第5話 女神さまの服を選ぶ
一番安全で確実な方法を選んだはずなのに、俺の心拍数は、まだ安全圏に戻ってこない。
その原因は、隣で画面に集中している。
女神さまは、俺が椅子をずらしたことに気づいていなかった。
いや……気づいていないというより、気にしていない。俺が離れた分だけ、画面を追って自然にこちらへ寄ってくる。淡い青のカーディガンの袖が近づき、銀髪の先がその上をさらりと滑った。
これでは、椅子をずらした意味が完全にない。
もう一度逃げようかと考えて、やめた。二回連続は、さすがに気づかれる。
落ち着け。別に変なことをしているわけじゃない。通販で服を選ぶだけだ。
そう、服を選ぶだけ。……なんだが、その「服」の中に何が含まれるのかを、この時の俺はまだ深く考えていなかった。
「まず、必要な物を整理します」
俺は画面の端に目を固定したまま、ノートパソコンの横にメモ用紙を置いた。
「気に入った衣服を選べばいいのでしょう?」
「一着選んで終わり、じゃありません」
普段着。部屋着。寝る時のパジャマ。四月はまだ肌寒い日があるから、羽織る物もいる。靴。靴下。……下着。
順番に書き出していくと、女神さまの眉が少しずつ寄っていった。
「服のほかに、洗面用品とヘアケア用品も要ります」
「髪を洗ったり、整えたりする物ね」
「言葉は知ってるんですね」
「あなたは私を何だと思っているの?」
「知識はあるのに、実際には使ったことがない女神さまです」
「失礼ね」
否定は、しなかった。
「昨日は浴室にあった物を使ったんですよね」
「ええ」
「これからも使うなら、自分に合う物があった方がいいと思います」
女神さまは腰まで伸びた銀髪を一房すくい、毛先に目を落とした。
今朝、その髪を濡らしたまま廊下を歩いてきた人と同一人物とは思えないくらい、点検の目つきだけは職人だった。
「衣服だけでも、ずいぶん種類が多いのね」
「これでも最低限です」
「普段着を、部屋や寝台でも使えばいいでしょう」
「外で着た服のまま寝る気ですか」
「何か問題があるの?」
「汚れますし、寝にくいです」
「なら、神力で清めれば済むわ」
出た。
この人の万能解決札、「神力で何とかする」。
「人前で変な力を使わないでください」
「変な力とは何よ。私の神力よ」
「人間界では、服を綺麗にするたびに銀色の光を出す人はいないんです。誰かに見られたらどうするんですか」
「見られない場所で使えばいいでしょう」
「毎回、周りに誰もいないか確認してから洗濯するんですか。だいたい、今は力も減ってるんですよね」
「衣服を清める程度で尽きはしないわ」
「それでも、この家では洗濯機を使います」
女神さまが不満そうに俺を見る。
ここで譲ったら最後、この人は洗濯のたびに銀色の光で服を清め始める。
予定を立てて洗って、干して、乾いたらしまう。俺が一人でこの家を回してきた、俺のやり方だ。住人が一人増えたからといって、家の仕組みまで得体の知れない力に明け渡すつもりはない。
「一着あればいいのではないの?」
「洗濯している間、何を着るんですか」
「だから、神力で――」
「洗濯機を、使います」
「頑固ね」
「生活に必要な頑固さです」
必要な枚数までメモに書き足すと、女神さまは納得しない顔のまま、それ以上は言い返してこなかった。
「では、これを買いなさい」
白い指が、画面の一着を指した。
白いブラウス。飾りは少なく、形はすっきりしている。確かに、素人目にも綺麗な服だ。
「候補には入れておきます」
「候補?」
「ほかの商品と値段を比べてから決めます」
「私が選んだのだから、それで決まりでしょう」
「予算に収まればです」
商品ページを開く。
値段を確認した俺は、静かに、前の画面へ戻った。
「なぜ戻すの?」
「高いからです」
「先ほどの衣服と、それほど違うようには見えないわ」
「そうですよ。だから、似た形でもっと安いのを探します」
「違うわ」
即座の否定だった。
「こちらの方が、襟から肩へ続く線が整っているでしょう。袖の幅も、全体の均衡を崩していないわ」
「写真でそこまで分かるんですか」
「美の女神よ」
……便利な言葉だ。
俺の目には、片方がもう片方の倍以上する理由までは映らなかった。世界の見え方が、根本から違うんだろう。少しだけ、その目に画面がどう見えているのか、覗いてみたい気もした。
「綺麗なのは分かりました。でも、これを何着も買うのは無理です」
「全部、同じ程度の物を選べばいいでしょう」
「お金が足りません」
「美の女神の衣装を整えるのよ」
「俺の生活費で」
「その言い方では、私が無理に買わせているように聞こえるわね」
