クマの処遇
初めてクマを殺した翌日。思っていた以上に、今までとなにも変わらない、普通の一日だった。
その夜も、私はテレビをつけていた。
ニュースは、また別の事件を伝えていた。ある家族が被害に遭い、重傷を負ったという。ここでもクマの目撃情報があるようだ。詳細は語られなかったが、画面の端に映る現場の様子だけで、十分だった。
そして、ニュースの内容は私の中で、いやおうなしに妻と娘の事件と重なっていった。
目を閉じる。
あの日のことが浮かんでくる。
家を出る直前の妻の笑顔。娘の「お菓子買ってくるね!」という声。それに答えた自分の「楽しみにしてる」という言葉。そして、病院で見た、妻の指輪と、娘の小さな靴。
思い出せば思い出すほど、腹の底から込み上げてくるものがあった。
憎むべき仇は、この手で殺した。
それでも、収まらない。
怒りとも憎しみとも言えないなにかが、私の中でまた膨らんでいく。
「まだだ」
「これで、終わりじゃない」
妻と娘を弄んだクマを殺した。
それなのに、何も終わっていない。
「あいつだけじゃない」
私は、テレビの画面を見つめる。
「クマは、他にもいる」
どうして、ただ平和に暮らしているだけの俺たち普通の人間が、クマの勝手な都合で殺されなきゃいけないんだ。
許せない。
この状況を放置すれば、この先も妻や娘のような被害者や、私のような遺族が生まれてしまう。
そんなことが許されていいはずがない。
断じて、許されてはいけない。
誰もやらないのなら、私がやろう。
平和な世の中を取り戻すために、私ひとりでも立ちあがろう。
もしかしたら、これが、この世にたった一人残された私が果たすべき使命なのかもしれない。
私はパソコンの前に座り、クマによる過去の事件を調べ始めた。
被害者。事件の経緯。加害者の情報。犯行現場とその周辺の情報。社会問題としての事件の扱われ方。
あらゆるニュース記事をチェックしていった。
あるとき、「クマとの共存」というタイトルの記事を見つけた。識者へのインタビュー記事だった。
私はそれを開き、数行読んだところで、画面をスクロールする指を止めた。
「……こいつは何も分かってない」
そう呟いて、タブを閉じた。
その一方で、クマによる被害事件を扱った記事を見つけると、私はそれを最後まで読み込み、コメント欄にまで目を通した。
同じような怒りを綴る書き込みを見つけると、小さく頷いた。
「そうだよな」
また別の事件を探す。
また同じように読み込む。
また頷く。
その繰り返しだった。
気づけば、寝食を忘れて丸一日経っていた。
翌日、私はいつのまにか机で眠っていたようだ。凝り固まった身体を起こすと、スマホの通知が目に入った。
「お疲れ! 体調崩してない? 大丈夫か?」
同期入社の同僚からメッセージアプリを通じて連絡が入っていた。
事件以降休み続ける私を心配して連絡を寄越したようだ。
画面をしばらく眺める。
何と返せばいいのか分からなかった。
私は、妻と娘を失った。
それなのに、今の私は、妻と娘のことを考えているわけではなかった。
クマのことを考えている。
そのことを、友人に話す気にはなれなかった。
私はスマホを伏せた。
軽く食事を済ませた後、再びパソコンに向き合い、検索履歴だけを積み重ねていく。
「クマと共存なんて、できるわけがない」
私は改めて思う。
人間と同じ社会で生きながら、他人を尊重せず、他人の大切なものを平気で踏みにじることのできる存在。
そんな存在を、人間と同じように扱う必要があるのか。
「こんな存在が、人間の社会にいていいはずがない」
⸻
私は、次の標的を定めた。
長時間インターネットの記事を調べ、前に世話になった裏社会の人を通じて見つけ出したクマは、妻と娘の事件とは直接の関係はない。
しかし、近隣で過去に同様の事件を起こしたことのある人物だった。
「このクマは、危険だ」
そう判断した。
妻と娘の仇を討つ時とは、明らかに違う。
あの時は、憎かった。
今は、違う。
「放っておけば、また誰かが被害に遭う」
その考えが、頭から離れなかった。
そして、こうも思った。
「これは、殺害じゃない」
「クマを、駆除するだけだ」
殺す。
そう考えると、胸の奥に引っかかるものがある。
駆除する。
そう言い換えると、すべてが自然に思えた。
「害のある存在を排除することは、悪いことじゃない」
「これ以上、私たちのような被害者を出さないために、必要なことなんだ」
私は、間違っていない。
私は、猟銃で害獣を殺処理するハンターと同じだ。
私は、クマという害獣駆除の職人なんだ。
⸻
二人目を、殺した。
一人目の時ほどの恐怖はなかった。
