第十八話 ありがとう
クルトが尾行されている。
「昨日、宿を出た時から同じ男がついてきてました。軍関係者っぽい風体の」
クルトが低い声で報告した。港町にいた時の真っ直ぐな目に、警戒の色が混じっている。
「振り切りましたけど──明日の査問会を前にして、向こうも動き始めてますね」
それだけではなかった。
昨夜、宿の部屋の鍵がこじ開けられた形跡があった。引き出しの中の書類の順番が変わっていた。盗まれたものはない。中身を確認しただけか──あるいは、盗もうとして本物がないことに気づいたか。
本物は、ここにはない。
一週間前から、資料の写しを三ヶ所に分散させていた。
一部はエドムント前公爵のもとに。
一部はギルド長ブルクハルトに預けた港町の金庫に。
一部は王都二号店のリーナに渡してある。
宰相府で十年間学んだことの一つ。重要な書類は一ヶ所に置かない。
「クルトさん。今日は二号店に移ってください。リーナと一緒にいれば安全です」
「姐さんは?」
「大丈夫です。ヴォルフがいますから」
壁際で──いや、窓際で腕を組んでいるヴォルフが、無言で頷いた。
クルトが出ていった後、事務所の空気が少し緊張を帯びた。
明日だ。すべてが明日にかかっている。
◇
夜。
査問会に向けた資料の最終確認をしていた時、宿の裏口を控えめに叩く音がした。
ヴォルフが音もなく立ち上がった。扉に近づき、隙間から外を確認する。
「……軍の人間だ」
「一人?」
「一人。武器はない。──怯えてる」
怯えている軍人。
扉を開けた。
見覚えのある顔だった。
四十代半ば。硬い表情。軍服ではなく質素な上着を着ているが、姿勢が軍人のそれだ。
──商人会合で、壁際に立っていた男だ。
「あなたは──」
「グスタフ・レーマンと申します。軍務卿の副官です」
副官。ディートリヒの部下。
ヴォルフの体が一歩前に出た。灰色の瞳が鋭くなっている。
「待ってください」
ヴォルフの腕に手を添えた。
グスタフの目は──あの時と同じだった。迷いの色。苦しそうな色。ディートリヒの側にいる人間の目ではない。
「中へどうぞ」
グスタフが部屋に入った。椅子を勧めたが座らなかった。立ったまま、深く頭を下げた。
「私は──もう、黙っていられません」
声が震えていた。
「五年間、閣下のなさってきたことを見てきました。辺境の作戦のことも。予算のことも。全部──知っていて、黙っていました」
ヴォルフが微かに身じろぎした。
「予算のこと……?」
「はい。五年前の辺境討伐作戦──大隊規模の予算が計上されていましたが、実際に出撃に使われた費用は小隊分のみです。差額の金貨およそ五百枚は、閣下の個人管理口座に移されました」
金貨五百枚。
やはり──やはり、消えていたのだ。
「その資金は、その後──閣下の政治活動に使われています。次期宰相候補としての地位固めに。社交界への工作、枢密院の一部メンバーへの贈答、各地の有力者への接待──」
グスタフの声が途切れた。唇を噛んでいる。
「そして──作戦命令書の原本は、軍務省の保管庫に残っています」
息を呑んだ。
「閣下は廃棄を試みましたが、正規手続き上──枢密院の承認なしには軍の公文書を廃棄できない。ですから隠すだけで精一杯でした。保管庫の第七棚、奥から三番目の箱に──」
「場所まで」
「はい。私が管理していた棚ですから」
グスタフが顔を上げた。目が赤い。
「先日の商人会合で、あなたのご発言を聞きました。条約の矛盾を、堂々と指摘された。──あれを聞いて、自分が何をしてきたか、改めて突きつけられた思いでした」
会合の後方で腕を組んでいた男。目に迷いがあった男。
あの迷いが──今夜、決壊したのだ。
