理不尽
自分が命より大切に思っているものでも
他人は容易く踏みつけにできるのだ
少し前に流行っていた大衆漫画に、そんな台詞があったのを思い出す。
もし本当に、自分の命より大切なものが理不尽に奪われてしまったら、私はどうするだろうか。
東京近郊のベッドタウン。一軒家と集合住宅が混在する普通の住宅街にある普通の家。そこが私の自宅だ。
朝食のテーブルには、いつもと同じものが並んでいた。焼いたパン、目玉焼き、妻が作った野菜スープ。娘はスープの中のニンジンをスプーンでつつきながら、幼稚園で昨日あった出来事を話している。
「それでね、ゆうたくんがね、砂場でトンネル作ってたんだけど、途中で崩れちゃって」
「あらあら」
妻がそう相槌を打ちながら、こちらをちらりと見た。私はスマートフォンで昨夜のニュースを追いながら、適当に「うん、うん」と頷いていた。
「ちゃんと聞いてる?」
妻の声に、私は顔を上げた。
「聞いてるよ。ゆうたくんのトンネルが崩れたんだろ」
「……まあ、合ってるけど」
妻は少し呆れたように笑って、また娘に向き直った。娘はその続きを、今度は妻に向かって話し始める。私はまたスマートフォンに視線を戻した。
特別なことは何もない朝だった。ただ三人で朝食を食べて、少し話して、それぞれの一日が始まろうとしているだけの、いつもの朝だった。
「そういえば、あんた、小学校の時もそうだったよね。いつも人の話、半分しか聞いてなかった」
娘の話がひと段落すると、妻がふと昔の話を私に振った。
「お前も変わってないよ。人の話をすぐ茶化す癖」
「茶化してないし」
妻はむくれた顔をしてみせたが、すぐに笑った。私たちは幼馴染だった。家が近所で、気がつけば毎日のように一緒にいて、気がつけば同じ高校に通っていて、気がつけば結婚していた。運命的な出会いというようなものではない。ただ、隣にいるのが当たり前になっていた。
喧嘩をしたこともある。くだらないことで大笑いしたこともある。特別なことなど何もない、ただの積み重ねだった。それでも今、娘を見ながら笑っている妻を見ていると、この積み重ねがどれほどのものだったのか、改めて思う。
もっとも、そんなことをわざわざ言葉にはしない。私たちの間では、それは言わなくても分かっていることだった。
その日の午前中、妻と娘は買い物に出かける予定になっていた。私は同行しなかった。今日のうちに伸びっぱなしの髪をどうにかしなければならなかったからだ。
「お父さんも来ればいいのに」
娘が玄関で靴を履きながら言った。
「今日中に床屋に行かなきゃならないんだ。また今度な」
「じゃあ行ってくるね」
妻がそう言って、娘の手を引いた。
「うん。気をつけて」
私はそう答えながらふたりを見送る。娘が扉の前で振り返り、大きく手を振った。
「お菓子買ってくるね!」
「うん。楽しみにしてる」
扉が閉まる。ほどなくして私は身支度をして散髪へ向かう。
何気ない、いつもと変わらない別れだった。
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散髪を終えて自宅に戻り、テレビを見ながら過ごしていると、電話が鳴った。知らない番号だった。
「もしもし」
「突然のお電話申し訳ありません。警察の者ですが」
その一言で、なぜか胸のあたりがざわついた。何かの詐欺か、間違い電話だろうと思おうとした。
「奥様がお持ちの携帯電話に登録されていた緊急連絡先が、こちらの番号になっておりまして――」
「奥様とお嬢さんについて、確認したいことがあります。今からお越しいただけますか」
声の調子が、何かを予感させた。私はまだ、それが何なのか分からないまま、車のキーを掴んで家を飛び出した。
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病院の廊下は妙に静かだった。警察官が二人、私を待っていた。何かを説明されている。声は聞こえているのに、内容が頭に入ってこない。
「奥様が――」
「娘も、ですか」
自分の声が、自分のものではないように聞こえた。
やがて、遺体の確認をすることになった。私はその部屋に入る前、まだどこかで、何かの間違いであってほしいと思っていた。
白い布がめくられる。妻の指にあった指輪。見慣れたその輝きを見た瞬間、頭の中で何かが崩れていく音がした。
「……これ、妻のです」
声が震えていた。
娘の番になった時、私は靴に目をやった。小さな、白いスニーカー。
「……この靴、先週買ったばかりなんです」
あまりにも日常的なその記憶が、逆に現実感を奪っていく。私が見ているのは、妻でも、娘でもない。妻だったもの。娘だったもの。そのはずなのに、頭のどこかが、それを受け入れることを拒んでいた。
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別室で、警察官から事件の詳細を聞かされた。
妻と娘は、買い物の帰り道だった。複数人から襲われ、絶命したという。テレビのニュースでしか聞くことのなかったような暴力的な単語を直接耳にして、私は何も考えられなくなった。
近隣では、同様の手口による事件が複数発生しているという。同一グループによる犯行の可能性がある、と警察官は言った。
「犯人逮捕に向け、全力で捜査いたします」
私は、何も答えられなかった。ただ、頷くことしかできなかった。
