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第7話 女神さまとショッピングモール

 自動ドアをくぐった途端、女神さまの瞳より先に、周囲の目が動いた。


 すれ違う人が振り返る。店先の店員が、一瞬だけ声を止める。親子連れの子どもに至っては、母親に手を引かれながらも、首だけで女神さまを追い続けていた。


 銀髪は低くまとめた。服は母さんの落ち着いた私服だ。光ってもいないし、女神と名乗ってもいない。


 それでも、隠せないものはどうやっても隠せないらしい。


 当の女神さまは、集まる視線を空気か何かのように受け流して歩き出した。


「人間も、美しいものを見る目はあるようね」


「自分で言いますか」


「事実を口にしただけよ」


 この人にとっては、注目されることまでが日常なんだろう。


 俺は、違う。


 さっきから周囲の目は、女神さまを見たあと、必ず隣の俺に流れてくる。


 誰だ、あれ。


 なんで一緒にいるんだ。


 誰も言っていないのに、視線が勝手にそういう字幕になって読める。


 俺は必要品のメモを開くふりをして、横に並んでいた位置から半歩だけ後ろに下がった。


 案内はする。荷物も持つ。ただ、「連れです」と一目で分かる距離に並び続ける必要まではない。……我ながら、ずいぶんみみっちい計算だと思う。思うが、元の位置に戻る気にはなれなかった。


「まず靴です」


「衣服からではないの?」


「歩きにくいんでしょう。先に替えます」


「歩けないとは言っていないわ」


「歩幅が半分になってます」


「半分は大げさよ」


 否定しながらも、女神さまは靴売場へ向かう俺についてきた。


 店員に、今の靴が借り物で少し窮屈だと説明する。足の大きさを測ってもらい、長く歩いても負担の少ない物を何足か出してもらった。


 女神さまは履き替えるたびに立ち上がり、鏡の前を往復する。


「こちらは形が美しくないわ」


「今日は歩きやすさを優先してください」


「美しさを捨てる理由にはならないでしょう」


「だから、両方そろってる物を探してるんです」


 何度目かの往復の末、飾りが少なく歩きやすい一足で、ようやく意見が一致した。


 会計を済ませ、その場で履き替える。母さんの靴は箱に収めて袋へ。


「さっきよりは歩きやすいですか」


「ええ。悪くないわ」


 女神さまの歩幅が、元に戻った。


 認め方は相変わらず偉そうだが、これで道の途中で立ち往生する心配は消えた。俺の肩の荷も、一つ分だけ軽い。


     ◇


「次は服です」


 案内表示を頼りに、女性向けの衣料品店に入る。


 春物が色ごとに並ぶ店内を前に、女神さまの視線がゆっくりと動いた。


 通販の小さな画面を見ていた時とは、目の真剣さが違う。


「これらは、自由に手に取ってよいのね?」


「傷めなければ」


「当然でしょう」


 白いブラウスを一枚。淡い水色のカーディガンを一枚。さらに何着かを見比べ、縫い目や布の落ち方まで確かめていく。


 画面の中の「似たような布」は、実物になった途端、この人の中で全部別物になったらしい。


「こちらを試すわ」


「先に店員さんへ声をかけてください」


「試着室へ入るのでしょう?」


「そうですけど、店ごとに使い方がありますから」


 言った直後、近くの店員が笑顔で近づいてきた。


「ご試着ですか? こちらで点数を確認いたしますね」


 女神さまは、手元の服と店員を見比べた。


 試着室が何の場所かは知っている。ただ、服を持ち込めば勝手に使っていいわけではない、という一段までは知らなかったようだ。


「では、任せるわ」


「はい。こちらへどうぞ」


 素直に案内される姿だけ見れば、少し世間知らずなだけの綺麗な女の子で通りそうだった。


 今のところは。


 しばらくして、試着室のカーテンが開いた。


 白と淡い水色を重ねた服は、透き通った銀髪とよく馴染んでいた。装飾は少なく、形もすっきりしている。それなのに女神さまが背筋を伸ばして立つだけで、量販店の服が、一点物みたいに見えた。


