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第8話 この家で暮らすということ

 マンションに戻って玄関の鍵を開けた時には、すっかり日が傾いていた。


 両手を塞いでいた袋を、床に下ろす。


「重かった……」


 紙袋の持ち手から指を抜くと、皮膚にくっきり赤い跡が残っていた。曲げ伸ばしするだけで、じんと痛む。


 この荷物を全部抱えて、人目の多い場所を一日歩き回ったのだ。注目も買い物も、向こう一年分は摂取した。


 早く、いつもの家に戻りたい。


 そう思って帰ってきたはずなのに――玄関は、色も大きさも違う袋で埋まりかけていた。


 いつもの家が、見当たらない。


 女神さまは新しい靴を脱いで揃えると、自分の袋を置き、当然のようにリビングへ向かおうとした。


「どこへ行くんですか」


「休むのよ。一日中歩いたのだから当然でしょう」


「その前に片づけます」


 女神さまが振り返り、玄関の荷物に目をやる。


「買ってきたのだから、もうよいでしょう」


「よくありません。ここに置いたままだと邪魔です」


「あとであなたが運べばいいではないの」


「女神さまの物ですよ」


「だから?」


 本気で分からない、という顔をされた。


 神界でどんな暮らしをしていたのかは知らない。少なくとも、自分の買い物袋を自分で運び、収納場所を考える生活ではなかったらしい。


 俺は腕の疲れを無視して、袋をいくつか持ち直した。


「女神さまも持ってください」


「私に命令しているの?」


「共同作業をお願いしています」


「言い換えただけではないの?」


「共同生活には必要な言い換えなんです」


 今度は、すぐに返事がなかった。


 女神さまは俺と荷物を見比べて、不満そうに残りの袋を持ち上げる。


「今回だけよ」


「次からもです」


 返事を待たず、俺は元両親の寝室――今や女神さまの部屋へ向かった。


 昨日まで何もなかった床に、買ってきた物を順番に並べていく。


 私服。部屋着。パジャマ。上着。靴下。下着。タオル。洗面用品。長い銀髪のためのブラシに、シャンプーとトリートメント。


 一つずつなら、ただの日用品だ。


 なのに全部まとめて床に広げると、「一人分の生活」というものが、そのまま形になって置かれているように見えた。


「服は種類ごとに分けてください」


「あなたがやればいいでしょう」


「今後も暮らすなら、自分のことは自分でできるようになってください」


「私に家事をしろというの?」


「自分の服をしまうだけです。家事と呼べる規模でもありません」


「神界では、そのようなことを私自身がする必要はなかったわ」


「ここは人間界です」


 女神さまが紫色の瞳を細める。


 俺は、目を逸らさなかった。


 料理や洗濯まで今すぐ全部やれ、なんて言う気はない。経験がないなら教えればいい。


 でも、「できない」と「しない」は別物だ。


 ここで俺が引き受けたら、この人は明日からも当然の顔で俺を呼ぶ。……いや、現時点で十分呼ばれている。これ以上、呼び出しの品目を増やすわけにはいかない。


「……分かったわ。どうすればいいの?」


 先に折れたのは、女神さまだった。


「外で着る物は、掛ける物とたたむ物に分けます。部屋着とパジャマはこっちの引き出し。靴下はその下です」


「なぜ分ける必要があるの?」


「必要な時に探さなくて済むからです」


「どこに置いたか覚えておけばよいでしょう」


「何枚あると思ってるんですか」


 見本として、一着たたんでみせる。


 女神さまは俺の手元をじっと観察してから、別の服を取った。慎重に布を広げ、袖を重ねる。


 最初の一枚は、端が少しずれていた。


「違う?」


「少しだけ。ここを合わせれば――」


 直そうと手を伸ばした瞬間、服ごと、すっと引かれた。


「自分でやるわ」


 一度広げて、俺の示した順番を確かめながら、たたみ直す。


 今度は、綺麗な四角に収まった。


 女神さまは完成品を俺の前に置き、わずかに顎を上げる。


「できたわ」


「はい」


「もっと感心してもよいのよ?」


「服を一枚たたんだだけです」


「神界で一度も必要のなかったことを、初めて行ったのよ」


「じゃあ、その記念すべき調子で残りもお願いします」


 紫色の瞳が不満そうに俺を見た。


 見たが、やめるとは言わなかった。


 二枚目からは、手つきが目に見えて整っていく。生活経験が皆無なだけで、物覚え自体は恐ろしくいいらしい。ちょっと悔しいくらいだった。


 たたみ終えた物を、二人で引き出しに収める。掛ける服は間隔を空けて並べ、洗面用品とヘアケア用品は、女神さま自身の手で洗面所の空いた棚に置かせた。


「そこは俺の物です。女神さまの分はこっち」


「同じ場所に置けばよいでしょう」


「使う時に間違えます」


「私は間違えないわ」


「俺が間違えるんです」