「それから、クルトという青年への脅迫の件──あれは私が手配しました。閣下の指示で。あの青年が怯える顔を見た時、もう限界でした」
クルトへの尾行。部屋の侵入。全部、この人が手配したのだ。
──そして、全部をやめるために、ここに来た。
「レーマン殿。明日の査問会で、証人になっていただけますか」
「はい。それを──お伝えに来ました」
グスタフが深く頭を下げた。今度は長い礼だった。
ヴォルフが黙ってグスタフを見ていた。灰色の瞳に、怒りはなかった。
何が浮かんでいたのかはわからない。でも──あの鉄板が、少しだけ緩んでいた。
グスタフが帰った後、すぐにエドムントに急使を出した。原本の所在。保管庫の棚番号。横領資金の使途。
夜が明ける前に、返事が来た。
『捜索令の手配に入る。国王への上奏は先日済ませてある。あとは原本の所在だけだった。明朝までに押収する。
──公爵家のためにやっている。恩着せる気はないが、覚えておけ。
エドムント』
(帳簿につけておきましょう、前公爵閣下)
くすりと笑って、手紙を畳んだ。
──揃った。
クルトの命令書の写しと証言。
私の翻訳記憶。
グスタフの内部証言。
原本の押収。
元経理官の裏帳簿(エドムントが既に入手済み)。
三つのルートから、すべてが揃った。
◇
深夜。
資料を並べ直して、査問会での発言の順序を頭の中で組み立てていた。
クルトの証言が先。実戦の実態を語ってもらう。
次に私の専門証言。翻訳記憶に基づく予算と兵力の乖離。
それからグスタフ。原本の所在と横領の内部事情。
最後に原本と裏帳簿の提示。
物的証拠と人的証拠が交互に重なる。反論の余地を一つずつ塞いでいく構成。
──勝てる。
そう思った時、かたり、と音がした。
ヴォルフが台所に立っていた。湯を沸かしている。
しばらくして、茶のカップが差し出された。
温かかった。
異常に温かかった。茶の熱だけではない。カップそのものが温められている。渡される前に、あの大きな手で包んで温めたのだ。
もう知っている。この人はいつもそうする。私の手が冷たいことを知っているから。
「……ありがたいです」
「ああ」
茶を一口飲んだ。体の芯まで温かさが沁みる。
カップを置こうとした時──ヴォルフの手が伸びた。
大きな手が、私の頬に触れた。
驚いて顔を上げた。
ヴォルフがすぐ近くにいた。灰色の瞳が、真っ直ぐに──こちらを見ている。
鉄板ではなかった。
穏やかで、温かくて、少し苦しそうな──顔だった。
唇が、額に触れた。
柔らかくて、温かい。ほんの一瞬。羽根が触れるように。
「……ありがとう」
低い声。
「礼を言われることじゃない」──この人の口癖だった。花を置いた時も。毛布をかけた時も。茶を淹れた時も。
いつも、「礼を言われることじゃない」と言って、自分が差し出したものの重さを否定してきた。
今夜は違った。
自分から、言った。
「あんたがいなかったら、俺はまだ──逃げてた」
声がかすれている。
「あんたが怒ってくれなかったら、俺は五年間の嘘のまま──」
言葉が途切れた。
目の奥が、少しだけ潤んでいた。泣いてはいない。泣く直前の──我慢している顔。
カップを置いた。立ち上がって、ヴォルフの胸に額をつけた。
大きかった。温かかった。心臓の音が聞こえた。速い。
「明日、終わらせましょう」
「……ああ」
「終わったら──」
「ああ」
わかっている。この人には、これで通じる。
長い夜だった。でも、寒くはなかった。
◇
朝。
七月の陽射しではない。もう八月だ。夏の盛りの光が窓から差し込んでいる。
資料の鞄を手に取った。ヴォルフが隣に立った。
「行きましょう」
「ああ」
扉を開けた。
王都の朝の空気が、二人の顔を撫でた。