「とてもお似合いです。モデルさんみたいですね」


 店員の声には、営業用ではない本物の感心が混じっていた。


 女神さまは鏡の中の自分を確かめ、当然のように頷く。


「ええ。私に似合わない衣服を探す方が難しいでしょうね」


「ふふ、お客様、おもしろいですね」


 冗談だと思われた。


 本人は本気だ。


「ほかの服もお試しになりますか?」


「そうね。ハル、選びなさい」


「俺がですか」


「あなたは、必要な衣服の種類を把握しているのでしょう?」


 命令形なのが引っかかるだけで、言っている内容自体は正しい。


 俺は店内を回り、値札を確かめながら服を選んだ。女神さまが好む白や淡い色。洗濯しやすくて、装飾が多すぎない物。今日だけじゃなく、この先も何度も着られる物。


 一組持っていくと、女神さまが眉を上げた。


「ずいぶん簡素ね」


「普段着ですから」


「私が着ても見劣りしないかしら」


「それを心配する必要はないでしょう」


「それは、私なら何を着ても似合うという意味?」


「服に負ける人ではない、という意味です」


 褒めたつもりは、ない。


 ないのだが、女神さまは少しだけ満足そうに、俺の選んだ服を受け取った。


 カーテンが閉まり、開く。


 今度は淡い色のスカートに、飾りの少ない上着。


 店員が女神さまと服を見比べて、それから俺に笑顔を向けた。


「彼氏さん、よく似合う物を選ばれましたね」


「彼氏じゃありません」


 考えるより先に、声が出ていた。


 店員が目を丸くする。


「あ、すみません」


「いえ」


 勘違いを訂正しただけだ。事実の訂正。それだけの、はずなのに。


 鏡越しに、女神さまと目が合った。


 紫色の瞳が、ほんの少し細くなっている。


「……何ですか」


「別に」


 短く答えて、女神さまは鏡へ向き直った。


 恋人と間違われたのが不満なんだろう。最初はそう考えた。でもそれなら、俺が否定した瞬間に不機嫌になる理由が分からない。


 ……分からないものは、分からない。女神さまの機嫌を全部読解しようとする方が無謀だ。


 私服を数組と、部屋着、パジャマ、替えの上着、靴下を選ぶ。


 会計のあと、女神さまはもう一度試着室を借りて、買ったばかりの服に着替えた。母さんの服も袋へしまう。


 色合いは似ている。それでも、借り物から自分で選んだ服になっただけで、女神さまの立ち姿はさっきより自然に見えた。


「これで、母さんの服のまま試着を続けなくて済みます」


「最初から、傷めるつもりはなかったわ」


「分かってます」


 分かっていても、落ち着かなかったのだ。そこはもう、性分だと思ってあきらめてほしい。



 衣料品店を出た時点で、俺の両手には袋がいくつも増えていた。


 なのに、必要品のメモはまだ半分近く残っている。


 洗面用品。長い銀髪のためのヘアブラシ。シャンプーとトリートメント。タオル。洗濯用の小物。


 売場を移るたび、かごの中身が着実に増えていく。


「人間は生活するだけで、これほど多くの道具を必要とするの?」


「女神さまが何も持ってこなかったから、一度に必要なだけです」


「持参する必要があるとは思わなかったのよ」


「せめて服くらいは思ってください」


 女神さまは答えず、棚の瓶を一つ持ち上げた。


 容器に凝った装飾があり、値段も同じくらい凝っている。


「これにするわ」


「戻してください」


「なぜ?」


「高いからです」


「けれど、最も美しく並べられているわ」


「それ、中身より容器にお金を払うことになります」


「中身も優れているかもしれないでしょう」


「毎回買える値段の物にしてください」


 別の商品を示しても、女神さまは高い瓶を手放さない。


「全部そのランクで買ってたら、俺の生活費が消えるんです」


「美の女神の生活を支えるのだから、必要経費でしょう」


「俺は神界から給料をもらってません」


「なら、あとで請求すればいいではないの」


「請求先を教えてください」


 女神さまが、黙った。


 神界に戻れないと言っている本人に、請求書の宛先が分かるはずもない。


 俺は一番安い物ではなく、無理なく買い続けられそうな物を選び直した。


「髪に合わなかったら、次は別のを試しましょう」


「次があるの?」


「生活用品ですから。なくなったら、また買うんです」


 女神さまは俺の手元の商品をしばらく見て、それから、持っていた高い瓶を棚に戻した。


「分かったわ。今回はそれでいいでしょう」


「今回は、ですか」


「合わなければ選び直すのでしょう?」


 人の話を聞いているようで、都合のいい部分だけ正確に拾っていく。


 それでも、力ずくで高い物を通そうとはしなかった。この人なりの譲歩なんだろう。


 会計を重ねるたび、財布の中でレシートが分厚くなっていく。


 今月の生活費だけでは足りない。残りは貯金からだ。頭の中の残高が、音を立てて減っていく。必要な出費だ。出し惜しみはしない。しないが、痛くないとは一言も言っていない。


