第十三話 あの方は、無能なんかじゃない
「ヴォルフという方は、いますか」
事務所の入り口に、見知らぬ男が立っていた。
二十代後半。日に焼けた顔。旅の埃がついた外套。肩幅は広いが痩せている。長い距離を歩いてきた体だ。
目だけが、妙に真っ直ぐだった。
「ヴォルフは今──」
答えかけた時、背後から足音がした。
ヴォルフが市場から戻ってきたのだ。干し肉の包みを片手に、事務所の入り口に立つ。
見知らぬ男とヴォルフの視線が交差した。
男の目が見開かれた。唇が震えた。
「団長……」
ヴォルフの手から、干し肉の包みが落ちた。
鉄板が──動いた。驚きではない。もっと深い、もっと古い何かが浮かんで、すぐに沈んだ。
「……クルト」
名前を呼んだ。短く。低く。
その声に、五年分の何かが詰まっていた。
◇
三人で酒場に入った。昼間の酒場は薄暗く、客はまばらだ。
クルト・ヴァイス。二十七歳。五年前の辺境討伐作戦の生存者。元騎士。今は行商で生計を立てている。
奥の席で向かい合ったクルトとヴォルフの間に、重い空気が流れていた。
「団長。ずっと探してました」
「…………」
「二月に王都の通商会議で、でかい護衛を連れた商会の話を聞いたんです。港町の貿易商会。護衛の名はヴォルフ。膝に古傷がある──もしかしたらと思って」
通商会議。やはりあれが起点だった。
「団長。あの作戦のことで、話したいことがあります」
「もう終わったことだ」
ヴォルフの声が低く落ちた。
「終わってません」
クルトが身を乗り出した。目の奥に、怒りとも懇願ともつかない光がある。
「団長は悪くない。あの作戦で三人が死んだのは、団長のせいじゃない」
「──俺の責任だ」
「違う!」
クルトの声が酒場に響いた。酒場の親父がこちらを見たが、クルトは構わなかった。
「十二人で出ろなんて命令がおかしいんだ。大隊分の予算がついてた作戦に、なんで十二人なんですか。団長はあの兵力で最善を尽くした。──俺は知ってます。団長の判断がなかったら、九人だって生きて帰れなかった」
ヴォルフは何も言わなかった。
灰色の瞳が、テーブルの木目を見ている。
「俺は二年前に一度、軍に告発しました」
クルトの声が少し落ちた。
「命令書の写しを持って、軍務省に行った。でも握り潰された。写しは偽造だと言われて終わりです。──軍務卿の権限で、調査そのものが止められた」
告発を試みて、潰された。
だからクルトは、ヴォルフを探した。一人では勝てない。証言できる人間が──命令を受けた本人がいなければ、何も変わらない。
「団長。一緒に声を上げてください」
長い沈黙が落ちた。
ヴォルフが口を開いた。
「……三人は、俺の目の前で死んだ。命令がどうあれ、現場にいたのは俺だ。俺が守れなかった。それは変わらない」
立ち上がった。右膝を少しかばいながら。
「もう終わったことだ」
そう言って、酒場を出ていった。
クルトの拳がテーブルの上で握り締められている。
震えていた。
「……ナディア殿」
クルトが私に向き直った。
「あの方は──団長は、無能なんかじゃない。あの兵力で全滅しなかったのは、団長の指揮があったからです。俺は五年間、それを誰にも信じてもらえなかった」
目が赤い。泣いてはいない。泣くのを堪えている顔だ。
「見ていただきたいものがあります」
クルトが外套の内側から、折り畳まれた紙を取り出した。
◇
商会の事務所で、クルトが紙を広げた。
古い紙だ。端が擦り切れている。五年間持ち歩いた跡がある。
作戦命令書。
辺境討伐作戦。出撃兵力──小隊規模。具体的な人数は書かれていないが、「第三小隊をもって遂行せよ」の文言がある。
小隊。大隊ではない。
ヴォルフは「大隊分の予算がついていたはずだ」と言った。クルトも「大隊分の予算がついてた」と言った。
なのに命令書には「小隊」。
最初から、少数で出せという命令だったのだ。
