第1話 おれ様はフェレットではない
逃亡神。
聞き間違いにできるなら、そうしたかった。
でもその言葉は、テレビも点いていない夜のリビングに、一音も欠けずに届いていた。逃亡。神。どちらも知っている言葉のはずなのに、二つ繋げて女神さまへ向けられた途端、頭の中で像を結ばなくなる。
俺は窓の外の白い獣と、背後にいる女神さまを交互に見た。
「逃亡神って……女神さまのことですか」
「ほかに誰がいるのよ」
声は落ち着いていた。――声だけは。
紫色の瞳は窓の外へ据えられたまま、瞬きも少ない。ほどいた銀髪は肩から真っ直ぐ落ちて、揺れひとつしない。ついさっきまでソファに沈んで、「疲れていないわ」と言い張りながら口数を減らしていた人が、今は背筋一本で立っている。
あの買い物疲れは、どこへ消えたんだ。
白い獣が、手すりの上で長い尾を揺らした。
「思ったより早かったわね」
「お前が境界へ残した痕跡を、誰が追っていると思っている。まずはその窓を開けろ」
「嫌よ」
即答だった。
「話すことなどないわ。帰りなさい」
「帰れと言われて帰る境界神使がいるものか! さっさと開けろ!」
白い獣が前足で手すりを踏み鳴らす。ガラス越しでも分かるくらい苛立っている。見た目は完全に小動物なのに、態度だけは女神さまと互角だった。
「無視すればいいわ、ハル」
「そう言われても」
俺はカーテンレールの上のあたりへ目をやった。この声、廊下や隣の部屋まで通っていないだろうか。八階のバルコニーで白い動物が怒鳴っている場面なんて、住人の誰かに見られたら説明のしようがない。
……いや、動物の声がガラスを素通りしている時点で、普通の説明は最初から諦めるべきなのかもしれないけど。
「八階のバルコニーに置いたままにはできませんよ。目立ちます」
「私が置いたのではないわ。勝手に来たのよ」
「どちらでも同じです」
俺が窓へ近づくと、白い獣の淡い金色の目が、今度は俺へ向いた。
近くで見ても、やはりフェレットに似ている。真っ白な毛、小さな丸い耳、長い尾。耳と尾の先だけ、ごく薄い水色を帯びていた。ペットショップのガラスケースにいたら、真っ先に売れていくやつだと思う。
ただ、目が合った瞬間、その感想は取り下げた。
値踏みされている。俺が。この小動物に。
「不用意に入れない方がいいわ」
「女神さまの知り合いなんですよね」
「知っていることと、家へ招き入れたいことは別でしょう」
「ここは俺の家です」
そう言って窓の鍵へ手をかける。視界の端で、女神さまが片手を上げかけて――俺へ触れる前に、下ろした。
止めたいなら止めればいいのに、とは思った。思ったが、口には出さない。あの一瞬の迷いの意味を考え始めたら、開けていい窓まで開けられなくなりそうだった。
「何かするつもりなら、すぐ閉めますからね」
「人間ごときに許可をもらう必要はない」
「その言い方をされると閉めたくなるんですけど」
窓を細く開けた途端、冷たい夜気が流れ込んだ。カーテンと女神さまの銀髪が揺れる。四月の夜は、まだ冬の名残を混ぜてくる。
白い獣は後ろ足へ力を溜め、手すりを蹴った。俺は反射的に一歩下がる。
白い身体は俺へぶつかることなく、リビングの床へ音もなく着地した。長い尾が遅れて床を払い、外見から想像していたよりずっと軽い音だけが残る。
白い獣は室内をゆっくりと見回すと、最初からこの場を取り仕切る係だったような顔で胸を張った。
「改めて告げる。おれ様は境界院に属する高位精霊だ。境界神使として、エルミナ様の裂界降臨を追跡してきた」
知らない言葉が三つくらい続いた。
「こうい……何ですか?」
「高位精霊だ。耳まで下等なのか、人間は」
「聞こえなかったんじゃなくて、意味が分からないんです」
「神ではなく、霊核を持つ精霊よ。その中でも格の高い存在ということね」
女神さまが横から答えて、それから白い毛並みへ視線を落とした。
「ただの毛玉より、少し上と思えばいいわ」
「誰が毛玉だ!」
白い毛が一斉に逆立った。威嚇のつもりなんだろうが、体積が増えた分、さっきより丸くなった。怖さより先に、ちょっと触ってみたくなる。だめだ。たぶん今それを言ったら戦争になる。
