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夫が愛人を正妻にするそうなので、十年尽くした宰相夫人を辞めます  作者: 九葉(くずは)
第2章

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第十五話 この関税は、条約に違反しています

 手が冷たい。


 七月の王都は暑いはずだ。窓の外では蝉が鳴いている。なのに指先だけが氷のように冷えている。


 宿の部屋で、書類を並べ直していた。会合で配る資料。条約の該当条文。貿易量の数字。関税の比較表。


 準備は万全だ。頭ではわかっている。


 でも手が冷たい。


 宰相府で十年間、何百回も公式の場に立った。各国の大使の前でも、議会でも。震えたことなんか一度もなかった。


 なのに──今日は、手が冷たい。


(……自分のために戦うのは、慣れていないのかもしれない)


 宰相府での仕事は「ルシアンのために」だった。自分の意見ではなく、宰相府の見解を述べていた。後ろに立つ人間が違えば、声も震えない。


 今日は違う。後ろに立つのは自分だけだ。港町の商人たちの暮らしと、ヴォルフの名誉が──私の言葉にかかっている。


 大きな手が、そっと私の手を包んだ。


 顔を上げた。


 ヴォルフが目の前にしゃがんでいた。椅子に座る私の高さに合わせて、膝を折っている。右膝を少しかばいながら。


 灰色の瞳が、まっすぐにこちらを見ている。


 何も言わない。


 ただ、冷たい手を両手で包んでいる。大きくて硬い指。使い込まれた掌。その温度が、じわりと指先に伝わってくる。


「……あなたがいるから、大丈夫です」


 言ってから、驚いた。


 業務上の──なんでもない。これは業務上の何でもない。もうそんな言い訳もしない。


 本当に、大丈夫だと思えたのだ。この手があるから。


「ああ」


 ヴォルフが立ち上がった。膝をかばいながら、ゆっくりと。


「行くぞ」


 手の温もりが残っている。


 書類の束を鞄に入れて、宿を出た。



    ◇



 会合の前日までに、三つの仕込みを済ませていた。


 カルデア公国の外交官に個別に面会し、制限策が自国の貿易にも影響を与えることを数字で示した。

 南方諸国の商人代表に書面を渡し、現行条約との矛盾点をまとめた一覧表を配った。

 王都の有力商人二名と夕食を共にし、会合での発言の方向性を擦り合わせた。


 宰相府で覚えた仕事だ。根回しという名の事前準備。引き継ぎ資料には書けなかった仕事。──でも今は、自分のために使っている。


 会合場は王都の商業ギルド本部。石造りの大広間に長机が並び、各国の代表と国内の有力商人が顔を揃えている。


 二月の通商会議ほどの規模ではない。だが、ここでの発言は王都の商人社会に直接影響する。


 立ち上がった。


「通商制限策について、条約との整合性の観点から意見を申し述べます」


 準備した書類を広げた。


「現行の通商条約第七条は、南方航路の中継貿易に対する関税の減免を定めています。今回の追加関税は、この減免措置と直接矛盾します」


 数字を示した。


「追加関税一割五分が課されることで、条約で保証された減免の効果は実質的にゼロになります。条約を改定せずに関税で上書きするのは、条約の精神に反します」


 さらに一点。


「また、『国防上の緊急措置』と銘打たれていますが、具体的な脅威の提示がありません。何に対する国防なのか。どの国からの脅威を想定しているのか。それが示されない限り、この関税に根拠はありません」


 カルデア公国の外交官が頷いた。南方の商人代表が腕を組んで聞いている。事前の擦り合わせ通りだ。


 手応え。


 二月の通商会議で感じたのと同じ確かさが、指先に戻ってきた。──もう冷たくない。


 発言が終わった後、会合の空気が変わった。


 他の商人たちが次々に立ち上がり、制限策への疑問を口にし始めた。一人が声を上げると、堰を切ったように続く。


 全員が、言いたかったのだ。

 誰かが先に言ってくれるのを、待っていたのだ。


(──同じだ。宰相府の夜会の時と。誰かが最初の一歩を踏めば、続く人はいる)


 会合の後方に、ふと目がいった。


 軍服の男が一人、壁際に立っている。腕を組んで、発言者たちを見ていた。四十代半ばに見える。表情は硬いが、目には──迷いのようなものがあった。


 視線が一瞬だけ合った。男はすぐに目を逸らした。


 誰だろう。軍関係者がこの会合に?


