第十一話 あの男は騎士団の恥だ
焼きリンゴの甘い匂いで目が覚めた。
宿ではない。ひと月前に借りた、商会の上階の部屋だ。
窓の外から潮騒が聞こえる。六月の港町は朝が早い。漁船が出ていく櫓の音。魚売りの声。パン屋の窯に火が入る匂い。
階下の台所から、かたん、と音がする。
降りていくと、ヴォルフが竈の前に立っていた。
広い背中。外套は脱いでいて、袖をまくった腕が鍋を動かしている。あの大きな手が、小さな卵を割っている光景は何度見ても少しおかしい。
(……ギャップ萌え、というやつかしら)
前世の記憶が妙なところで顔を出す。
「起きたか」
ヴォルフが振り返らずに言った。
「おはようございます」
「ああ」
短い。相変わらず短い。
家族になって、ひと月。
変わったことがある。
朝、台所に火を入れる人がいる。
夕方、「戻った」と言う相手がいる。
夜、隣の部屋から低い寝息が聞こえる。
変わらないこともある。
ヴォルフは相変わらず鉄板の顔だし、返事はいつも一言で済ませるし、耳だけが不意に赤くなる。
机に着くと、二枚の皿が並んでいた。
卵焼き。黒パン。干し肉の薄切り。
同じ内容。
──ただし、私の皿にだけ焼きリンゴが添えてある。
「ヴォルフ」
「ああ」
「あなたの分は」
「いらない」
いらない、ではないだろう。
押し花のことを思い出す。道端に咲いているはずのない花を「道に咲いてた」と言った人だ。「たまたまあった」なんて、もう信じない。
信じないけれど──指摘もしない。
この不器用さを、そのまま受け取ることにしている。
「いただきます」
ひと口かじった。甘い。いつもの味。
向かいの席で、ヴォルフが黒パンをちぎっている。大きな手が、妙に丁寧にパンを割る。
この朝が、ずっと続けばいいのに。
そう思った矢先だった。
◇
「姐さん、大変だ!」
マルテが事務所に飛び込んできたのは、午前の帳簿を開いた直後だった。
「何です、朝から」
「王都の早馬だ。軍務卿ってやつが、南方航路に追加関税をかけるらしい」
書類を差し出される。マルテの仲間筋が王都で入手した通達の写しだ。
目を通した。
通商制限策。南方航路の中継貿易に対し、「国防上の緊急措置」として追加関税を課す。
税率──一割五分。
仕入れコストが丸ごと跳ね上がる。
「うちだけの問題じゃないですね」
「ああ。港町の商人全員が食らう」
帳簿の数字が頭の中で回り始めた。
香辛料の仕入れ値。薬草の輸送費。南方航路の運賃。
全部に一割五分が乗る。
(利益率が──半分以下になる)
「軍務卿ディートリヒ・フォン・アドラーって男が出した政策らしい。宰相が辞めてから、軍の連中が幅を利かせ始めてるって話だ」
ルシアンが宰相を辞めたのは先月だ。
ひと月で、もう力の空白が生まれている。
「対策を考えましょう。条約を洗い直します」
「頼むぜ、姐さん」
マルテが出ていった後、机に頬杖をついた。
通商条約の条文が頭に浮かぶ。第七条。附則第二号。減免措置の適用範囲。
(──さて。仕事が増えた)
考えないといけないことが増えた。
でも、問題を条文で解くのは嫌いじゃない。宰相府で十年間やっていたことだ。
◇
午後、港の市場に買い出しに行った。
ヴォルフがいつも食べている干し肉を買おうと魚市場の親父に声をかけたところで──背後から声が聞こえた。
「あの商会の護衛、知ってるか」
魚売り台の陰で、男が二人話している。
「ヴォルフとかいうでかい男だろ。あれ、元騎士団長らしいぜ」
足が止まった。
「騎士団長? あのなりで?」
「王都から来た軍の連中が言ってた。五年前に辺境の討伐で三人も部下を死なせたんだと」
「へえ……」
「騎士団の恥だってよ。王都じゃ有名な話らしい」
騎士団の恥。
その言葉が耳に張りついて、剝がれなかった。
干し肉を受け取って、市場を歩く。
二月の波止場で、ヴォルフはこう言った。
「俺は元騎士だ」と。
騎士、とは言った。
騎士団長、とは言わなかった。
それだけなら、肩書きを省いただけかもしれない。
引っかかったのは別のことだ。
噂の広がり方が、速すぎる。
ヴォルフは八ヶ月以上この港町にいる。それなのに今まで「騎士団長だった」なんて話は一度も聞かなかった。
それが急に──「王都から来た軍の連中」が吹聴している。
港の仲買人が知っていた。
酒場の常連が知っていた。
魚市場の親父までが知っていた。
一人の人間の過去の噂が、こんなに均一に、こんなに速く広まるものだろうか。
二月に王都の通商会議に行った。あの時、ヴォルフは会議場にいた。元騎士団の関係者に目撃された可能性はある。
でも二月から六月まで四ヶ月。噂が自然に流れるなら、もっとまばらに届くはずだ。
これは──広められたのだ。
誰かが意図的に。
背筋に、冷たいものが走った。
◇
夕方、事務所の机で二人で夕食を食べた。
朝の卵焼きの残りと、黒パンと、市場で買った干し肉。質素な食卓。
でも向かいに誰かがいる夕食は、銀の燭台の下で一人きりだった宰相府の晩餐より、ずっとあたたかい。
ヴォルフは黙々と食べている。いつも通りの鉄板の顔。
──噂のことは、聞いているだろう。
港町は狭い。市場であれだけ話されていたなら、ヴォルフの耳にも届いているはずだ。
騎士団の恥。
三人の部下を死なせた無能。
元騎士団長。
ヴォルフの手が、一瞬だけ止まった。
パンをちぎる指がほんの少し力を込めすぎて、パンが崩れた。
すぐに何事もなかったように食べ続ける。
見逃さなかった。
あの鉄板の下に何があるか、もう知っている。
「ヴォルフ」
「ああ」
「明日、ギルド長のところに行ってきます。通商制限策の件で」
「……わかった」
それだけのやり取り。
噂のことは聞かなかった。
今はまだ、聞かない。
食事を終えて片付けをしている時、ヴォルフの手が私の肩にそっと触れた。
「飯、うまかったか」
「ええ」
振り返った。
「あなたが作ったんですから」
ヴォルフの耳が赤くなった。
六月の夕暮れの光が、事務所の窓から差し込んでいる。今度ばかりは夕日のせいにしてもいいけれど──もう、夕日のせいにはしない。
この朝食がある限り。
この夕食がある限り。
大丈夫だ。
でも──噂の出所は突き止めないといけない。通商制限策も潰さないといけない。
そしていつか、ヴォルフが語らなかった「騎士団長」の肩書きの意味を、聞かなければならない。
焼きリンゴの甘さが、まだ口の中に残っている。
この味を、誰かの悪意に台無しにされたくなかった。




