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夫が愛人を正妻にするそうなので、十年尽くした宰相夫人を辞めます  作者: 九葉(くずは)
第2章

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第十二話 五年前、何があったんですか

 港が、静かになった。


 制限策の通達から三日。南方航路の船が目に見えて減っている。追加関税の一割五分を嫌って、寄港を避ける船が出始めたのだ。


 荷揚げ場に並ぶ荷物が少ない。

 仲買人の声が少ない。

 魚市場の活気だけがいつも通りで、それがかえって港の寂しさを際立たせている。


 商会の取引先からも問い合わせが相次いだ。


 南方の香辛料の仕入れはどうなる。薬草の輸送費は。来月の納品は間に合うのか。


 全部に「対応中です」と返した。対応中なのは本当だ。ただし策はまだ形になっていない。


(──急がないと)


 朝一番に、ギルド長の館に向かった。



    ◇



「枢密院への事前通知を省略している。そこを突きます」


 ブルクハルトの書斎で、私は持参した書類を広げた。


 ギルド長は白髭の奥から鋭い目をこちらに向けている。あの商談の時と同じ目だ。ただし今回は品定めではなく、期待の色が混じっている。


「通商条約そのものではありません。暫定関税にも手続きがあるんです」


 指で条文を示した。


「『国防上の緊急措置』として暫定関税を課す場合でも、枢密院への事前通知が義務づけられています。ディートリヒ卿はこの通知を省略しています」


「……省略?」


「通達の日付と枢密院の記録を照合しました。通知が提出された形跡がありません」


 ブルクハルトが書類を引き寄せた。老眼鏡を持ち上げて、条文と日付を突き合わせている。


 長い沈黙。


「手続きの不備か」


「はい。関税そのものの是非ではなく、手続きの瑕疵です。これなら枢密院に異議を申し立てる正当な根拠になります」


「税率が妥当かどうかの議論には踏み込まない、ということだな」


「議論すれば『国防上の必要性』を持ち出されて長引きます。手続きの不備なら、事実確認だけで済む」


 ブルクハルトが、ふっと息を吐いた。


「ナディア殿。あんたの頭脳は、港町の財産だな」


「お褒めに預かり光栄です、ギルド長殿」


 異議書はギルド長名義で枢密院に提出する。私の名前は出さない。港町の商人ギルドとしての正式な申し立てだ。


 書類にブルクハルトの署名が入った。


 これで即時の関税強行は止まる。完全撤回ではない。けれど時間を稼げた。


(──時間があれば、次の手が打てる)


 ギルド長の館を出た時、空が高かった。六月の陽射しが石畳を白く照らしている。


 一つ、片付いた。


 でも、もう一つ。もっと重いものが、まだ残っている。



    ◇



 夜になった。


 事務所の蝋燭がゆらゆらと揺れている。帳簿は閉じた。取引先への返信も書き終えた。


 ヴォルフが壁際の椅子に座っている。あの肘掛け椅子。私が買ったやつだ。もう一年近く座り続けて、木がヴォルフの体に馴染んでいる。


 今日一日、噂のことは口にしなかった。


 ヴォルフも何も言わなかった。いつも通り事務所にいて、いつも通り壁際で腕を組んでいた。


 ──でも、知っている。


 あの鉄板の下に、何かが沈んでいることを。二月の波止場でヴォルフが「元騎士だ」と言った時、「騎士団長」という肩書きを飲み込んだことを。


 聞かなければならない。


 業務上の事情聴取ではなく。

 上司と部下の面談でもなく。


 家族として。


「ヴォルフ」


「ああ」


「騎士団長だったんですね」


 ヴォルフの灰色の瞳が、こちらを見た。


 否定しなかった。驚きもしなかった。噂が届いていることは、わかっていたのだろう。


「ああ」


「……なぜ言わなかったんですか」


「言う必要がなかった」


 短い。いつも通り短い。


 でも今夜は、この短さで終わらせたくなかった。


「あなたの話を聞かせてください」


 ヴォルフが、わずかに目を細めた。


「五年前、何があったんですか」


 沈黙が落ちた。


 蝋燭の炎が、じじ、と音を立てた。窓の外から潮騒が聞こえる。遠くで船の汽笛が一つ鳴って、消えた。


 長い沈黙だった。


 立ち上がって茶を淹れた。ヴォルフの分と自分の分。カップを差し出す。ヴォルフが受け取った。


 一口飲んで、カップを膝の上に置いて──口を開いた。


「辺境だった」


 低い声。


「冬だった。辺境の山岳地帯に魔獣の群れが出た。討伐の命令が下りた」


 一文ずつ。事実だけを並べる話し方。二月の波止場で「三人の部下」を語った時と同じだ。


「大隊分の予算がついていると聞いた。二百人規模の作戦だと」


 大隊。二百人。


「──だが、実際に来たのは十二人だった」


 息を呑んだ。


「十二人……」


「俺を含めて十二人。上からの命令で、この人数で出ろと」


 二百人の予算で、十二人。


「兵が足りないのはわかっていた。だが命令だ。俺は行った」


 ヴォルフの声は淡々としている。感情を削ぎ落とした、乾いた声。


 けれど、カップを持つ手が──ほんのわずかに、震えていた。


「山岳地帯の奥で、魔獣の群れと遭遇した。数が予想以上だった。十二人じゃ──足りなかった」


「…………」


「俺の判断が遅れた。撤退の号令を出すのが、遅れた。三人が──」


 言葉が途切れた。


 ヴォルフが茶を一口飲んだ。飲み込むまでに、少し時間がかかった。


「三人が死んだ。目の前で」


 あの夜──二月の事務所で聞いた言葉が重なる。「守れなかった部下がいた。三人」。あの時と同じ事実だ。


 でも今夜は、その事実の周りに──もっと多くの情報がある。


 二百人分の予算。

 十二人の出撃。

 上からの命令。


「責任を取って辞めた。騎士団長を降りて、爵位も返して、ここまで来た」


 ヴォルフがカップを膝に置き直した。


「──それだけだ」


 それだけ。


 いつもの締め方。短く切って、それ以上は語らない。


 でも今夜は──一つだけ、聞き逃せない言葉があった。


「ヴォルフ」


「ああ」


「『上からの命令で、この人数で出ろ』──そう言いましたね」


 ヴォルフが黙った。


「二百人分の予算がついていた作戦に、十二人で行けと。それは──誰の命令ですか」


 灰色の瞳が揺れた。


 揺れた、と思った。一瞬だけ。すぐに鉄板に戻る。


「……軍務卿の命令だ。当時の」


 軍務卿。


 数日前にマルテが言った名前が、頭の中でちらついた。軍務卿ディートリヒ・フォン・アドラー。


 ──「当時の」軍務卿と、今の軍務卿は同じ人物なのだろうか。


 聞こうとした。けれどヴォルフの顔を見て、やめた。


 充分だ。今夜は充分に話してくれた。


 これ以上は、自分で調べる。


「……ありがとうございます。話してくれて」


「礼を言われることじゃない」


 花の時と同じ言葉。毛布の時と同じ言葉。


 この人は、自分がしたことに対して「礼を言われることじゃない」と言う。いつもそうだ。


 自分がどれだけのものを差し出しているか、気づいていない。


 ──気づかせるのは、私の仕事だ。


(……また「仕事」って言ってる)


 苦笑した。この癖は、たぶん一生抜けない。


 でもいい。今は仕事でもいい。


 ヴォルフの過去に何があったのか。あの「命令」が何を意味するのか。


 条約の条文を読み解くように、一つずつ調べていく。


 それが──今の私にできる、家族としての最初の仕事だ。

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