第十九話 あの作戦命令書には、あなたの署名がありますね
石壁の部屋だった。
枢密院の査問室。窓は高い位置に二つだけ。夏の朝日が細い帯になって石の床を横切っている。
長机が三つ並び、枢密院の議員が五名着席していた。中央にエドムント前公爵の姿がある。白髪の老人は背筋を伸ばし、鷹のような目で室内を見渡している。
被審査者席に、ディートリヒが座っていた。
穏やかな表情。微笑すら浮かべている。銀交じりの髪を丁寧に撫でつけ、仕立てのいい上着のボタンを一つも乱していない。
(──余裕がある。まだ、自分は切り抜けられると思っている)
証人席にクルトが座っている。緊張で拳を握り締めている。
そして──部屋の後方にヴォルフが立っていた。壁に背をつけて、腕を組んでいる。灰色の瞳が、まっすぐにディートリヒを見ていた。
その瞬間──腕を組む手に、力がこもった。顎が微かに引かれる。
あの匂いの男を、今、目で確認したのだ。
査問会が始まった。
◇
「証人、クルト・ヴァイス。五年前の辺境討伐作戦について証言を求めます」
クルトが立ち上がった。
声は震えていた。でも、目はまっすぐだった。
「五年前の冬。辺境の山岳地帯で魔獣の群れが出ました。討伐の命令が下り、俺たちは──十二人で出撃しました」
ディートリヒの表情は変わらない。微笑のまま。
「大隊規模の作戦だと聞いていました。でも実際に集まったのは十二人だけです。団長──ヴォルフ団長は、兵力が足りないことをわかっていました」
クルトの声が強くなった。
「それでも命令だから行った。山岳地帯の奥で魔獣と遭遇した時、数が予想をはるかに超えていた。十二人じゃ──どうにもならなかった」
沈黙。
「三人が死にました。でも──残りの九人が生きて帰れたのは、団長の判断があったからです」
クルトの目が、後方のヴォルフに向いた。
「団長が撤退の号令を出してくれなかったら、全員死んでいた。あの兵力で全滅しなかったのは──団長が命を懸けて殿を務めたからです」
ヴォルフが微かに身じろぎした。
灰色の瞳が揺れていた。
「団長は無能なんかじゃない。──俺は五年間、それを誰にも信じてもらえなかった」
クルトの声がかすれた。でも最後まで立っていた。
ディートリヒの微笑が──ほんの少しだけ、薄くなった。
続いて、私が証人席に立った。
「専門証人、ナディア・エルスナー。元宰相府の外交文書翻訳担当として、証言を求めます」
査問室の空気が変わった。元宰相夫人が枢密院で証言する。異例だ。
「五年前の冬、カルデア公国からの外交通信を翻訳いたしました」
声を張る必要はなかった。石壁の部屋は音がよく響く。
「その通信には、『貴国が辺境に展開する大規模討伐部隊について、国境付近の住民が不安を覚えている』という文面がありました」
大規模討伐部隊。
「隣国は、この作戦を大隊規模──二百人規模の軍事作戦として認識していました。予算がそのように計上され、周辺国にもその規模が通知されていたからです」
ディートリヒの指が、微かに動いた。机の上で組んだ手の指が、一本だけ浮いた。
「しかし、先ほどの証人の証言によれば──実際の出撃兵力は十二名です。二百人分の予算と十二名の出撃。この乖離には、説明が必要ではないでしょうか」
ディートリヒの微笑が、消えた。
三人目の証人が入ってきた時、ディートリヒの目が見開かれた。
グスタフ・レーマン。自分の副官。
「──グスタフ」
ディートリヒの声が、初めて揺れた。
グスタフは被審査者席を見なかった。まっすぐ前を向いて、証人席に着いた。
「五年前の辺境討伐作戦の予算は、大隊規模として金貨六百枚が計上されました。実際に作戦に使用された費用は、小隊分の金貨およそ百枚です」
数字が、石壁の部屋に響いた。
「差額のおよそ五百枚は、軍務卿の個人管理口座に移されました。その後の記録は──閣下の政治活動への支出と一致しています」
金貨五百枚。政治活動。次期宰相。
「また、作戦命令書の原本は軍務省保管庫の第七棚に残存しています。閣下は廃棄を試みましたが、正規手続き上、枢密院の承認なしには公文書を廃棄できません」
エドムントが頷いた。
「本朝、国王陛下の捜索令に基づき原本を押収した。ここにある」
封蝋のついた書類が、机の上に広げられた。
作戦命令書。原本。
末尾の署名──ディートリヒ・フォン・アドラー。