 昨日までの俺は、洗面所の棚も、引き出しも、クローゼットも、どこに何があるか全部頭に入っていた。


 一人暮らしには、それが一番楽だった。誰かが勝手に動かすこともない。誰かに説明する必要もない。


 その完全に把握していた地図が、空いていた場所に女神さまの物を入れるたび、一マスずつ書き換わっていく。


 しかも――書き換えているのは、俺自身の手だ。



 収納をすべて終えたところで、女神さまが自分の服を見下ろした。


「では、これに着替えるわ」


 買ったばかりの部屋着を手に取る。


「俺は外にいますから、終わったら呼んでください」


「言われなくても分かっているわ」


 女神さまは俺を廊下へ押し出すように扉を閉めた。


 昨日の一件は、少なくとも「人間界で守る決まり」としては、きちんと登録されたらしい。


 しばらくして、内側から声がした。


「ハル、入っていいわ」


 扉を開けると、女神さまは飾り気の少ない淡い色の部屋着に替わっていた。低くまとめていた銀髪もほどかれ、真っ直ぐな髪が腰の近くまで流れている。


 女神というより、家でくつろぐ同年代の女の子に見えた。


 「普通の」と付けるには、顔が整いすぎているけれど。


「悪くないわね。動きやすいわ」


 女神さまは袖口を確かめ、満足そうに頷いた。


「気に入ったならよかったです」


「ただ、もう少し装飾があってもよかったのではない?」


「部屋で着る服に必要ありません」


「美への配慮は、場所を選ぶものではないわ」


「洗濯する側への配慮もしてください」



 部屋の隅に、買い物袋が一つ残っていた。


 中身は、母さんから借りた服と靴だ。


 洗濯表示を確かめ、服を洗面所へ運ぶ。靴は素材を傷めないよう表面の汚れを落とし、形を整えた。


 母さんが使っていた物に触れていると、遠く離れた両親のことを、嫌でも思い出す。


 連絡は頻繁に来る。俺も欠かさず返している。


 それなのに、昨日からのことは、何一つ伝えていない。


 知らない少女を泊めた。母さんの服と靴を貸した。その少女と、当分一緒に暮らすことになりそうだ。


 ……どこから説明しても、その先で必ず詰まる。


 「神界から降りてきた女神さまです」で信じてもらえるはずがない。かといって「事情の分からない女の子と同居してます」では、心配の種を国際便で送りつけるだけだ。


 この「説明できない」という状態が、俺は嫌いだ。


 何が起きていて、次に何をすればいいのか。分からないなら調べて、順番に片づける。そうやって余計な問題を増やさずに生きてきた。


 なのに今回は、片づけるための前提から、何ひとつ分からない。


 女神さまの身分は、どうする。


 今日溶けた金は、どう補う。


 月曜、俺が学校に行っている間、この家で一人にして大丈夫なのか。


 そもそも女神さまは、学校とかどうなるんだ。


 人間界に、頼れる大人はいるのか。


 考えるほど、リストが伸びていく。


「ハル」


 いつの間にか、女神さまが洗面所の入口に立っていた。


「どうしたの、その顔は」


「これからのことを考えてたんです」


「これから?」


「女神さまがここで暮らすのに必要なことです。身分とか、お金とか、学校とか、両親への説明とか」


「そのうち何とかなるでしょう」


「何とかするのは、たぶん俺なんですけどね」


「あなたならできるわ」


 迷いゼロ秒の断言だった。


「ずいぶん簡単に言いますね」


「今日一日で、私に必要な物をすべて揃えたでしょう。あなたはそういうことが得意なのよ」


 褒められているのか、今後の労働を予約されているのか。


 たぶん、両方だ。


「頼りにしているわ、ハル」


 女神さまはそれだけ言って、新しい部屋着の裾を揺らして戻っていった。


 俺は洗濯機の前で、一人ため息をつく。


 頼りにされたい、なんて一度も言った覚えはない。


 ……ないのに、無理だとも言えなかった。


     ◇


 夕食を挟み、残った片づけを終える頃には、窓の外は暗くなっていた。


 洗濯して乾いた母さんの服を、元のクローゼットへ戻す。手入れした靴も、玄関収納の元の位置へ。


 これで、借りた物は全部返した。


 家の中から、昨日の異常がひとつ消えた。


 ――はずだった。


 女神さまの部屋の前を通りかかり、閉め忘れられたクローゼットの扉に手をかける。


 今朝まで空だった場所に、白いブラウス。水色のカーディガン。淡い色のスカート。引き出しには部屋着とパジャマ。棚には、女神さまのために買った小物。


 母さんの服は、元の場所に戻った。


 代わりにここへ並んだのは、返す相手のいない服だ。


 この家で、女神さまが着るためだけに買った物。


 俺が選んで、俺が代金を払って、俺が場所を決めた。


 借り物を着ている間は、まだ「一時的な出来事」だと思えた。突然日常に落ちてきた異物。一晩経てば事情が変わるかもしれない。昨日の俺は、その可能性をどこかに残していた。