 俺が暗算に沈んでいると、隣から声がした。


「ハル」


「今度は何ですか」


「空腹を感じるわ」


 時計を見ると、昼をかなり過ぎていた。


 俺たちはいったん買い物を切り上げ、上の階のフードコートへ向かった。


     ◇


 昼の混雑が落ち着いた時間でも、空席は多くない。料理の写真を掲げた店が並び、呼び出し音と食器の音が広い空間に反響していた。


 女神さまは店を一軒ずつ見渡したまま、珍しく動かない。


「多すぎるわね」


「麺、ご飯、パン。まず、その辺から決めてください」


「説明が大ざっぱすぎるわ」


「温かい物か、冷たい物か。肉か魚か、それ以外か」


「見た目が最も整っている物はどれ?」


「味じゃなくて見た目で決めるんですか」


「美は重要な判断基準よ」


 何軒か説明した末に、女神さまは彩りの整った洋食のプレートを選んだ。


 安くはない。だが、さっき高い商品をいくつも諦めさせた手前もある。昼食くらいは好きに選ばせてやりたかった。


 料理を受け取り、空いた席に座る。


 女神さまは周囲の客の食べ方を一度観察してから、同じように一口運んだ。


 紫色の瞳が、わずかに見開かれる。


 すぐに、澄まし顔に戻った。


「どうですか」


「悪くないわ」


 言いながら、二口目。


 「悪くない」で終わる箸の速さではない。


「昨日の俺の料理と比べると?」


 ……聞いてから、気づいた。俺は今、フードコートの洋食と何を張り合っているんだ。


 女神さまは少し考え、皿と俺を見比べた。


「こちらは、見た目も味も整えられているわ」


「そうですか」


「けれど、あなたの作った物とは別の食事よ。比べる必要はないでしょう」


 優劣をつけない答えだった。


 別に、褒められたわけでもない。


 それなのに、思っていたより悪い気がしなかった。むしろ胸の奥が、ほんの少しだけ軽い。……単純か、俺は。


 女神さまはそんなこちらには気づかず、また皿に目を落としている。


 昨日は、必要に迫られて人間の食事を口にしただけだった。


 今日は自分で店を見比べて、自分で選んで、知らない味を確かめている。


 表情にはほとんど出ない。


 出ないが――箸の速さと、瞳の動きだけは、ずっと正直だった。


     ◇


 昼食を終え、残りの買い物も片づける。


 そして最後の目的地の前で、俺の足だけが重力を増した。


 女性用の下着売場。


 入口の時点で、すでに俺の居場所ではない。


「朝に決めたとおりです。女神さまが一人で入って、女性の店員さんに相談する。俺はここで待ちます」


「覚えているわ」


「分からないことは店員さんに聞いてください」


「あなたに聞いてもいいのでしょう?」


「よくありません」


 女神さまは不満そうにしながらも、一人で売場へ入っていった。


 俺は入口から少し離れ、通路の案内表示に身体を向ける。


 これでいい。


 専門家に任せる。俺は外で待つ。朝に立てた、完璧な計画だ。


「身につけたことがないから、私に合う物を選んでちょうだい」


 よく通る声が、店の外まで届いた。


 通路を歩いていた人が、何人か振り返る。


 俺は案内表示を見上げた。


 他人です。


 知らない人です。


「初めてのご購入ですね。普段使いしやすい物をご案内いたします。まず、サイズを確認いたしましょうか」


「任せるわ。私には判断するための知識がないもの」


 店員さんは驚きながらも、きちんと対応してくれているらしい。さすが専門家だ。プロは偉大だ。