「境界神使というのは?」
「神界と人間界の境界を管理する、境界院の神使よ。神使は種族ではなく、機関に仕える役職ね」
「その程度の説明で分かったつもりになるな。境界の揺らぎを見つけ、概念路をたどり、無許可降臨者の痕跡を――」
「長いわ」
「お前が省略しすぎなのだ!」
怒鳴り返した白い獣が、前足で床を掻いた。
俺の家のリビングで、女神と高位精霊が言い争っている。
昨日までここは、俺一人の空間だった。今朝から女神さまの物が増えて、夕方には一人分の居場所ができて、それだけでも今後の予定が全部白紙になったのに、日付が変わる前に、今度は神界の役人まで上がり込んできた。
……処理が追いつかない。俺の予定表のどこに「精霊来訪」の欄を作ればいいんだ。
考えるのをやめたくなる。やめたところで、床の上の白い獣が消えてくれるわけでもないのだけど。
「名前は?」
俺が尋ねると、白い獣はようやく女神さまから顔を逸らした。
「ある」
「なら、何て呼べばいいんだ」
「人間の発声器官で、おれ様の名を正確に表せると思うな。精霊名は、ただの音ではない」
白い獣が口を開く。
高く短い音が聞こえた――そう思った直後、同じ音が背後からも響いた。遠くへ離れていく気配と、額の内側へ触れるような震えまで、同時に重なる。
音というより、「この白い獣が、今、ここにいる」という位置そのものを、頭へ直接押し込まれたようだった。
思わず、額へ手をやる。何かが残っている感触はないのに、まだ奥の方が少し痺れている気がした。
「……今のが名前?」
「音、方向、距離、境界座標、霊核の波長。それらを一つにしたものだ」
「もう一度聞いても言える気がしないな」
「当然だ。人間の言葉へ置き換えられるほど単純ではない」
白い獣は得意げに顎を上げる。呼べない名前を誇られても、こっちは困るだけなんだが。
「じゃあ、何て呼べばいいんだ?」
「フカでいいわ」
女神さまが、間を置かずに答えた。
白い獣の耳が、ぴくりと動く。
「よくない!」
「呼びやすいでしょう」
「高位精霊たるおれ様を、毛触りだけで名づけるな!」
「いや、俺もどういう由来なのか分からないんだけど」
「ふかふかしているでしょう」
女神さまは真っ白な毛並みを指した。
あまりにも、そのままだった。高位精霊へつける名前としては、さすがに雑すぎる。
それなのに――怒ってさらに膨らんだ白い毛を見下ろすと、悔しいことに、妙にしっくりきてしまった。口元がゆるみかけて、慌てて力を入れる。
「本当にそれだけですか」
「十分ではないの?」
「十分なものか! おれ様の霊核も功績も、何一つ表していないではないか!」
「でも、俺にはさっきの名前を発音できないしな」
「だからといって、勝手に定着させるな!」
本人には悪いが、俺の中でも、もうほかの候補は一つも浮かばなかった。むしろ聞けば聞くほどフカ以外に思えなくなっていく。名前とは恐ろしいものだ。
フカが、俺へ小さな牙を見せる。
「それに、おれ様はフェレットではない!」
「俺はまだ、フェレットとは言ってないぞ」
「顔に書いてある!」
高位精霊は、人間の表情も読めるらしい。俺が黙ると、フカは荒く息を吐き、逆立っていた毛をゆっくり元へ戻した。
「呼称については後で訂正させる。今は任務が先だ」
「後も何も、フカで決まりよ」
「決めるな!」
やり取りだけを聞いていれば、面倒な来客が一人増えただけ――で済んだのかもしれない。
けれど、フカが女神さまへ向き直った途端、リビングの空気が変わった。細く開いたままの窓から夜気が入り続けているせいだけでは、たぶんない。淡い金色の目が、すっと細くなる。
「エルミナ様。おれ様にお前を裁く権限はない。力ずくで連れ戻すために来たわけでもない」
「なら、用は済んだでしょう」
「済んでいない。おれ様の任務は、お前が裂界降臨した痕跡を追い、位置を確定すること。これ以上の境界損傷を防ぎ、正規の回収担当へ座標と状況を送り、到着まで監視することだ」
少なくとも、女神さまを捕まえるためだけに単独で押しかけてきたわけではないらしい。
「つまり、女神さまを見つけて、正式な担当へ連絡する役か」
「その理解で構わん」