 でも、このクローゼットの中身は、もう帰り道を持っていない。


 明日の朝も、女神さまはここにいる。


 俺が食事を作れば、同じテーブルで食べる。


 風呂と洗濯機を使い、ここに服をしまう。


 一人分でぴったり完成していた俺の生活の中に――女神さまの場所が、できている。


 高飛車で、世間知らずで、命令ばかりする。生活能力は皆無で、とてつもなく目立ち、放っておけば次に何をしでかすか分からない。


 俺が守ってきた平穏と、これ以上ないくらい相性の悪い存在だ。


 嬉しいのかと聞かれれば、違う。


 でも、嫌なのかと聞かれても――今すぐ全部を元に戻したいとは、思えなかった。


 神界に帰れず、人間界に頼れる相手もいない。


 理由を聞くつもりはない。他人の事情に深入りして、ろくなことになった覚えもない。


 ただ、行く場所のない相手を追い出せない。それだけだ。


「何をしているの?」


 振り返ると、女神さまが部屋の入口に立っていた。


「……本当に住むんだなと思って」


「最初からそう言っているでしょう」


「俺はまだ、今日だけのつもりだったんですけどね」


 女神さまはクローゼットに目を向けた。


 自分の服が並んでいる光景を、当然のように受け止めている。


「今さら追い出すつもり?」


 強い口調だった。


 けれど、そのあとが続かない。


 紫色の瞳だけが、俺の答えを待っている。


 ――ずっと置いてやる、と約束できるほど、俺はこの人を知らない。


 明日には、今日よりもっと面倒なことが起きるかもしれない。むしろ起きる気しかしない。


 それでも、今夜ここから出ていけと言うつもりは、なかった。


「少なくとも、行く場所が決まるまでは」


 女神さまは、ほんの少し唇を引き結んだ。


 条件付きなのが気に入らないらしい。


 それからクローゼットへ視線を戻して――張っていた肩から、わずかに力を抜いた。


「なら、明日の朝食も任せるわ」


「そこは自分で覚える気ないんですね」


「適材適所よ。私はあなたより美しく食べることができるわ」


「何の役にも立たない担当ですね」


 女神さまは不満そうに俺を見たあと、自分の手でクローゼットの扉を閉めた。


 その音が、妙にしっくりと、家の中に収まった。


     ◇


 夕食後の片づけを済ませ、俺たちは早めに休むことにした。


 一日歩き回ったせいで、足も腕も重い。女神さまは「疲れていないわ」と言い張ったが、ソファに座ってからの口数は、いつもより明らかに少なかった。


 リビングの照明を落とす前に、カーテンを閉めようと窓に近づく。


 その時だった。


 かすかな音が、バルコニーから聞こえた。


 硬い何かが、手すりに触れたような小さな音。


 鳥か。


 そう思って窓の外に目を凝らして、すぐに考え直した。


 ――ここは、八階だ。


 手すりの上に、白い影が立っていた。


「……何だ、あれ」


 見た目は、フェレットに近い。


 真っ白な毛に包まれた、少し丸みのある小動物。小さな耳と、長くふさふさした尾の先だけが、ごく薄い水色を帯びている。


 淡い金色の瞳は、窓の前の俺ではなく――その後ろを、まっすぐ見据えていた。


 額には、自然の模様ではあり得ない、銀青色の紋様。


 背後で、ソファの布が擦れる音がした。


 女神さまが、立ち上がっている。


 さっきまでの疲れの気配は消えていた。紫色の瞳が、今まで一度も見たことのない鋭さで細められている。


 その横顔を見た瞬間、俺にも分かった。


 あれは、ただの動物じゃない。


 白い獣が、手すりの上で身を起こす。


 女神さまは、何も言わない。


 窓を挟んで、二つの視線だけが正面からぶつかった。


 ガラスは、閉じている。


 それなのに、その声は少しも遮られず、直接室内に響いた。


「ようやく見つけたぞ、逃亡神エルミナ」


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