怒りというより、これは現実なのだろうか、という感覚のほうが強かった。自分の身に起きていることが、まだどこか遠くの出来事のように感じられていた。
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深夜、家に帰った。玄関の靴は、朝出て行った時のままだった。娘の小さな靴が、そこに並んでいる。
リビングには、妻が畳もうとしていたであろう洗濯物が、そのまま籠に入っていた。娘のおもちゃが床に転がっている。妻のバッグが、いつもの場所に置かれている。
朝までここにあったものが、何も変わらずにそこにある。それなのに、その持ち主たちだけが、もういない。
二人のことを考え始めると立っていることもできなくなり、私はソファに座り込んだ。
「どうして……」
どうして、あの二人が死ななければならなかったのか。
私にとっては、唯一無二の大切な二人だった。
けれど、もういない。
まだ、現実として整理できていない。それでも、二人の遺体を確認した記憶があり、今現在、この家には私しかいない。
もう、二人はいない。
気がつくと、涙が止まらなくなっていた。
何度も、何度も、玄関で見送った時のことを思い出す。
妻と娘を二人だけで行かせたこと。自分は散髪に行ったこと。玄関で振り返り、大きく手を振った娘。「お菓子買ってくるね!」という声。妻の「じゃあ行ってくるね」。そして自分の、「うん。気をつけて」という、あまりにも軽い言葉。
散髪なんて、後にすればよかった。
私が一緒に行けば、こんなことには。
私が、守らなければならなかったのに。
この日は結局、眠ることができなかった。
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数日が経った。二人の葬儀を終えて親戚が帰ってから、私はまた一人になった。
仕事をする気分になったら来なさいと言ってくれた上司の言葉に甘えて仕事は長期休みとなった。生活を立て直そうと思ってはいるが、なにをしていても二人の顔が浮かび、涙が溢れた。
居ても立っても居られず、毎日警察に足を運んで、犯人についての話を聞きに行った。だが、警察は一向に詳しい情報を教えてくれなかった。
私は苛立ちを募らせ、自分でも事件について調べ始めた。報道を漁り、近所を周り、目撃者を探す。しかし、断片的な情報しか出てこない。
そんな折、知人を通じて、裏社会に通じる人間から情報を得られるという話を聞いた。まっとうな道ではないことは分かっていた。それでも、妻と娘の顔が頭に浮かぶと、私は迷わず金を払っていた。
やがて、犯人の情報が届いた。写真。名前。過去の犯罪歴。いわゆる、「クマ」と呼ばれる者の仕業だった。近隣でも同じクマによる事件が、他にも複数起きていることも分かった。さらに、クマを巡る社会的、政治的な事情から、捜査や対応が思うように進まない現実があることも聞かされた。
「こいつらが、殺した」
そして、こうも思った。
私にとっては、自分の命よりも大切だった二人。それなのに、こいつらにとっては、たまたま目に入っただけの獲物でしかなかった。
「自分が 命より大切に思っているものでも
他人は 容易く踏みつけにできるのだ」
いつか読んだ大衆漫画の台詞が頭に浮かぶ。
警察に任せれば、いずれ裁かれるのかもしれない。
しかし、
「本当に、それで二人は報われるんだろうか」
その問いに、私は答えを出していた。
「私が、やるしかない」
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そこから先は、無我夢中だった。以前の自分なら決して踏み込まなかったような場所にも足を運んだ。危険なことにも手を染めた。それでも構わなかった。
「もう、これ以上失うものなんてない」
そう自分に言い聞かせながら、私は動いていた。
苦労の末、犯人の一人を見つけ出すことができた。そして――私はその男を殺した。
すべてをやり終えた時、全身が震えていた。恐怖。罪悪感。そして、自分でも説明のつかない興奮。それらがぐちゃぐちゃに混ざり合った中で、胸の奥にずっと張りついていた何かが、ほんの少しだけ緩んだのを感じた。
妻は帰ってこない。娘の声も、もう二度と聞けない。何も、元には戻らない。
それでも――
これで少しだけ、二人に顔向けできる気がした。
この先何年後かに私が命を落としたとして、二人と同じ場所に行くことは、もうできないだろう。
ただ、ほんの少しだけ報われた気がした。それだけだった。
今は、それだけでも満足だった。
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家に帰り着いた頃には、体も心も疲れ果てていた。ソファに崩れるように腰を下ろす。
テレビをつけた。もしかしたら、自分が起こしたことが報道されているかもしれない。そんな考えが、頭のどこかにあった。
しかし画面に映っていたのは、若い女性が被害者になっている別の強盗殺人事件だった。
「現場付近では、複数のクマの目撃情報が寄せられており、事件との関連性を調べています。」
アナウンサーが淡々とした口調でニュースを読み上げる。
「……またか」
私はため息をつく。
仇を殺した。それでも、何かが終わったという感覚はなかった。
ただ、ひとつの違和感だけが、静かに胸の中に残っていた。
一人殺しても、何も終わらない。
その意味を、この時の私はまだ、正確には理解していなかった。




