ」
硝子のコップに、薄く濁った液体が入っている。レモンの切れ端が底に沈んでいる。切り方が少し雑で、種がひとつ浮いている。
「珍しいですね。新しい飲み物を試してるんですか」
「市場で安かった」
それだけ言って、ヴォルフは自分の黒パンをちぎり始めた。
口をつけてみる。酸っぱい。でも、朝のだるさが少し引く気がする。ここ数日、朝食の前に妙な重さが胃の底にあった。秋の寒暖差だろう。港町の気候にはだいぶ慣れたつもりだけれど、王都とは違う湿気が骨に来る。
──市場で安かった、か。
この人が嘘をつく時は、理由が短い。道に咲いていた花も、椅子の修理だと言った木くずも。
でも、今回は本当に安かったのかもしれない。十一月はレモンの旬だ。
(……素直に受け取りなさい。朝から疑心暗鬼は、人事評価の低い社員がやることよ)
前世の記憶が妙なところで顔を出す。
◇
午前中の事務所は忙しかった。
帳簿を二冊、南方航路の運賃表を一枚、リーデル商会への請求書を三通。従業員のエルマが淹れてくれた茶は、飲みかけのまま冷めている。
従業員が六名になって、私が一人で抱える仕事は減った。減ったはずだ。なのに帳簿の数は増えている。
(……人を雇うと管理業務が増える。これ、前世でも同じことを思った気がする)
「姐さん、いるか!」
マルテが扉を蹴り開けるように入ってきた。三十三歳の仲買商人は、一年経ってもまるで落ち着かない。
「いますよ。いつもいます」
「隣町のバーデンハイムに新しい織物問屋ができたんだ。うちと組みたいって話が来てる」
「条件は」
「仲介手数料が一割。納品は月二回。まあまあだと思うんだが」
書類を受け取って、目を通す。条件は悪くない。織物は港町の取扱品目にまだ少ない。商品の幅が広がるのはいい。
「進めましょう。ただ、納品の遅延条項だけ確認させてください」
「さすが姐さん、細かいねえ」
「細かくないと、後で困るのはマルテさんですよ」
マルテが肩をすくめて出ていった。
一年前、酒場で初めて会った時は「女一人で商売ごっこか」という目をしていた男だ。今は「姐さん」と呼んで、新しい取引を真っ先に持ち込んでくる。
窓の外で、船の汽笛が鳴った。荷揚げ場に新しい船が入っている。
この港町で、商会は回っている。ちゃんと、回っている。
◇
午後、事務所の扉が叩かれた。
マルテではない。マルテは蹴って開ける。従業員は声をかけてから入る。取引先は事前に約束を取る。
扉を叩く音が、妙に丁寧だった。
「どうぞ」
入ってきた人物を見て、背筋が自然に伸びた。
白髪。端正な身なり。六十を過ぎた壮年の男が、杖をつかずに歩いてくる。足取りに老いはない。目だけが──
鋭い。
エドムント・フォン・ヴェルトハイム。前公爵。ルシアンの父。そして、ディートリヒの一件で力を貸してくれた恩人。
「前公爵閣下。これは──」
「急に押しかけてすまんな、ナディア殿」
エドムントが穏やかに笑った。声は温かい。物腰は柔らかい。
なのに、事務所の中を見回すその目が──帳簿の積み方、棚の書類の量、従業員の数、壁際の椅子の位置まで──じっと見ている。
値踏み、という言葉が浮かんだ。
すぐに消した。この人は恩人だ。恩人の目を「値踏み」と呼んではいけない。
「ディートリヒの件では世話になった。改めて礼を言いに来たのだ」
「とんでもございません。前公爵閣下のお力添えあってこそ──」
「いやいや。あれはナディア殿の手腕だ。わしは少し手を貸しただけでな」
少し、ではなかった。査問会の開催を枢密院に請求したのはエドムントだ。国王の捜索令を引き出したのもこの人の政治力だ。
感謝している。本当に。
──だから、胃の底が少し冷たくなっている理由が、自分でもわからなかった。
壁際の椅子で、ヴォルフが腕を組んでいる。いつもの姿勢。いつもの鉄板の顔。ただ、灰色の瞳が──エドムントから一度も逸れていない。
「商会も順調のようだな。立派なものだ」
「おかげさまで」
「うむ。──ところで」
エドムントが椅子に腰を下ろした。誰にも勧められていないのに、自然に座る。この人はそういう人だ。場を「自分の場」にする所作が体に染みついている。
「明日、もう一度参ってよいかな。少し、提案がある」
提案。
その一語が、耳に引っかかった。
「……もちろんです。お待ちしております」
エドムントは満足げに頷いて、茶を一杯だけ飲んで帰っていった。
扉が閉まった後、事務所に静かな空気が戻った。
壁際のヴォルフは、まだ腕を組んだままだった。
◇
夕食は、朝と同じ机で食べる。
卵焼きの残りと、黒パンと、市場で買った塩漬けの魚。二人分の皿。向かいの席にヴォルフ。
宰相府の銀の燭台の下で、一人で食べていた夕食とは違う。あの頃は、向かいの席にルシアンがいた。いたけれど、いないのと同じだった。
今は違う。向かいに座っている人が、ちゃんと「いる」。
ヴォルフが黒パンをちぎりながら、不意に口を開いた。
「あの爺さん」
「……エドムント前公爵閣下のことですか」
「目が笑ってなかった」
ヴォルフのパンをちぎる手が止まった。窓の外を見ている。
「笑ってたろう。部屋に入ってきた時も、茶を飲んでる時も。ずっと笑ってた」
ヴォルフが灰色の瞳をこちらに向けた。
「口は笑ってた。目は違う」
──気づいていた。
たぶん、最初から。あの穏やかな笑顔の裏に、何かが動いている。帳簿を見る目。棚を数える目。従業員の頭数を数える目。
恩人だ。恩人なのだ。
「明日、話を聞いてみます」
「ああ」
ヴォルフはそれだけ言って、パンの続きを食べ始めた。
朝のレモン水のことを思い出す。種が一つ浮いていた、あの少し雑な切り方。この人は、料理を上手にしたくて台所に立っているわけではない。
ただ、私の朝に何かを用意したいだけなのだ。
エドムントの「提案」が何かは、まだわからない。
でも──胃の底の冷たさは、レモン水のせいだけではなかった。




