表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
夫が愛人を正妻にするそうなので、十年尽くした宰相夫人を辞めます  作者: 九葉(くずは)
第2章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

19/40

第十九話 あの作戦命令書には、あなたの署名がありますね

 石壁の部屋だった。


 枢密院の査問室。窓は高い位置に二つだけ。夏の朝日が細い帯になって石の床を横切っている。


 長机が三つ並び、枢密院の議員が五名着席していた。中央にエドムント前公爵の姿がある。白髪の老人は背筋を伸ばし、鷹のような目で室内を見渡している。


 被審査者席に、ディートリヒが座っていた。


 穏やかな表情。微笑すら浮かべている。銀交じりの髪を丁寧に撫でつけ、仕立てのいい上着のボタンを一つも乱していない。


(──余裕がある。まだ、自分は切り抜けられると思っている)


 証人席にクルトが座っている。緊張で拳を握り締めている。


 そして──部屋の後方にヴォルフが立っていた。壁に背をつけて、腕を組んでいる。灰色の瞳が、まっすぐにディートリヒを見ていた。


 その瞬間──腕を組む手に、力がこもった。顎が微かに引かれる。


 あの匂いの男を、今、目で確認したのだ。


 査問会が始まった。



    ◇



「証人、クルト・ヴァイス。五年前の辺境討伐作戦について証言を求めます」


 クルトが立ち上がった。


 声は震えていた。でも、目はまっすぐだった。


「五年前の冬。辺境の山岳地帯で魔獣の群れが出ました。討伐の命令が下り、俺たちは──十二人で出撃しました」


 ディートリヒの表情は変わらない。微笑のまま。


「大隊規模の作戦だと聞いていました。でも実際に集まったのは十二人だけです。団長──ヴォルフ団長は、兵力が足りないことをわかっていました」


 クルトの声が強くなった。


「それでも命令だから行った。山岳地帯の奥で魔獣と遭遇した時、数が予想をはるかに超えていた。十二人じゃ──どうにもならなかった」


 沈黙。


「三人が死にました。でも──残りの九人が生きて帰れたのは、団長の判断があったからです」


 クルトの目が、後方のヴォルフに向いた。


「団長が撤退の号令を出してくれなかったら、全員死んでいた。あの兵力で全滅しなかったのは──団長が命を懸けて殿を務めたからです」


 ヴォルフが微かに身じろぎした。


 灰色の瞳が揺れていた。


「団長は無能なんかじゃない。──俺は五年間、それを誰にも信じてもらえなかった」


 クルトの声がかすれた。でも最後まで立っていた。


 ディートリヒの微笑が──ほんの少しだけ、薄くなった。



 続いて、私が証人席に立った。


「専門証人、ナディア・エルスナー。元宰相府の外交文書翻訳担当として、証言を求めます」


 査問室の空気が変わった。元宰相夫人が枢密院で証言する。異例だ。


「五年前の冬、カルデア公国からの外交通信を翻訳いたしました」


 声を張る必要はなかった。石壁の部屋は音がよく響く。


「その通信には、『貴国が辺境に展開する大規模討伐部隊について、国境付近の住民が不安を覚えている』という文面がありました」


 大規模討伐部隊。


「隣国は、この作戦を大隊規模──二百人規模の軍事作戦として認識していました。予算がそのように計上され、周辺国にもその規模が通知されていたからです」


 ディートリヒの指が、微かに動いた。机の上で組んだ手の指が、一本だけ浮いた。


「しかし、先ほどの証人の証言によれば──実際の出撃兵力は十二名です。二百人分の予算と十二名の出撃。この乖離には、説明が必要ではないでしょうか」


 ディートリヒの微笑が、消えた。



 三人目の証人が入ってきた時、ディートリヒの目が見開かれた。


 グスタフ・レーマン。自分の副官。


「──グスタフ」


 ディートリヒの声が、初めて揺れた。


 グスタフは被審査者席を見なかった。まっすぐ前を向いて、証人席に着いた。


「五年前の辺境討伐作戦の予算は、大隊規模として金貨六百枚が計上されました。実際に作戦に使用された費用は、小隊分の金貨およそ百枚です」


 数字が、石壁の部屋に響いた。


「差額のおよそ五百枚は、軍務卿の個人管理口座に移されました。その後の記録は──閣下の政治活動への支出と一致しています」


 金貨五百枚。政治活動。次期宰相。


「また、作戦命令書の原本は軍務省保管庫の第七棚に残存しています。閣下は廃棄を試みましたが、正規手続き上、枢密院の承認なしには公文書を廃棄できません」


 エドムントが頷いた。


「本朝、国王陛下の捜索令に基づき原本を押収した。ここにある」


 封蝋のついた書類が、机の上に広げられた。


 作戦命令書。原本。


