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夫が愛人を正妻にするそうなので、十年尽くした宰相夫人を辞めます  作者: 九葉(くずは)
第2章

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第十六話 俺の代わりに、傷つくな

 南方薬草の納品が止まった。


 発注はしてある。契約も有効だ。なのに商品が届かない。


 王都二号店のリーナが困った顔で言った。


「取引先に確認したら、『軍需物資の優先輸送が入った』と言われまして。民間の荷物は後回しだそうです」


 軍需物資の優先輸送。


 表向きは正当な理由だ。国防上の物流確保。誰にも文句は言えない。


 でもこれが制限策の後に始まったのなら──偶然ではない。


「他にも、ありまして」


 リーナが声を落とした。


「東方の取引先が二軒、契約の継続を見送りたいと言ってきました。理由は言いませんでしたが……軍務卿の名前がちらほら」


 手が回っている。


 関税で締め上げ、物流で干し上げ、取引先を脅して孤立させる。


 商人会合でナディアが声を上げたことへの報復だ。あの日ディートリヒの目に浮かんでいた冷たさが、具体的な形になって返ってきている。


(……やっぱり、か)


 怖い、とは思わなかった。


 予想していた。宰相府にいた十年間で、権力者が敵を潰す手順は何度も見てきた。最初は経済的な圧力。次に社会的な孤立。最後に法的な手段。


 今はまだ一段階目だ。


「リーナ。既存の取引先で動揺していないところはどこですか」


「リーデル商会と、ギルド長経由の港町組ですね。この二つは揺るいでいません」


 リーデル商会。宰相府時代から「ナディア個人」と取引してくれた相手。あの人たちは宰相府の紋章ではなく、私を選んでくれた人たちだ。


 ──大丈夫。全部は崩れていない。


 帳簿を閉じて、宿に戻った。



    ◇



 夜。


 宿の机に向かって、記憶を辿っていた。


 ヴォルフは窓際に座っている。いつもの姿勢。──いや、いつもとは少し違う。


 港町の事務所では壁際の肘掛け椅子だった。王都の宿では、必ず窓際に座る。入り口のドアと窓の両方が視界に入る位置。


(用心深い人だ。元騎士だから、かしら)


 その観察を頭の隅に置いて、本題に戻った。


 翻訳文書の記憶。


 宰相府で十年間、何百通もの外交通信を翻訳した。大半は忘れている。外交の定型文はどれも似たり寄ったりで、読んだそばから記憶の底に沈んでいく。


 でも──引っかかるものが、一つある。


 五年前の冬。


 カルデア公国からの通信文を訳した。辺境に関する懸念表明だった。


 内容は覚えている。翻訳者は文の意味を正確に理解しなければ訳せない。機械的に文字を写すのではなく、一語ずつ噛み砕いて訳す。だから──覚えている。


『貴国が辺境に展開する大規模討伐部隊について、国境付近の住民が不安を覚えている。部隊の規模と目的について、正式な通知を求む』


 大規模討伐部隊。


 大規模。


 ヴォルフは言った。「十二人で出た」と。

 クルトも言った。「大隊分の予算がついてた」と。


 隣国は「大規模部隊」を認識していた。予算が大隊規模で計上されていたから、周辺国にもその規模感が通知されていたのだろう。


 なのに実際の出撃は十二人。


 予算は大隊規模──二百人分。

 出撃は十二人。


 差額は──。


(百八十八人分の予算が、消えている)


 指先が冷たくなった。会合の朝と同じ冷たさだ。


 でも今回は緊張ではない。


 怒りだ。


 百八十八人分の予算。金額にすれば金貨何百枚にもなるはずだ。その金がどこかに消えて、代わりに三人の命が消えた。


 ヴォルフは五年間、その三人分の罪を一人で背負ってきた。


 背負う必要のない罪を。


 机の上の紙にペンを走らせた。覚えていることを全部書き出す。


 翻訳した文書の時期。

 通信文の差出国。

 「大規模」の表現。

 辺境の地名。

 五年前の冬。


 断片だ。記憶の断片にすぎない。

 でもクルトの命令書と合わせれば──一つの絵になる。


「……ナディア」


 ヴォルフの声がした。


 窓際から、灰色の瞳がこちらを見ていた。



    ◇



「何を調べている」


 低い声だった。怒りではない。不安の色が滲んでいる。


「……五年前の外交通信の記憶を」


 隠す理由はなかった。もう「業務上の配慮」なんて言い訳はしない。


「宰相府で翻訳した文書に、あなたの作戦に関係するものがあったかもしれないんです。隣国が『大規模部隊』と認識していた。なのに実際は十二人だった。その差の意味を──」


