第6話 下着は通販で買えない
「なぜ閉じるの?」
閉じかけた画面の前に、女神さまの白い指が滑り込んだ。
「まだ選んでいないでしょう」
「これは通販で適当に買わない方がよさそうなので」
「ほかの衣服は選んでいたではないの」
「下着は、合わなかった時に困るんです」
「なら、合う物を選べばいいでしょう」
それができるなら、とっくに選んでいる。
「女神さまは、自分のサイズを知ってますか」
「先ほどの衣服と同じではないの?」
「たぶん、違います」
「たぶん?」
「……俺も詳しくないんです」
画面には、商品名と一緒にアルファベットと数字の組み合わせが並んでいる。大きさを表すことくらいは知っている。知っているが、どの数字をどう読めばいいのかは、まったく分からない。
「このカップとアンダーというものは、何が違うの?」
「俺に聞かないでください」
「あなたが開いた画面でしょう」
「必要だから開いただけです」
「必要な知識なのでしょう。調べればいいではないの」
……正論だった。
分からないことは調べる。必要な物を整理して、値段を比べて、一番無駄のない方法を選ぶ。俺の一人暮らしは、それでだいたい回ってきた。
俺は観念して、検索欄を開いた。
ブラジャー。サイズ。選び方。初めて。
そこまで打った時点で、もう帰りたくなった。自宅にいるのに。
検索結果には、知りたかった情報がきちんと並んでいた。カップとアンダーの違い。正しい測り方。用途に応じた選び方。世の中の親切さが、今日ばかりは恨めしい。
なるほど、測る場所は一つじゃないらしい。似た商品にも役割の違いがある。ふむふむ、と頭の事務的な部分が頷く一方で――
その説明を読んでいる女神さまの顔が、すぐ横にある。
しかも一項目確かめるたびに、これは画面の向こうの誰かの話ではなく、今まさに隣にいる女の子がこれから身につける物の話なのだと、嫌でも意識させられる。
昨日までなら「美の女神が使う衣装」とでも思っておけたかもしれない。
今は無理だ。
この人は、俺の家で風呂に入って、母さんの服を借りて、これから同じ家で暮らす女の子で。
その現実だけが、この距離で隣にある。
俺は説明ページを閉じた。
「まだ途中でしょう」
「無理です」
「何が?」
「あなたは平気でも、俺が平気じゃないんです」
「人間は不便ね」
「女神さまが気にしなさすぎるんです」
「衣服の一種でしょう?」
「そうですけど、ほかの服と同じ感覚では選べません」
女神さまは腑に落ちない様子で、閉じられたページのあった場所を見つめた。
「身体を支え、衣服の形を整えるための物だということは知っているわ」
「そこは知ってるんですね」
「人間界を観察する機会はあったもの。存在と大まかな用途くらいは知っているわ」
「着け方は?」
「身につければいいのでしょう」
「知らないのと同じじゃないですか」
「見れば分かるわ」
「サイズが合ってるかは?」
「……それも見れば分かるのではないの?」
今、一瞬考えたな。
つまり、分かっていない。自分のサイズも、記号の意味も、正しい着け方も。試着と採寸がなぜ必要なのかも、実感がない。
そして俺は、それを補えるほど詳しくない。
知識ゼロと経験ゼロ。この二人で通販を続けるのは、どう考えても遭難コースだった。
「……専門の人に任せましょう」
「専門の人?」
「女性用の下着を売ってる店なら、店員さんが測ってくれるはずです」
「最初から、そこへ行けばよかったではないの」
「できれば行きたくなかったんです。俺が」
下着の項目を閉じて、普通の婦人服の画面に戻る。
それだけで、肺に入る空気の量が目に見えて増えた。
「朝凪駅の近くに、大きなショッピングモールがあります。今日はそこで必要な物を揃えます」
「街へ出るのね」
女神さまの紫色の瞳が、ほんの少しだけ明るくなった。
表情はいつもの澄まし顔のままだ。本人は完璧に隠せているつもりなんだろう。目だけが、正直だった。
「まず私服と靴を買って、その場で着替えます。そのあと、女神さま一人で下着売場へ行ってください」
「ハルは?」
「外で待ちます」
「あなたも来ればいいでしょう」
「嫌です」
「なぜ即答なの?」
「女性用の下着売場に男が入るのは、普通は気まずいんです」
「購入するだけでしょう?」
「そういう問題じゃないんです」
「店員への説明はどうするの?」
「売場の入口までは行きます。『初めて買うのでサイズが分からない』と女性の店員さんに伝えてください。あとは測ってもらって、合う物を選ぶ。俺は外です」
