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夫が愛人を正妻にするそうなので、十年尽くした宰相夫人を辞めます  作者: 九葉(くずは)
第2章

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第二十話 五年前から、ずっと

 港町に戻った日の夕方、ヴォルフが「少し歩かないか」と言った。


 珍しい。この人から誘うのは初めてかもしれない。


 商会の裏手を抜けて、港の外れの石段を降りた。海を見下ろす場所だ。防波堤の先に夕陽が沈みかけていて、海面が赤く染まっている。


 潮の匂い。波の音。遠くで船の汽笛が鳴った。


 ──帰ってきた。ここに。


 ヴォルフが石段に腰を下ろした。隣に座った。肩の高さが全然違う。いつものことだけれど、こうして並ぶとあらためて大きい。


 しばらく黙って海を見ていた。


「……ナディア」


「はい」


「伝えてないことがある、と言った」


 査問会の後、枢密院の廊下で。「帰ったら話す」と言った。


 帰ってきた。


「ああ」


 ヴォルフが海を見ている。夕陽が灰色の瞳を橙色に染めている。


「五年前。騎士団長だった頃、宰相府の警護任務についていた」


 知っている。噂と経歴からそこまでは推測していた。


「夜の巡回で──あんたを見た」


 息が止まった。


「書類の山に囲まれて、深夜まで一人で仕事してた。蝋燭が短くなっても替えずに、目を擦りながら。──誰にも気づかれないように」


 五年前。結婚五年目の冬だ。ルシアンの不貞が始まった頃。翻訳の仕事を受けて資金を貯め始めた頃。


 あの頃の私を──見ていたのか。


「机の端に焼きリンゴのタルトがあった。あんたがそれを食う時だけ、少しだけ──顔がほころんだ」


 覚えている。宰相府の厨房に頼んで焼いてもらっていた。深夜の仕事の唯一の楽しみだった。


「好物だと思った」


 だから。


 だから港町で会った時、毎朝タルトを買ってきてくれたのだ。偶然ではなく。「たまたま」ではなく。五年前に見た光景を、覚えていたから。


「冬の巡回で、あんたの部屋の灯りがいつも最後まで消えなかった」


 ヴォルフの声が、静かに続く。


「窓から冷たい風が入っているのに、閉めないで仕事してた。──寒がりなのに」


 馬車の窓を閉めたこと。

 カップを両手で温めてから渡したこと。

 毛布をかけたこと。


 全部──全部、あの時から知っていたのだ。


「騎士団を辞めた後、あてもなく歩いて──この港町に流れ着いた。そしたら、宿の前であんたとすれ違った」


 十月の夕暮れ。港町に着いた最初の夜。


 大きな背中。右足をかばう歩き方。潮風に混じって微かに届いた──火にかけた薬草のような、温かい匂い。


 あの夜、胸がざわついた理由。


 ──ヴォルフも、私を見ていたのだ。


「気づいた。あの人だと」


 ヴォルフの声がかすれた。


「護衛の面接に来たのは──偶然じゃない。あんたの商会だと知ってたから」


 あの日の酒場。「茶菓子付きの休憩」を条件に出した、無愛想な男。


 偶然なんかじゃなかった。最初から。


「五年前から──ずっと、覚えてた」


 風が吹いた。夕陽が海に沈んでいく。赤い光が水平線に溶けていく。


 ヴォルフの耳が赤い。夕陽のせいではない。もう、夕陽のせいにはしない。


 涙が出た。


 止められなかった。止める必要もなかった。


「……知ってました」


 声が震えた。


「全部じゃないけど──途中から、気づいてました。花が道端に咲くはずがないことも。タルトが偶然じゃないことも」


 ヴォルフが、こちらを見た。


「でも五年前からだったなんて──それは、知らなかった」


 笑った。泣きながら笑った。


「ずるいです。あなたは、ずっとずるい」


「……あんたには言われたくない」


 波止場で聞いた言葉と、同じだった。あの時と同じ不器用な返し方。


 ヴォルフの手が伸びて、私の涙を指で拭った。大きな指。硬い指。でも触れ方はいつも柔らかい。


「帰ろう」


「はい」


「──式の準備、あいつらが待ってる」


 ああ。そうだった。


 帰ったら、結婚式だ。



    ◇



 港町の結婚式は、大層なものではなかった。


 大聖堂もない。

 純白のドレスもない。

 百人の来賓もない。


 商会の事務所の前に、マルテが長机を出した。花はブルクハルトが港の温室花屋で買ってきた。白い花。冬咲きのカメリアではないけれど、白い花弁がよく似ている。


 立会人はクルト。証人はリーデル商会の主人。祝辞はブルクハルトが務めた。


