表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
夫が愛人を正妻にするそうなので、十年尽くした宰相夫人を辞めます  作者: 九葉(くずは)
第2章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

17/32

第十七話 あの人の名誉を、二度と踏みにじらないでください

 クルトとマルテが王都に着いたのは、七月最後の週だった。


「姐さん、待たせたな!」


 マルテが宿に飛び込んできた。後ろからクルトが続く。旅の埃をかぶった二人の顔に、疲れと気合いが同居している。


「港町は大丈夫ですか」


「ブルクハルトの爺さんが目を光らせてる。あの人がいりゃ、商人連中は持つよ」


 クルトが一歩前に出た。


「ナディア殿──いや」


 マルテをちらりと見て、言い直した。


「姐さん。命令書の写しは持ってきました」


 姐さん。


 マルテの口癖がうつったらしい。港町で二週間一緒にいれば、そうなるか。


「ありがとうございます、クルトさん。──広げましょう」


 宿の机に、すべてを並べた。


 クルトの命令書の写し──「第三小隊をもって遂行せよ」。ディートリヒの署名。

 私の記憶の書き起こし──カルデア公国の通信文「貴国の大規模討伐部隊に懸念を表明する」。

 通商制限策の通達文──ディートリヒの名前。


「つまり、こういうことだ」


 マルテが腕を組んだ。


「五年前、ディートリヒは大隊規模の予算を取っておきながら、実際には十二人しか出撃させなかった。差額の金がどこかに消えた。失敗したらヴォルフのせい。成功したら自分の手柄。──で、今は宰相の椅子を狙ってる」


「予算の差額が政治資金に流れているなら」


 私が引き取った。


「通商制限策も同じ構造です。港町の経済を締め上げて『国防を強化した実績』を作り、宰相候補としての地位を固める。他人の暮らしを踏み台にして──」


「五年前と、やってることが同じなんだ」


 クルトの声が低くなった。


「あの時は部下の命を踏み台にした。今は港町の商人を踏み台にしてる」


 沈黙が落ちた。


「……俺は証言します」


 クルトがまっすぐにこちらを見た。


「二年前は一人で行って握り潰された。今度は──姐さんたちがいる。俺だけじゃない」


 頷いた。


「ありがとうございます。では──次の段階に進みましょう」



    ◇



 翌日。ディートリヒの館を訪ねた。


 表向きの目的は通商制限策の撤回交渉だ。商人会合の議論を踏まえて個別に意見を伝えたい、と書面で面会を申し入れた。


 断られると思っていた。

 だが、あっさり通された。


(……むしろ、こちらの出方を見たいのだろう)