「第三小隊をもって遂行せよ」。クルトが持っていた写しと、一字一句同じ文面。
そして、元経理官の裏帳簿が並べられた。横領資金の流れ。口座番号。支出先。すべてが記録されていた。
私は最後に、立ち上がった。
「枢密院の皆様。証拠をまとめます」
室内が静まった。
「ディートリヒ卿は大隊規模の予算を計上しながら、小隊規模での出撃を命じました」
一つ。
「差額の金貨五百枚は個人口座に移され、政治活動に使われました」
二つ。
「作戦が失敗すれば、責任は現場の騎士団長に。成功すれば、手柄は予算を承認した自分に。──どちらに転んでも損をしない構造です」
三つ。
ディートリヒの方を向いた。
「あの作戦命令書には──あなたの署名がありますね、ディートリヒ卿」
ディートリヒが口を開いた。
「それは──当時の情勢を考慮した上での、やむを得ない判断であり──」
「やむを得ない判断で、三人が死にました」
声が震えなかった。
「やむを得ない判断で、騎士団長の名誉が五年間踏みにじられました」
ディートリヒが黙った。
微笑は完全に消えていた。銀交じりの髪の下の顔が──初めて、年相応に老けて見えた。
判決が下された。
軍務卿罷免。公権力の私的流用により投獄。伯爵位の剥奪については、追って国王陛下の承認を仰ぐと議長が付け加えた。
続いて──。
「元騎士団長ヴォルフの罷免は不当であったと認定する。名誉を回復し、罷免を取り消す」
後方で、ヴォルフが微かに息を吐いた。
「なお、元騎士団長に付随していた子爵位の復権を──」
「いらない」
低い声が、査問室に響いた。
全員がヴォルフの方を見た。
「爵位はいらない。名誉だけでいい」
短い。いつも通り短い。
でもその声は──清々しかった。五年分の重荷を下ろした人の声だった。
◇
ディートリヒは、護送される廊下で一度だけ足を止めた。
あの作戦で手柄を立てれば、宰相への道が開けるはずだった。
二百人分の予算で、十二人を送った。成功すれば少数精鋭の英断。失敗すれば現場の判断ミス。完璧な計画だった。──はずだった。
元宰相夫人の商人。元騎士団長の護衛。元副官の裏切り者。
三人の「元」に、足元を掬われた。
護送の兵が肩を押した。
もう、誰も振り返らなかった。
◇
査問室を出た。
廊下の窓から、八月の陽射しが降り注いでいる。石壁の冷たさとは正反対の、温かい光だった。
ヴォルフが、廊下の真ん中に立っていた。
壁際ではない。真ん中に。
灰色の瞳が──こちらを見ている。
鉄板ではなかった。
あの鉄板が、完全に──崩れていた。
二歩。大きな足で二歩。ヴォルフが近づいてきた。
腕が伸びた。
大きな腕が、私の体を包んだ。
抱きしめられていた。
人前で。枢密院の廊下で。査問会から出てきた人々が、すぐ横を通り過ぎていく。
構わなかった。ヴォルフも構わなかった。
腕が震えていた。大きな体が、かすかに震えていた。
「……すまない」
頭の上から、かすれた声が降ってきた。
「すまない、ナディア。俺のせいで──あんたに、こんなことまで」
胸に顔を押し付けたまま、首を横に振った。
「謝らないでください」
声が震えた。今度は止められなかった。止める必要もなかった。
「あなたは、悪くない」
──あの夜。港町の事務所で、蝋燭の灯りの下で。
ヴォルフが私に言ってくれた言葉。
「あんたは間違ってない。捨てた方が間違ってる。それだけだ」
慰めでも、励ましでもなかった。事実の確認。
今、同じことを返す。
「あなたは悪くない。あなたを陥れた人間が悪い。──それだけです」
ヴォルフの腕に、力がこもった。
温かかった。大きかった。五年間、一人で背負ってきた人の体温が、じかに伝わってくる。
どれくらいそうしていたかわからない。
腕が緩んだ。顔を上げた。
ヴォルフの目が赤かった。泣いてはいない。でも──泣く直前の目だった。あの鉄板の男が。
「ナディア」
「はい」
「まだ──伝えてないことがある」
灰色の瞳が、まっすぐにこちらを見ている。
「今日は言えない。──帰ったら、話す」
「……はい」
帰ったら。港町に帰ったら。
二人の家に帰ったら。
ヴォルフの手が、私の手を取った。
大きくて硬い手。温かい手。
繋いだまま、枢密院の廊下を歩いた。
窓から差し込む八月の光が、二人の影を並べて床に落としていた。