 これで俺の役目は終わった。終わったはずだった。


「お好みやご予算もありますが……ご一緒に来られた方へ聞いてみますか?」


 ――嫌な予感がした。


「ハル」


 聞こえない。


 俺は遠くの店の垂れ幕を読んだ。春の新生活応援フェア。今の俺に必要なのは応援より現金だ。


「ハル。こちらへ来なさい」


 声量が上がった。


 通路にいた人たちの視線が、一斉に俺へ集まる。


 逃げたい。心の底から逃げたい。


 だが、予算を握っているのは俺だ。ここで放置して、また「最も美しく並べられている」物を選ばれたら家計が死ぬ。


 俺は観念して、売場に足を踏み入れた。


「呼ぶ時は、もう少し小さい声にしてください」


「最初に呼んだ時、無視したでしょう」


「聞こえなかったんです」


「では、なぜ二度目にはすぐ来たの?」


 ……答えられない。


 俺は足元に目を落とした。床なら安全だ。床は何も売っていない。


 店員さんが俺と女神さまを交互に見て、少し困ったように笑った。


「彼氏さんですか?」


「違います」


 また、考えるより先に即答していた。


 女神さまが、横から俺を見る。


「なぜ毎回、そこまで強く否定するの?」


「違うからです!」


「なら、あなたは私の何なの?」


 答えようとして――止まった。


 昨日会ったばかりの相手だ。


 知人。


 言葉としては簡単だ。簡単すぎて、違う気がした。


 この人は俺の家で寝起きしている。俺はこの人の食事を作って、服と靴を選んで、家の決まりまで一緒に作った。丸一日ぶんの生活が、もう共有されている。


 家族じゃない。


 恋人でもない。


 保護者と言うには、俺も同じ高校生で。


「……同居人です」


 探して、探して、今の関係に届く言葉はそれしかなかった。


 女神さまは、なぜか眉を寄せた。


「そう」


 短い返事だった。


 美の女神とただの人間を、同列の「同居人」で括られたのが気に入らないのかもしれない。


 ……それなら、まあ、この人らしい。


 店員さんはそれ以上追及せず、日常使いしやすく着け心地のいい物を勧めてくれた。


 白や淡い色。装飾の少ない物。必要な数。


 俺は具体的な形状から全力で目を逸らし、値札と個数だけを確認した。


 数字なら見られる。


 数字であってほしい。


 採寸と試着を終えて戻ってきた女神さまは、わずかに肩を動かして着け心地を確かめた。


「思ったより窮屈ね」


「ここで俺に感想を言わないでください」


「あなたが必要だと言ったのでしょう」


「俺は店員さんに任せろと言いました」


 放っておくと、どこがどう窮屈なのかの説明までここで始めてしまいかねない。


 そそくさと会計を済ませ、俺たちはようやく売場を後にした。


     ◇


 モールの出口へ向かう頃には、ガラスの向こうが夕方の色に変わっていた。


 俺の両手には、服、靴、生活用品の袋がずらりと下がっている。指が痛い。女神さまも自分の袋を持っているが、新しい靴の足取りに疲れは見えない。


 袋の中には、母さんから借りた服と靴。


 その隣を歩く女神さまは、もう借り物じゃない、自分で選んだ人間界の服を着ている。


 出口を抜けたところで、女神さまが一度だけモールを振り返った。


「人間の買い物というものも、悪くないわね」


「俺はしばらく行きたくないです」


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