命令書の末尾に目を走らせた。
署名。
読んだ瞬間、指が冷たくなった。
『軍務卿 ディートリヒ・フォン・アドラー』
──同じ名前だ。
マルテが言った名前。通商制限策を出した軍務卿。「当時の」軍務卿と「今の」軍務卿が、同一人物。
五年前にヴォルフの部下を死なせた命令を出した男が、今この港町の商売を締め上げている。
ヴォルフの過去の噂を、意図的に広めた男がいるとすれば──。
(──繋がった)
噂の不自然な広がり方。通商制限策。視察員の派遣。全部、同じ人間から出ている。
「クルトさん」
「はい」
「この写しは、お預かりしてよろしいですか」
「……使ってくれるんですか」
「必ず」
クルトの目から、堪えていたものが一滴だけ落ちた。
すぐに袖で拭って、深く頭を下げた。
◇
夕方、港の通りでのことだった。
商会に戻る途中、ヴォルフと並んで歩いていた。クルトの件には触れず、制限策の話をしていた時だ。
向かいから、軍服の男が歩いてきた。
若い。二十代半ば。軍務卿の視察員だろう。前回の通達と一緒に港町に来た連中の一人だ。
男がヴォルフを見て、足を止めた。
「これはこれは」
にやりと笑った。
「元団長殿。今は女商人の荷物持ちですか。落ちたものですな」
足が止まった。私の足ではない。ヴォルフの足だ。
半歩──前に出た。
声は出していない。剣にも触れていない。
ただ、あの体躯が、まっすぐに男の前に立った。
灰色の瞳が見下ろしている。
──見下ろす、という言葉の通りだ。頭一つ分、高い。
でも今回は、それだけではなかった。
ヴォルフの立ち方が違う。港町の護衛としてではなく──かつて騎士団の頂点に立っていた人間の、背筋の伸ばし方だった。
視察員の顔から、にやにやが消えた。
何かを感じ取ったのだろう。目の前の男が、ただの「落ちた元団長」ではないことを。
「……失礼した」
男は目を逸らし、足早に去っていった。
ヴォルフは何も言わなかった。半歩前に出ただけで、もう元の位置に戻っている。
──無能ではない。
クルトの言葉が胸の中で反芻される。あの立ち方は、何百人もの命を預かった人間の立ち方だ。
無能なわけがない。
◇
深夜。
事務所の蝋燭の灯りの下で、クルトから預かった命令書の写しを何度も読み返していた。
署名の筆跡。文面の言い回し。「第三小隊をもって遂行せよ」──この一文が、三人の命を奪った。
この命令を出した男が、今も軍務卿として権力を振るっている。次期宰相候補とすら噂される人間が。
許せない。
──許せない、と思っている自分に気づいた。
怒りだ。他人事ではない怒り。ヴォルフの痛みが、自分の痛みになっている。
いつからだろう。いつの間にか、この人の過去が──私の問題になっていた。
(……怖い、と思うべきなのかもしれない。また誰かのために自分を犠牲にするんじゃないかと)
でも──これは違う。
宰相府での十年間は、求められたから応えた。気づかれないまま、感謝もされないまま。
今は違う。
私が選んで、私の意思で、この人の過去に踏み込んでいる。
肩に、温もりが降りた。
毛布。
あの薄い灰色の毛布が、肩にかけられている。
──あの夜と同じだ。商会を開いて間もない頃。深夜の事務所で机に突っ伏して、目が覚めたら毛布がかかっていた。
でも今夜は、寝ていない。
振り返った。
ヴォルフが、すぐ後ろに立っていた。毛布をかけた手が、まだ肩の近くにある。
灰色の瞳が、こちらを見ている。
その手を──掴んだ。
大きな手。硬い指。温かい。
「……ナディア」
「まだ離さないでいいですか」
ヴォルフが黙った。
手を引こうとしない。
「…………いい」
短い。いつも通り短い。
でも、繋いだ手は温かかった。
蝋燭の炎が、じじ、と音を立てて揺れた。あの夜と同じ音だ。
でも、あの夜とは決定的に違うことが一つある。
今は、一人じゃない。