 応接間に通される。窓の外に夏の庭園が見える。手入れの行き届いた薔薇が咲いていた。


 ディートリヒが入ってきた。


 前回と同じ穏やかな表情。銀交じりの髪。仕立てのいい上着。微笑。


 ──目だけが、笑っていない。前回と同じだ。


「ようこそ、ナディア殿。お忙しい中、わざわざ足をお運びいただいて」


「恐れ入ります、ディートリヒ卿。お時間をいただきありがとうございます」


 完璧な礼を交わした。宰相府で何百回もやってきたやり取りだ。


 席に着く。茶が出される。磁器のカップに金の縁取り。権力者の応接間の空気は、宰相府に似ている。


「制限策について、改めてご検討いただけないかと思いまして」


「ええ。お聞きしましょう」


「港町の商人たちの窮状は深刻です。南方航路の船が減り、雇用も落ち込んでいます。条約との整合性についても──」


「ナディア殿」


 ディートリヒが茶のカップを置いた。穏やかに。静かに。


「あなたの弁舌には感服します。条約の知識も素晴らしい。元宰相夫人としての経験が遺憾なく発揮されていますね」


 褒められている。

 褒められているのに、空気が冷たくなっていく。


「ただ──少し心配しているのですよ」


 ディートリヒが微笑んだまま、目を細めた。


「あなたのお傍にいる方のことを」


 ──来た。


「ヴォルフという元騎士団長でしたか。あの方は……少々、不向きではないかと思うのです」


 心臓が、一つ跳ねた。


「人の上に立つ器ではなかった。部下を守る力もなかった。──私は当時の上官として、そう判断しました」


 当時の上官として。


 わざわざ言ったのだ。自分が命令を下した人間であると。


「あの方のために動いておられるのであれば、申し上げておきたい。あの方は──人を守る器ではありませんよ」


 穏やかな声。穏やかな微笑。


 ──穏やかな刃。


 十年間、宰相府で微笑んできた。

 ルシアンが何を言っても微笑んだ。

 離縁を告げられた時も微笑んだ。

 使者に「お戻りを」と言われた時も微笑んだ。


 怒ったことがなかった。

 声を荒らげたことがなかった。

 十年間、一度も。


 宰相府で。離縁の後で。商会を開いてから。一度も。


「──ナディア殿?」


 ディートリヒが首を傾げた。私が黙っているから。


 椅子から立ち上がった。


「ディートリヒ卿」


 声が出た。自分の声が、思ったよりも大きかった。


「あの人は、十二人の兵で大隊規模の任務に挑みました」


 ディートリヒの目が、ほんの一瞬──細くなった。


「兵力が足りないと知りながら、命令に従い、部下を一人でも多く生かして帰ろうとしました。三人を失いました。でも九人は──あの人の判断で生き延びたんです」


 声が震えている。怒りで。


「その人を──部下を死なせた責任を押し付けられた人を──五年間、『騎士団の恥』と呼ばせて、汚名を背負わせて──」


 ディートリヒの微笑が、消えた。


「あの人の名誉を、二度と踏みにじらないでください」


 応接間が静まった。


 庭園の薔薇が風に揺れている。その音だけが聞こえた。


 ディートリヒが──初めて、微笑以外の顔を見せた。


 険しい目。測る目ではない。警戒する目だ。


「……お帰りください、ナディア殿」


 声が冷えていた。穏やかさが剥がれていた。


「お気持ちは理解しました。しかし、感情で国防を論じることはできません」


 深く頭を下げて、館を出た。


 膝が笑っていた。でも歩いた。背筋を伸ばしたまま。宰相府の廊下を出た時と同じように。


 ──でも、あの時とは決定的に違うことが一つある。


 あの時は、黙って去った。


 今日は──声を上げた。



    ◇



 館の門を出たところで、ヴォルフが待っていた。


 壁に背をつけて立っている。私が出てくるのを見て、灰色の瞳がこちらを向いた。


 ──聞こえていただろうか。応接間の声は、廊下まで届いたかもしれない。


「……ナディア」


「はい」


「あんたが……怒ってくれるのか」


 ヴォルフの声が、かすれていた。


 あの鉄板が、揺れていた。驚きと──何か、もっと深いもので。


「あなたのためじゃありません」


 口をついて出た。いつもの言い訳。港町のため。商会のため。業務上の──


「……ごめんなさい。嘘です」


 足を止めた。


「全部、あなたのためです」


 もう「半分は」とは言わなかった。


 ヴォルフが黙った。


 長い沈黙だった。王都の夕暮れの街路に、二人の影が並んで伸びている。


「……ありがとう」


 小さな声だった。


 ヴォルフが「ありがとう」と言ったのは──これで、何度目だろう。もう数えなくていい。この人は少しずつ、言えるようになっている。


「帰りましょう」


「ああ」


 並んで歩いた。ヴォルフの手が、一瞬だけ私の手に触れた。触れて、離れた。


 ──まだ、自分から握れないのだ。この不器用な人は。


 だから私が、先に握った。


 ヴォルフの耳が赤くなった。


 それでいい。



    ◇



 宿に戻ると、手紙が届いていた。


 封蝋に見覚えのある紋章。ヴェルトハイム公爵家の紋。


 ──エドムント前公爵だ。


 封を切った。短い文面だった。


『ナディア嬢。

 軍務卿ディートリヒの件、耳に入った。奴の排除は公爵家にとっても利がある。

 枢密院に査問会の開催を請求する。証拠があるなら揃えろ。時間はあまりない。

 エドムント・フォン・ヴェルトハイム』


 実利的な文面だった。感情の欠片もない。


 でも──この人はそういう人だ。ルシアンの父。息子の不甲斐なさに落胆しながらも、公爵家の利益のために動く実務家。ハインツの不正を暴いた時も同じだった。


 利害が一致している。それで十分だ。


(帳簿につけておきましょう。この借りは)


 くすりと笑った。


 手紙を机に置いて、ペンを取った。


 やるべきことが見えている。


 クルトの命令書の写し。

 私の翻訳文書の記憶。

 そして──まだ足りない。原本と、内部の証言。


 エドムントなら、枢密院を通じて原本の捜索に動けるかもしれない。


 内部の証言は──。


 ふと、前回の商人会合で見た「軍服の男」の顔がよぎった。壁際で腕を組んでいた男。目に迷いのようなものがあった。


 あの男は、誰だろう。


 ──考えている暇はない。査問会の日程が決まれば、証拠を揃える時間は限られる。


 ペンを走らせた。


 明日から、最後の仕上げが始まる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