「回収担当というのは、女神さまを神界へ連れ戻す人なのか?」
「最終的な帰還判断を行う正式な監察官だ。少なくとも、事情も知らず逃亡神を家へ置く人間より、正当な手順を踏む」
腹の立つ言い方だった。
なのに、言い返す言葉が、すぐには出てこなかった。
俺が知っているのは、女神さまが神界から来て、すぐには帰れないと言っていることくらいだ。なぜ逃げてきたのか。誰から逃げているのか。いつまでここにいるつもりなのか。どれも知らない。
知らないままの方が、余計な問題へ関わらずに済む。女神さまも話すつもりがない。それなら、こちらから踏み込む理由もない。
昨日から、そう考えてきた。我ながら合理的な判断だと思っていた。
その結果に付いた名前が、「事情も知らず逃亡神を家へ置く人間」だ。
……間違ってはいない。ひとつも間違っていない。だから余計に腹が立つ。
「監察官が来るまで、三つ要求する」
フカは尾を床へ伸ばし、一つずつ言い渡した。
「第一に、これ以上、無許可で境界へ干渉しないこと」
「する必要がないわ」
「第二に、この人間へ神界の情報を不用意に漏らさないこと」
「聞かれたことにも、ほとんど答えていないでしょう」
女神さまが俺を一瞥する。
そこは自信を持って言うところではない。
「第三に、正式な監察官が到着するまで、この場所から移動しないこと」
「断るわ」
三つ目だけは、最後まで聞く前から答えが決まっていたようだった。
「私がどこへ行くかは、私が決める。境界院へ指図される理由はないわ」
「理由ならある。お前の裂界降臨で、界縁帯の一部が傷ついた」
「……傷ついた?」
思わず聞き返したのは、俺の方だった。
昨日、女神さまは俺の部屋の空中へ亀裂を開いて現れた。驚かされたことは山ほど覚えているのに、あれが「何かを壊した痕」だという発想は、今の今までなかった。
「界縁帯は、神界と人間界の境界に沿う領域だ。正式な界門を使わず、神力で無理に裂け目を作れば境界が損傷する」
「人間界に、何か影響はあるのか」
「今すぐこの建物が崩れるような損傷ではない。だが、放置すれば別の境界異常を招く可能性がある。確認も修復も、境界院の仕事だ」
フカは女神さまを追ってきた。けれど、それだけではないらしい。傷ついた場所を確かめ、これ以上広げず、報告する。偉そうな態度はともかく、言っていることには筋が通っていた。
「それに、大神格一柱が無許可で人間界へ居座れば、境界院が放置できるはずがない」
「大神格っていうのは?」
「また説明が必要なのか」
「人間は神界のことを知らないんだ」
「神々の中でも、普遍的な概念を司る特に高い格だ。エルミナ様の司る美は、神界だけでなく、人間界を含む広い世界へ影響する」
俺は女神さまを見た。
美と価値と調和を司る、とは本人から聞いていた。ただ、「女神」と名乗られた時点で俺の現実の物差しは振り切れていたから、神々の中での序列なんて考えたこともなかった。夕方まで服のたたみ方を練習していた人が、世界へ影響する格の持ち主。情報として並べても、まだうまく重ならない。
「女神さまって、そんなに偉いんですか」
「今さら何を言っているの?」
「自分で偉いと言う人は、あまり信用できないので」
「あなたの中で、私はどういう扱いになっているの」
「家事のできない同居人です」
「事実を並べて傷つけてくるのはやめなさい」
紫色の目が細くなる。
「ハル。あなたはもう少し、私へ敬意を持つべきではないの?」
「高い格を持つ神を、昨日から女神さまと呼んでいたんです。十分だと思います」
「話を逸らすな!」
フカの声が割り込んだ。
白い毛が、またわずかに膨らんでいる。
「エルミナ様。今なら自主帰還として処理できる。正式な監察官が来る前に戻れ」
「私は神界へ戻らないわ」
短い声だった。
冷たい、とは少し違う。突き放すのでもない。ただ、何も入り込む余地がなかった。
冷蔵庫の作動音が、やけに大きく聞こえる。
フカもすぐには言葉を返さなかった。女神さまはいつもと同じに背筋を伸ばし、顎を引き、堂々と立っている。
――それなのに。
下ろした手の指先だけが、淡い色の部屋着を強くつかんでいた。今日買ったばかりの、まだ折り目の残る布へ、皺を刻むほどに。