大事なことなので、最後をもう一度言っておく。
「外です」
「そこまで嫌がることかしら」
「そこまで嫌なんです」
俺はメモの裏に手順を書いた。
一、私服と靴を買う。
二、買った服に着替える。
三、女神さまだけで下着売場へ入る。
四、女性店員に採寸してもらう。
五、俺は外で待つ。
「なぜ、先に着替える必要があるの?」
「今着てるのは母さんの服です。そのまま何度も試着してほしくありません」
「傷めるつもりはないわ」
「分かってます。気持ちの問題です。それに、自分の服の方が動きやすいでしょう」
女神さまはしばらくメモを眺めて、やがて頷いた。
「分かったわ。その手順に従いましょう」
男女で売場や着替えの場所を分けること自体は、知識として理解しているらしい。
ただ、そこに気まずさや恥ずかしさがなぜ付いてくるのかが、分からない。
……今朝のあれを思えば、当然か。
俺は余計な記憶が再生される前に立ち上がった。
「出かける準備をします」
部屋着から、いつもの目立たない私服に着替える。財布。鍵。買い物袋。必要品のメモ。
女神さまは、母さんの白いブラウスに淡い青のカーディガン、丈の長いスカート。
服はいい。問題は足元だ。
玄関収納に残っていた母さんの靴から、飾りが少なく歩きやすそうな一足を選ぶ。
「これを履いてみてください」
「これも、あなたの母親の物?」
「新しい靴を買うまでの辛抱です」
女神さまは玄関に腰を下ろし、少し手間取りながら靴に足を入れた。
立ち上がる。一歩。もう一歩。
いつもは床の方が道を空けそうなくらい堂々と歩く人が、妙に慎重だった。
「どうですか」
「歩けないほどではないわ」
「痛くないですか」
「少し窮屈ね」
「別のを探します」
「必要ないわ。この程度なら歩けるもの」
「無理そうだったら言ってください。着いたら靴を先に買いますから」
「心配しすぎよ」
「途中で歩けなくなられる方が困るんです」
「私を誰だと思っているの?」
「人間の靴に慣れていない女神さまです」
冷ややかな目を向けられた。それでも靴を替えようとはしなかったので、次へ進む。
最大の問題は、腰まで伸びた銀髪と、その上に乗っている顔である。
どちらも「目立たない」という単語から、光の速さで遠い。
俺は自分の帽子を持ってきた。
「これをかぶってください」
「嫌よ」
「まだ何も説明してません」
「その帽子を私にかぶせるつもりでしょう」
「そうです」
「なら嫌よ」
「……なんで俺より察しがいいんですか、こういう時だけ」
「なぜ私が顔を隠す必要があるの?」
「目立つからです」
「美しいのだから当然でしょう」
「当然で済まない次元で目立つんです」
「似合わない物を身につけてまで隠れる方が、よほど不自然よ」
……言い返せないことを言う。
実際、帽子ひとつで銀髪が全部隠れるわけでもない。あの顔に視線が集まるのも、変わらないだろう。
「せめて、髪はまとめてください」
「隠すのではなく、整えるだけなら構わないわ」
家にあった飾りのないヘアゴムを渡すと、女神さまは鏡の前で銀髪を低い位置にまとめた。
淡い色のカーディガンと合わせて、印象は多少落ち着いた。
多少、だ。「普通の女の子に紛れた」とは、口が裂けても言えない。
「これ以上は無理ですね」
「最初から必要ないのよ」
「外で女神だと名乗らない約束、覚えてますか」
「覚えているわ」
「誰かに何か聞かれても、必要なことだけ答えてください」
「必要かどうかは、誰が決めるの?」
「今日だけは俺に決めさせてください」
「曖昧な指示ね」
……不安しかない。
そしてこの不安が的中するまで、この後わずか一分である。
◇
戸締まりを確認して、二人で玄関を出る。
エレベーターの扉が開くと、中に見覚えのある女性が乗っていた。同じ階の、たまに挨拶をする人だ。
「あら、晴くん。おはよう」
「おはようございます」
女性の視線が、俺の隣に移った。
そして、止まった。
まとめてなお存在感のある銀髪。借り物とは分からないはずの装い。それから、どうやっても隠しようのない、あの顔。
女性は女神さまを見て、俺を見た。
……目の色が、さっきまでと違う。
「そちらの子は?」
「家族の知り合いです」
それだけ答えた。
親戚。留学生。ホームステイ。もっともらしい説明はいくつか浮かぶ。だが、まだ何も決めていない。ここで嘘を足せば、後で必ず辻褄が合わなくなる。
