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夫が愛人を正妻にするそうなので、十年尽くした宰相夫人を辞めます  作者: 九葉(くずは)
第2章

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第十四話 あんたが行くなら、俺も行く

 枢密院からの返書は、素っ気なかった。


『本件は軍務卿の権限に基づく正当な措置と認められる。なお、事前通知の遅延については追って手続きを完了する旨、軍務卿より報告を受けている。異議は受理せず』


 それだけだった。


 手続きの瑕疵を突いたはずだ。事前通知の省略は明白な手続き違反だった。──なのに、向こうも手を打っていた。後から通知を追完して、瑕疵を塞いだのだ。


「権限内、か……」


 机の上に返書を置いた。


 ギルド長のブルクハルトにも写しを送る。あの人も歯噛みしているだろう。


 制限策は止まらない。


 港の荷揚げ場から船がまた一隻減った。

 仲買人のマルテは走り回って取引先をつなぎ止めている。

 南方航路の薬草商が二軒、港町から撤退した。

 ギルドの末端の荷運び人足は、仕事が減って酒場で暇を潰している。


 このままでは、港町が干上がる。


 帳簿を閉じた。


 条約で戦う道は、ここでは行き止まりだ。港町から枢密院に異議を出すだけでは、軍務卿の一言で押し返される。


 ならば──行くしかない。


(王都に行って、直接動くしかない)


 商人会合。枢密院への働きかけ。外交官との人脈。王都でしかできないことが山ほどある。


 問題は──。


 壁際の椅子を見た。


 ヴォルフの椅子。今は空っている。市場に買い出しに行っている。


 王都は、ヴォルフにとって過去の場所だ。騎士団長だった場所。名誉を失った場所。噂の発信源。


 連れていくべきか。

 一人で行くべきか。



    ◇



 夕方、ヴォルフが戻ってきた。


 干し肉と焼きリンゴの包みを机の端に置いて、椅子に腰を下ろす。ぎしり、と馴染んだ音が鳴る。


「ヴォルフ」


「ああ」


「王都に行こうと思います」


 ヴォルフがこちらを見た。


「通商制限策の件で。ここから異議を出すだけでは限界がある。王都の商人会合に出て、直接動きたい」


 灰色の瞳が、少しだけ細くなった。


 何を考えているのかはわからない。でも、次の言葉で──私は「一人で行きます」と言うつもりだった。


 あなたにとって辛い場所だから。無理はしなくていいから。


 その言葉を口にする前に、ヴォルフが先に開いた。


「あんたが行くなら、俺も行く」


 ──え。


「王都だぞ。あんたを一人で行かせるわけがないだろう」


 短い。いつも通り短い。


 でも──その短い言葉の中に、波止場で聞いた約束が響いていた。


 もう逃げない。あんたが選んだなら、俺はもう逃げない。


 あの約束を、この人は実行している。


「……ヴォルフ」


「ああ」


「結婚式は」


 六月に予定していた式のことだ。もう七月だ。延びている。


「これが終わってからでいい」


 ヴォルフは窓の外を見たまま言った。


「終わらせてから、始める」


 ……終わらせてから。


 この人は、自分の過去に決着をつけてから結婚したいのだ。汚名を背負ったまま、家族を始めたくないのだ。


 口には出さない。ヴォルフはそういうことを口にしない。


 でも──わかる。この人の不器用さは、もう読める。


「はい」


 頷いた。


「終わらせましょう。一緒に」


 ヴォルフの耳が赤くなった。


 窓の外を向いているから、顔は見えない。でも耳は隠せない。


(──この人は本当に、耳だけ正直だ)


 クルトにはマルテと一緒に港町を頼んだ。商会の日常業務は従業員に任せる。ブルクハルトには手紙を送った。


 翌朝、二人で馬車に乗った。



    ◇



 馬車で二日。


 前に港町へ来た時は、荷物一つで夜通し走って丸一日だった。今回は商会の資料を積み込んでいるし、ヴォルフの膝のこともある。途中の宿場で一泊した。


 前に王都へ行った時──通商会議の時は、ヴォルフは馬車の中でずっと居心地悪そうだった。大きな体を小さくして、窓の外を見ないようにしていた。


 今回は違う。


 ヴォルフは黙っているが、視線は真っ直ぐだ。窓の外を見ている。流れていく田園の景色を、逃げずに見ている。


 一日目の午後、風が強くなった。


 街道が丘陵地帯に入って、山からの風が馬車を揺らす。窓の隙間から冷たい風が吹き込んで──


 ことり、とヴォルフの手が動いた。


 私の側の窓を、静かに閉めた。


 自分の側は開けたまま。


「……風、止みましたね」


「ああ」


 止んだのではない。ヴォルフが閉めたのだ。


 でも──指摘しなかった。


 この不器用さを、そのまま受け取ることにしている。もう、そう決めている。


 二日目の夕方、王都の石畳が見えてきた。


 前回は「記憶よりも狭く見えた」。今回は──不思議と、怖くなかった。


 隣に、肩幅の広い人が座っている。それだけで。



    ◇



 王都の二号店は、繁華街の裏通りに面した小さな店だった。


 従業員のリーナが迎えてくれた。


「代表、お待ちしておりました。制限策の影響で南方航路の仕入れが滞っていまして──」


「状況は聞いています。対策は打ちます。まず明日の商人会合に出ます」


 帳簿を確認しながら、リーナの報告を聞いた。仕入れの遅延。取引先の離反。二号店の売上は先月比で三割減。


 深刻だが、まだ致命的ではない。時間はある。


 報告を終えて、裏口から通りに出た。


 王都の夕暮れ。石畳を行き交う人々。貴族の馬車。衛兵の巡回。──ここはかつて、十年間暮らした場所だ。宰相府の廊下を歩いていた場所だ。


 今は、商人として立っている。


「姐さん」


 リーナの横にいたもう一人の従業員──港町出身のトビアスが、小声で言った。


「王都で噂が出てます。軍務卿のディートリヒって人が、次の宰相候補に名前が挙がってるって」


 足が止まった。


 次期宰相。


 あの制限策は──ただの「国防上の緊急措置」ではなかったのだ。


 軍務卿が宰相の座を狙っている。通商制限策は政策の実行力を示すためのパフォーマンス。港町の商人たちの生活は、一人の男の出世の道具にされている。


 そして──ヴォルフの過去も。


 五年前の作戦で部下を犠牲にしたのは手柄を立てるため。今、港町を締め上げているのは宰相の座のため。


 どちらも同じだ。他人の命と暮らしを踏み台にして、自分だけ上に登ろうとしている。


 拳を握った。


「……ナディア」


 ヴォルフの声が横から聞こえた。


 横から。


 振り向くと、ヴォルフが──私の隣を歩いていた。


 後ろではない。壁際でもない。私の真横。肩の位置が全然違う。私の頭がヴォルフの肩にも届かないのは前と同じだけれど、距離が違う。


「……ヴォルフ。後ろじゃなくていいんですか」


「隣にいろと言ったのは、あんただ」


 二月の通商会議の日。王城の大広間で、私がヴォルフの袖を掴んで言った言葉。


 覚えていたのだ。


 あの時は、私から掴んだ。今は、ヴォルフから隣に来た。


「……ええ。隣にいてください」


「ああ」


 王都の夕陽が、二人の影を石畳に長く伸ばしていた。


 影は、並んでいた。

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