「ナディア殿。あんたが港町に来た時、正直言って半年もたないと思っとった」


 白髭の奥で、ギルド長が笑った。


「見事に裏切られた。──これからも裏切り続けてくれ」


 笑った。


 ヴォルフが隣に立っている。いつもの外套ではなく、仕立てたばかりの上着を着ている。マルテが無理やり着せたらしい。大きな体には少しきつそうだ。


 机の上に、焼きリンゴのタルトが山のように積んであった。


 ウェディングケーキの代わり。


 港町の菓子屋の親父が「全部うちが持つ」と言い張ったらしい。マルテが「ここの姐さんの好物だからな」と得意げに説明している。


 ヴォルフが一つ取って、私に差し出した。


「茶菓子じゃない」


「え?」


「家族の菓子だ」


 ──あの日。向かいの席に座って、タルトを二つ並べて、「家族なら、一緒に食うだろう」と言った日。


 あの言葉の続きだった。


 タルトをかじった。甘い。いつもの味。


 でも──隣に誰かがいると、同じ味がこんなに違う。


 泣きながらかじった。二口目も三口目も。


 マルテが「姐さん、泣きすぎだ」と笑い、クルトが「団長、奥さん泣かせるなよ」とからかい、ブルクハルトが「まあまあ」と白髭を撫でた。


 ヴォルフは何も言わなかった。


 ただ、隣に立って──耳を真っ赤にして──タルトをもう一つ取って、黙ってかじっていた。



    ◇



 翌日。


 事務所の机の上に、一通の手紙が届いていた。


 ヴェルトハイム公爵家の封蝋。──ルシアンの個人紋ではなく、公爵家の正式な紋章。


 開けた。


 短い文面だった。


『ナディア殿。

 ご結婚、おめでとうございます。

 どうか幸せになってください。

 十年間、ありがとうございました。

  ルシアン・フォン・ヴェルトハイム』


 ありがとうございました。


 十年間の結婚生活で、一度も書かれなかった言葉が──離縁から一年後の手紙に、書いてあった。


 恨みでも、未練でも、皮肉でもない。


 ただの──感謝の言葉だった。


 あの食堂で向かいに座っていた人が、ようやく言えるようになった言葉。


 手紙を畳んで、引き出しにしまった。


 同じ引き出しに──あの頃のルシアンの手紙も入っている。封を切らなかった手紙。「困っている。戻ってきてくれないか」と書いてあった手紙。


 今の手紙は、あの手紙よりずっと短い。でも──ずっと、重い。


(……お元気で、ルシアン)


 心の中で、返事を書いた。



    ◇



 翌朝。


 八月の終わりの港町は、まだ暑い。窓を開けると潮風が入ってきて、帳簿の端をそよがせた。


 遠くで漁船の櫓の音がする。魚市場がざわめき始める。パン屋の窯に火が入って、焼きたての匂いが路地に漂い始める。


 事務所の机に着いた。


 焼きリンゴのタルトが並んでいる。


 三つ。


 昨日までは二つだった。


 向かいの席を見た。


 ヴォルフが座っている。あの椅子。私が買って、一年以上座り続けた椅子。


 手には茶のカップを持っている。


 机の上にはもう一つのカップ。私の分。両手で温めてから置いたのだろう。もう知っている。五年前から、ずっとそうしてくれていた。


「……ヴォルフ」


「ああ」


「タルトが三つあるんですけど」


「ああ」


「二つは私とあなたの分ですよね。三つ目は」


 ヴォルフが茶を一口飲んだ。カップの陰で口元が見えない。


 それから──灰色の瞳が、ちらりと私のお腹に向いた。


「…………」


「……まだ確定してませんけど」


「ああ」


「たぶん、ですけど」


「ああ」


 ヴォルフの耳が、真っ赤になった。


 カップで顔を隠しているが、耳は隠せない。あの夜からずっと、この人の耳だけは正直だ。


 笑いが込み上げてきた。


 同時に、目の奥が熱くなった。


 タルトをひと口かじった。甘い。いつもの味。最初に食べた時と──ずっと昔、宰相府の深夜の机で一人で食べていた時と、同じ味。


 ──でも。


 向かいに誰かがいる。


 隣に誰かがいる。


 そしてもしかしたら──もう一人、増えるのかもしれない。


 窓の外では、港町の八月の陽射しが石畳を白く照らしている。遠くで船の汽笛が鳴った。パン屋の匂いと、潮の匂いと、向かいの席から微かに届く──火にかけた薬草のような、温かい匂い。


 あの夜、港町に着いた最初の夜。宿の前ですれ違った時と同じ匂い。


 あの時胸がざわついた理由を──今なら、全部わかる。


 三つ目のタルトに手を伸ばした。まだ早い。でも、取っておく。


 これが、私たちの人生だ。

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