頼む。それ以上は聞かないでくれ。
心の中で手を合わせた、その直後だった。
「しばらくハルの家で暮らすことになったの」
どうしてこの人は、越えてほしくない線だけを、こうもピンポイントで踏み抜けるんだ。
女性の視線が、女神さまと俺の間を二往復した。
「あら、そうなの」
口元が、実に意味ありげに緩む。
「大変だと思うけど、仲良くね」
「そういう関係じゃありません」
「私、何も言ってないわよ」
最悪だ。
一階に着くまでの数十秒、俺は階数表示の数字だけを一心に見つめた。……偉いのは秒針だけじゃない。数字も余計なことを言わない。
エレベーターを降り、自動ドアを抜けたところで、ようやく女神さまを振り返る。
「勝手に余計なことを言わないでください」
「事実を言っただけでしょう」
「事実でも、言い方があるんです」
「しばらく暮らすことの、どこが問題なの?」
「女神さまみたいな見た目の女の子と俺が二人暮らしと聞いたら、変に受け取る人もいるんです」
「事実と違う受け取り方をする方が悪いのではないの?」
「そうだとしても、毎回説明させられるのは俺なんです」
「なら、正しく説明すればいいでしょう」
「その『正しい説明』をまだ作れないから困ってるんです」
女神さまは、心底理解できないという顔をした。
たぶん、本当に分かっていない。
駅までの最短経路は、人通りの多い大通りだ。
俺はその角を曲がらず、一本裏の住宅街に入った。五分の遠回り。それで見られる人数が減るなら、安いものだ。
四月の空気は、まだ少し冷たい。通りには買い物に出るらしい家族連れや、自転車で駅へ向かう人の姿がある。
そして、そのほとんど全員が、女神さまを見た。
銀髪に目が向く。顔を見る。通り過ぎてから、もう一度振り返る。中には、隣の俺にまで視線を滑らせる人もいた。
――あの子の隣の男、誰?
声には出ていない。出ていないのに、その問いが聞こえる気がする。
誰にも注目されず、誰の記憶にも残らない。
俺はそれを、自分で選んで守ってきた。目立たないのは欠点じゃない。余計なものに巻き込まれず平穏に生きるための、一番賢いやり方だ。そう決めて、磨いてきた。
その技術が、女神さまの隣では、何の役にも立たない。
前から来た二人組が、何かを話して笑った。
俺たちのことじゃないかもしれない。というか、たぶん違う。
それでも、肩が勝手に縮んだ。視線が落ちる。
中学の頃からだ。人の笑い声を、自分と無関係だと思えなくなったのは。
気づいた時には、女神さまから半歩、離れていた。
「ハル」
呼ばれて、顔を上げる。
「歩くのが速いわ」
……慣れない靴のせいで、女神さまの歩幅が小さくなっていた。
俺が視線から逃げようとすれば、その分だけ、この人を置いていくことになる。
視線は怖い。今も怖い。
でも、慣れない靴で知らない街を歩いている人を、置いていくのは。
……それは、できない。
俺は半歩を戻して、歩調を落とした。
「靴、やっぱり合いませんか」
「少し歩きにくいだけよ」
「休みます?」
「必要ないわ」
「急いでないので、ゆっくり行きましょう」
女神さまは答えなかったが、それ以上、無理に歩幅を広げようともしなかった。
その代わり、視線だけが忙しく動いている。
道路標識。信号機。自動販売機。通り過ぎる車。建物の窓。遠くの高架線。
「前を見て歩いてください」
「見ているわ」
「横ばっかり見てます」
「人間は、この狭い範囲にずいぶん多くの物を置くのね」
「急に道路へ出ないでくださいね」
「子ども扱いしないで」
「家電の前科がある人は疑われるんです」
「それとこれとは別よ」
言葉として知っていることと、その中で暮らすことは違う。
女神さまは今日初めて、人間の街を「眺める側」から「歩く側」になった。
標識ひとつ、自販機ひとつを珍しがるその横顔は、悔しいが、少し面白そうだった。
朝凪駅に近づくにつれて、人の数と音が増えていく。
俺の肩にはそのたび力が入り、女神さまの瞳は、逆にどんどん忙しくなった。
◇
そうして俺たちは、朝凪中央地区の大型ショッピングモールに着いた。
広い入口の向こうから、人の話し声と店内放送が混ざって流れてくる。明るい照明の下に、案内表示と色とりどりの商品。
女神さまが、足を止めた。
表情は、いつもの澄まし顔のまま。
けれどその紫色の瞳だけは、初めて見る人間の日常を一つも取りこぼすまいとするように、右へ、左へ、動き続けていた。