「やめろ」


 ヴォルフが立ち上がった。


 窓際から二歩。大きな体が、机の前に立った。


「俺の過去を掘るな。あんたが狙われる」


「狙われるかもしれないのは分かっています」


「分かっていて──」


「あなたのためじゃない」


 立ち上がった。ヴォルフを見上げる。肩の位置が全然違う。それでも目は逸らさない。


「港町のためです。あの制限策を出している男と、あなたの部下を死なせた男が同一人物なら──彼を止めなければ港町は干上がる。私の商会も、マルテも、ブルクハルトも、全員が」


「…………」


「だから、調べるんです」


 ヴォルフが黙った。


 灰色の瞳が揺れている。怒りではない。もっと深い場所にあるもの。


「──俺の代わりに、傷つくな」


 声が、震えていた。


 あの鉄板の声が。


 二月の波止場で「誰も失いたくない」と言った時と、同じ震え方だった。


「あんたが俺のせいで傷ついたら、俺は──」


 言葉が途切れた。


 ヴォルフの拳が握り締められている。腕を組んで隠しているつもりだろう。でも見えている。あの大きな手が、震えている。


 ──この人は、怖いのだ。


 私が傷つくことが。自分の過去のせいで、大切な人間がまた──。


「……嘘つけ」


 小さく、言った。


「え?」


「港町のためだと言っただろう。──嘘つけ」


 ヴォルフの目がまっすぐにこちらを見ている。


 鉄板が、少しだけ緩んでいた。怒っているのか、泣きそうなのか、わからない顔。


「……半分は、本当です」


 認めた。


「港町のため。それは本当。──でも半分は、あなたのためです」


 今度はヴォルフが黙る番だった。


 長い沈黙が流れた。


 蝋燭の炎が揺れている。窓の外から、王都の夜の喧騒がかすかに聞こえている。


「……勝手にしろ」


 ヴォルフがそっぽを向いた。


 勝手にしろ。許可だ。この人なりの。


 口の端が緩んだ。


「はい。勝手にします」


 ヴォルフの耳が赤くなっていた。


 ──明日から、本格的に動く。翻訳文書の記憶を裏付ける方法を探す。クルトの命令書と合わせて、予算と兵力の乖離を証明する道筋を組み立てる。


 時間はあまりない。ディートリヒの圧力は日に日に強まっている。


 でも、やるべきことは見えた。



    ◇



 ヴェルトハイム公爵領。王都から馬車で半日の田園地帯。


 ルシアンは書斎の窓辺に立って、領地の麦畑を眺めていた。


 夏の陽射しが金色の穂を照らしている。穏やかな景色だ。宰相府の窓から見えていたのは石壁と回廊だけだったから、この景色はまだ新鮮に映る。


 領地管理官が、週報と一緒に王都の噂話を届けてくれた。その中に──一つだけ、目が止まる名前があった。


『元宰相夫人ナディア・エルスナー、商人会合にて軍務卿の通商制限策に異議を呈す。条約の矛盾を指摘し、多くの商人の支持を得る』


 窓の外を見たまま、その一文を何度か読み返した。


 ナディア。


 あの食堂で、十年間向かいに座っていた人。引き継ぎ資料の最後のページに「感謝しています」と書いてくれた人。


 僕に言えなかった「ありがとう」を、彼女の方から先に書いてくれた人。


 ──今、軍務卿と戦っているのか。


「……そうか」


 呟いた。


 取り戻そうとは、もう思わない。


 あの人は自分の足で立って、自分の意思で戦っている。僕が手を伸ばすべき場所は、もうない。


 ただ──少しだけ。


 あの人が幸せでいることを、願っている。


 窓の外で、夏の風が麦畑を揺らした。金色の波が、ゆっくりと遠くまで広がっていった。

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