多少の動揺はあった。
それでも、思っていたより静かだった。
「また一人、減らせた」
その感覚だけが、静かに残った。
その後も、私は標的を探し続けた。
三人目。
四人目。
その先へ。
いつしか数を数えることも忘れて、日々作業に没頭した。
最初の時ほど、心臓は速くならない。
手も震えない。
終わった後に、自分が何をしたのか考えることもなくなった。
ただ、次の標的を探す。
それだけだった。
私は、自分が駆け出しの新人ではなく、専門家になっていくのを実感していた。
⸻
最初の駆除から、どれほどの時間が経っただろうか。
私の生活から、普通のものが消えていった。
仕事に行かなくなった。
友人からの連絡にも応じなくなった。
趣味に費やす時間もなくなった。
眠る時間さえ、削られていった。
それらすべてが、「駆除」のために消費されていった。
それでも、私はそれを犠牲だとは思っていなかった。
「誰かが、やらなければならない」
「私が、やる」
もう、復讐ではなかった。
「社会のために」
その言葉が、私に使命を与えた。
ある日、以前心配のメッセージをくれた友人が自宅を訪ねてきてくれた。
出勤はおろか、連絡もほとんどなくなった私を心配してくれたようだ。
突然の訪問だったので少し驚いたが、いつもと変わらない、他愛のない話をした。
私が仕事を休み始めてから、いつの間にやら一か月も経っていたらしい。
「もう一か月か」
「そうだよ。ちゃんと食べてるか?」
「食べてるよ」
「ならいいけど」
彼は、それ以上深く聞こうとはしなかった。
妻と娘のことも、私が今どうしているのかも。
ただ、時々くだらない話をして、私が少し笑うと安心したような顔をした。
ありがたかった。
申し訳なかった。
話題が尽きたころ、彼は小さな紙袋を差し出した。
「よかったら、食べてくれ」
中には流行りのお菓子が入っていた。
「ありがとう」
私はそう言って受け取った。
彼を見送って家に戻る。
紙袋をテーブルの端に置く。
中身を確認することもしなかった。
私はまた、パソコンの画面に向き直った。
⸻
翌日。
最近はクマを近隣で見かけることが少なくなった。
仲間が狩られているのを警戒して身を潜めているのだろう。
出てこないならば、こちらから向かうまでだ。
そう考えて、次の標的であるクマを見張り始めた。
今度のクマも、妻と娘の事件には何の関わりもない個体だった。
このクマは過去に犯罪を犯した記録もない。
ごく普通に生活していた。
妻がいて、まだ幼い子どもがいて、毎晩、家族で食卓を囲んでいる。
それは、かつての私の生活と、ほとんど変わらないものだった。
それでも私は、思っていた。
「こいつがクマである以上、危険な害獣であることに変わりはない」
数日、その家を見張り続けた夜のことだった。
窓の向こうに、食卓を囲む家族の姿が見えた。
子どもが何かをねだって、両親が笑っている。
ごくありふれた、何でもない光景だった。
その瞬間、私の体は、一瞬、止まった。
手が、微かに震えていた。
「……」
何かが、胸の奥で引っかかった。
何なのか分からない。
私はしばらく、その場から動けずにいた。
やがて、自分に言い聞かせるように呟いた。
「こいつがクマである以上、危険なんだ」
実行の日。
私はクマの家付近で機会を待っていた。
玄関の扉が開き、子どもが飛び出してきた。
「いってきます!」
その声が、耳の奥で、別の声と重なった。
「お菓子買ってくるね!」
私は久しぶりに娘の声を思い出した。
懐かしく愛おしい、コロコロとした声。
会いたい。
会えるなら、今すぐ会いたい。
娘を思い出し、身体が動かなくなる。
それでも、私は目の前の家を見ていた。
この家にも、家族がいる。
私と同じような家族がいる。
それでも、この男はクマだ。
クマである以上、危険なんだ。
私は、自分にそう言い聞かせた。
子どもが家の中に戻るのを待つ。
そして、手慣れた作業をこなした。
作業を終えた後、私はいつもより長く、その場から動くことができなかった。
何かを考えかけては、それを振り払うように首を振る。
自分でも、なぜだか分からない。
「……疲れているだけだ」
私はそう結論づけて、その場を後にした。
⸻
警察が、私にたどり着いたのは、それからしばらく後のことだった。
逮捕された時、私は抵抗しなかった。
むしろ、こう思っていた。
「終わったか」
自分が間違ったことをした、という認識はない。
しかし、国民が守るべき法律に反していることは、最初から理解していた。
今はただ、自分の「仕事」が終わったのだという感覚だけが、静かに胸の中に広がっていた。