 末尾の署名──ディートリヒ・フォン・アドラー。


「第三小隊をもって遂行せよ」。クルトが持っていた写しと、一字一句同じ文面。


 そして、元経理官の裏帳簿が並べられた。横領資金の流れ。口座番号。支出先。すべてが記録されていた。


 私は最後に、立ち上がった。


「枢密院の皆様。証拠をまとめます」


 室内が静まった。


「ディートリヒ卿は大隊規模の予算を計上しながら、小隊規模での出撃を命じました」


 一つ。


「差額の金貨五百枚は個人口座に移され、政治活動に使われました」


 二つ。


「作戦が失敗すれば、責任は現場の騎士団長に。成功すれば、手柄は予算を承認した自分に。──どちらに転んでも損をしない構造です」


 三つ。


 ディートリヒの方を向いた。


「あの作戦命令書には──あなたの署名がありますね、ディートリヒ卿」


 ディートリヒが口を開いた。


「それは──当時の情勢を考慮した上での、やむを得ない判断であり──」


「やむを得ない判断で、三人が死にました」


 声が震えなかった。


「やむを得ない判断で、騎士団長の名誉が五年間踏みにじられました」


 ディートリヒが黙った。


 微笑は完全に消えていた。銀交じりの髪の下の顔が──初めて、年相応に老けて見えた。



 判決が下された。


 軍務卿罷免。公権力の私的流用により投獄。伯爵位の剥奪については、追って国王陛下の承認を仰ぐと議長が付け加えた。


 続いて──。


「元騎士団長ヴォルフの罷免は不当であったと認定する。名誉を回復し、罷免を取り消す」


 後方で、ヴォルフが微かに息を吐いた。


「なお、元騎士団長に付随していた子爵位の復権を──」


「いらない」


 低い声が、査問室に響いた。


 全員がヴォルフの方を見た。


「爵位はいらない。名誉だけでいい」


 短い。いつも通り短い。


 でもその声は──清々しかった。五年分の重荷を下ろした人の声だった。



    ◇



 ディートリヒは、護送される廊下で一度だけ足を止めた。


 あの作戦で手柄を立てれば、宰相への道が開けるはずだった。


 二百人分の予算で、十二人を送った。成功すれば少数精鋭の英断。失敗すれば現場の判断ミス。完璧な計画だった。──はずだった。


 元宰相夫人の商人。元騎士団長の護衛。元副官の裏切り者。


 三人の「元」に、足元を掬われた。


 護送の兵が肩を押した。


 もう、誰も振り返らなかった。



    ◇



 査問室を出た。


 廊下の窓から、八月の陽射しが降り注いでいる。石壁の冷たさとは正反対の、温かい光だった。


 ヴォルフが、廊下の真ん中に立っていた。


 壁際ではない。真ん中に。


 灰色の瞳が──こちらを見ている。


 鉄板ではなかった。


 あの鉄板が、完全に──崩れていた。


 二歩。大きな足で二歩。ヴォルフが近づいてきた。


 腕が伸びた。


 大きな腕が、私の体を包んだ。


 抱きしめられていた。


 人前で。枢密院の廊下で。査問会から出てきた人々が、すぐ横を通り過ぎていく。


 構わなかった。ヴォルフも構わなかった。


 腕が震えていた。大きな体が、かすかに震えていた。


「……すまない」


 頭の上から、かすれた声が降ってきた。


「すまない、ナディア。俺のせいで──あんたに、こんなことまで」


 胸に顔を押し付けたまま、首を横に振った。


「謝らないでください」


 声が震えた。今度は止められなかった。止める必要もなかった。


「あなたは、悪くない」


 ──あの夜。港町の事務所で、蝋燭の灯りの下で。


 ヴォルフが私に言ってくれた言葉。


「あんたは間違ってない。捨てた方が間違ってる。それだけだ」


 慰めでも、励ましでもなかった。事実の確認。


 今、同じことを返す。


「あなたは悪くない。あなたを陥れた人間が悪い。──それだけです」


 ヴォルフの腕に、力がこもった。


 温かかった。大きかった。五年間、一人で背負ってきた人の体温が、じかに伝わってくる。


 どれくらいそうしていたかわからない。


 腕が緩んだ。顔を上げた。


 ヴォルフの目が赤かった。泣いてはいない。でも──泣く直前の目だった。あの鉄板の男が。


「ナディア」


「はい」


「まだ──伝えてないことがある」


 灰色の瞳が、まっすぐにこちらを見ている。


「今日は言えない。──帰ったら、話す」


「……はい」


 帰ったら。港町に帰ったら。


 二人の家に帰ったら。


 ヴォルフの手が、私の手を取った。


 大きくて硬い手。温かい手。


 繋いだまま、枢密院の廊下を歩いた。


 窓から差し込む八月の光が、二人の影を並べて床に落としていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