「お前一柱の意思で決められる問題ではない!」
「私がどこにいるかを、私以外の誰が決めるというの」
「これは神界の秩序と、二つの世界の境界に関わる。お前が嫌だと言えば済む問題ではないのだ」
「私にとっては、それで十分よ」
昨日この家へ現れた時、女神さまは、力を消耗してすぐには神界へ戻れないと言った。それが今は、戻らない、になっている。響きはほとんど同じなのに、まるで別の言葉だった。戻れないなら、いつかは戻る。戻らないは――戻れるようになっても、戻らない。
「どうして、そこまで戻りたくないんですか」
気づいたら、口から出ていた。
女神さまの目がこちらへ動く。紫色の奥で何かが揺れた――ように見えたのは一瞬で、すぐに冷たい光が上から蓋をした。
「あなたが知る必要はないわ」
「でも、ここにいるなら――」
「ハル」
強く名前を呼ばれて、続きが喉の奥で止まった。
「これは神界の問題よ。あなたが踏み込むことではないわ」
それ以上は聞くな、という声だった。
……分かっている。そういうのは、本来なら俺の得意分野のはずだ。
人が話したくないことへ踏み込まない。聞かなければ、余計な期待もしない。知らなければ、知った分の責任を背負わずに済む。相手のためでもあり、自分のためでもある。俺はずっと、そうやってきた。
だから、問い続ける言葉は持っていなかった。
ただ――今朝までの横暴な命令とはまるで手触りの違う拒絶だけが、胸の奥に小さな棘のように残った。
「話し合う余地はないようだな」
フカが低い声で言った。
小さな頭が持ち上がる。
「ならば、おれ様は任務を果たす」
額の銀青色の紋様が光った。
青白い輝きが線をなぞり、淡かった模様を鮮明に浮かび上がらせていく。淡い金色の瞳にも、同心円状の光が重なった。
「何をするんだ?」
「境界院へ状況を送る。対象の位置、降臨座標、現地の安全状況。それと、人間一名との接触だ」
「俺のことまで?」
「逃亡神と接触した現地人間だ。当然だろう」
当然、で片づけられた。神界の記録のどこかに、俺の存在が一行載るらしい。目立たないことを人生の柱にしてきた俺の名前が、よりによって人間界の外で。
抗議する暇はなかった。
フカの正面で、空気が細く割れた。
女神さまが現れた時のような大きな亀裂ではない。針の先で空間へ傷をつけたような、髪の毛ほどの細い線。それでも、その向こうがリビングの続きでないことだけは分かる。
暗い裂け目の奥で、遠い星に似た光が瞬いた。
布の擦れる音がした。女神さまの手が、部屋着を離した音だった。紫色の目は見開かれている。
「やめなさい」
「断る。これはおれ様の任務だ」
「私の居場所を知らせることは許さないわ」
「許可を求めてはいない」
フカの額から、細い光が亀裂へ伸びる。女神さまが片手を上げた。
今度は、途中で下ろさなかった。
「女神さま?」
呼びかけても、こちらを見ない。
指先は、まっすぐフカの額へ向けられている。フカの小さな耳が伏せられた。
「貴様――」
白い身体が床を蹴った。細く開いたままの窓へ、一直線に跳ぶ。
けれど、バルコニーへは届かなかった。
窓の手前、宙の一点で、フカの身体が止まっている。見えない手につかまれたように。
前足も後ろ足も空を掻き、長い尾が激しく振られた。
「離せ、エルミナ!」
「連絡をやめなさい」
「断る!」
額の紋様がさらに強く輝き、細い亀裂がわずかに幅を広げた。女神さまの指先へ、銀紫色の光が集まっていく。
何が起きているのか、俺には分からない。
分かるのは、二つだけだ。
フカは、逃げようとしている。
女神さまは、それを力ずくで止めている。
何か言え、と頭のどこかが言った。言うべきだ。でも、何を? やめてください? どっちに? 喉が乾いて、足は床に張りついたまま、一歩も動かなかった。
「なら、しばらく黙っていてもらうわ」
銀紫色の光が、一本の糸となって伸びた。
「貴様、何を――!」
光がフカの額の紋様へ触れる。
白い身体の奥へ、ゆっくり沈んでいく。
悲鳴はなかった。
音さえ、なかった。
空中の亀裂が、静かに閉じた。