 その疑問を追う間もなく──大広間の入り口に、別の人物が現れた。



    ◇



 空気が変わった。


 会合場のざわめきが、一瞬で静まった。入り口に立った人物に、全員の視線が集まっている。


 五十代の男。銀が混じった髪を丁寧に撫でつけている。背筋がまっすぐに伸びた軍人の姿勢。だが服装は軍服ではなく、仕立てのいい文官の上着。


 穏やかな表情。口元に微笑を浮かべている。


 ──目だけが、笑っていなかった。


 薄い灰色の瞳が、会合場を一巡する。品定めするように。どこまでが味方で、どこからが敵か。値踏みしている目だ。


 その目が──私の上で止まった。


「ああ、これは」


 男が歩み寄ってきた。足音が静かだ。軍人の歩き方なのに、音がしない。


「お初にお目にかかります。元宰相夫人殿──いや、ナディア殿とお呼びした方がよろしいですか」


 声は穏やかだった。低く、よく通る声。人を安心させる声音。


 でも──この穏やかさの裏に、硬いものがある。ルシアンの穏やかさとは種類が違う。ルシアンは鈍かった。この男は──鋭い。鋭いからこそ穏やかにできる。


「軍務卿閣下。ナディア・エルスナーです」


「ディートリヒ・フォン・アドラーです。本日のご発言、たいへん見事でした。さすがに通商条約にお詳しい」


 褒めている。

 褒めているのに、圧がある。


「しかし、国防上の必要性というものは、商人の方々にはなかなかご理解いただけないものでしてね」


 微笑んだまま言う。


「具体的な脅威の開示は、安全保障上の理由から控えさせていただいております。ご容赦を」


 反論の余地を残さない言い方だった。「安全保障上の理由」──この一言で、どんな追及も封じられる。


「……承知いたしました。ただ、条約との整合性については、引き続き問題提起をさせていただきます」


「ええ、どうぞ。健全な議論は歓迎いたします」


 ディートリヒが軽く会釈して去っていった。


 去り際に、もう一度こちらを見た。


 一瞬だった。微笑みが消え、素の目が覗いた。


 測っている。この女がどこまで知っているか。どこまで動くか。


 ──敵として認識された。


 背筋が冷たくなった。あの目は、権力を持つ人間の目だ。宰相府で十年間見てきた。ルシアンにはなかった種類の──冷たさ。


(……でも、怯まない)


 宰相府の食堂で微笑んだ時と同じだ。怯んだら負ける。怯んでいないふりを続けていれば、いつか本当に怯まなくなる。


 十年間で覚えたことだ。



    ◇



 会合場を出て、王都の通りを歩いた。


 ヴォルフが隣にいる。昨日と同じ位置。私の真横。


 しばらく無言で歩いた。夕暮れの石畳が長い影を作っている。


「ナディア」


「はい」


「さっきの男──会合場に入ってきた男」


「軍務卿のディートリヒ卿ですね」


 ヴォルフが黙った。


 数歩、歩いてから──低い声で言った。


「あの男の匂いは──覚えがある」


 足が止まった。


「……覚えがある?」


「ああ。五年前に嗅いだ匂いだ」


 ヴォルフは遠くを見ていた。灰色の瞳が、夕暮れの空を映している。


「あの男の顔は──よく見えなかった。遠かった。だが匂いは間違えない」


 五年前。辺境の討伐作戦。「上からの命令」を出した軍務卿。


 ──ヴォルフの体は、あの日の記憶を覚えている。


「……確認します。ディートリヒ・フォン・アドラーが、五年前の軍務卿と同一人物かどうか」


「いや」


 ヴォルフの声が低くなった。


「匂いで、わかる。同じ男だ」


 潮風のない王都の夕暮れに、二人の足音だけが響いていた。


 ──すべてが、一人の男に繋がっている。


 五年前の命令も。今の制限策も。ヴォルフの汚名も。港町の窮状も。


 全部、この男だ。


 宿の扉を開ける前に、一度だけ振り返った。会合場の方角。ディートリヒがいた場所。


 ──もう、退けない。

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