「今まさに買わせようとしてます」
女神さまの口元が、わずかに尖った。
……俺だって、全部を最安値で揃える気はない。安かろう悪かろうで買い直すのが一番の無駄だし、実際に着るのは女神さまだ。予算に収まるなら、本人が気に入った物の方がいいに決まっている。
「一着だけなら、少し高くても構いません。その代わり、ほかは値段を抑えます」
「すべて、これと同じ程度では駄目なの?」
「駄目です」
「なぜ?」
「俺たちが食べられなくなるからです」
女神さまは高い方のブラウスと俺を見比べて、ようやく黙った。
――俺たち。
自分で言っておいて、少し引っかかった。いつから財布まで運命共同体になったんだ。
候補を保存して、次の商品へ。
最初のうち、女神さまは画面に並ぶ服を「どれも似たような布でしょう」と評していた。
その余裕は、十着も見ないうちに消えた。
「これは駄目ね」
「どこがですか」
「胸元の文字が大きすぎるわ。何を示しているの?」
「服のデザインです」
「自分の名でも神職でもない文字を、身体の中央に掲げる意味がある?」
「……そう言われると、俺にも分かりませんけど」
大きなロゴ入りは、却下。
派手な赤や黄色も、ほぼ一目で落選。
フリルの多いブラウスには、画面を見た瞬間に眉を寄せた。
「幼神へ着せる衣装のようね」
「こっちは部屋着ですけど」
小さな動物柄を表示すると、紫色の瞳が急速に温度を失った。
「私は何歳に見えているの?」
「候補を見せただけです」
「外しなさい」
「はい」
拒否だけは、いっそ気持ちいいほど早い。
逆に、白や銀、水色、淡い紫の服では、画面を先へ進めさせてもらえなかった。装飾が少なく、線の通ったもの。身体の形を必要以上に強調しない、清潔に見えるもの。
露出の多い服に興味を示さなかったのは、正直、意外だった。
「これは嫌なんですか」
「布が少なすぎるわ」
「今朝、何も着ないで出てきた人がそれを言います?」
「それと衣服の完成度は別の話でしょう」
一ミリも動じなかった。
「身につけるのであれば、美しく整っていなければ意味がないわ」
「基準がよく分かりません」
「ハルに理解できなくても、私には分かるもの」
仰々しい飾りのついた服も避けた。
「これは人間の普段着にしては、衣服の方が目立ちすぎるわね」
「女神さまの元の服も、大概目立ってましたよ」
「あれは私の神格に合わせた礼装よ。これは着る者より、衣服の方が前に出ようとしているでしょう」
美の女神らしい審美眼なのか、単に好みがうるさいだけなのか。
たぶん、両方だ。
「こちらの方が線が美しいわ」
また少し高い商品を指される。
「こっちは安いです」
「安価であることと、美しいことは同じではないわ」
「高ければ何でも綺麗ってわけでもないでしょう」
「当然よ。だから私が選んでいるの」
「支払うのは俺です」
「なら、あなたは金額を見なさい。私は美しさを見るわ」
「役割分担みたいに言わないでください」
……結局、その役割分担に落ち着いた。手頃な価格を中心に、女神さまが特に気に入った物だけ、少し予算を広げる。
悔しいことに、あの審美眼で選ばれた候補は、素人の俺が見ても外れがなさそうだった。
候補を保存し、次へ。そのたびに、女神さまが画面へ顔を近づける。
俺も値段と商品説明を見るために、少し身を乗り出す。
気づけば、また肩が触れそうな距離になっていた。
ふわりと、シャンプーの匂いがした。
うちの浴室にある、いつものシャンプーだ。俺が使っているのと同じ、何の変哲もない匂い。
ただそれだけの、はずなのに。
同じ匂いが、隣にいるのが女神さまだというだけで、まったく別のものに変換されて届く。心臓に悪い。俺はこれから毎日、風呂のたびにこの匂いと再会するのか。
俺は椅子を少し横へずらした。
女神さまが、画面を追って同じ分だけ寄ってくる。
もう一度ずらす。
またついてくる。
三度目。椅子の脚が、テーブルの端に当たった。
……詰んだ。
「先ほどから、なぜ逃げるの?」
「逃げてません。近いだけです」
「同じ画面を見るのだから、近くなるのは当然でしょう」
「もう少し離れても見えます」
「文字が小さいのよ」
「拡大しますから」
「そのままで見えるのだから、必要ないわ」
正論の皮を被った圧が強い。
……女神さまにとって、人と人との距離には、人間ほどの意味がないんだろう。今朝のあれを思えば、それは分かる。
俺を異性として意識して寄っているわけじゃない。ただ、画面が見やすい位置に座っているだけ。
つまり、勝手に意識しているのは、俺一人。
分かっている。
分かっているから、これ以上「近い近い」と騒ぎ続ける方が、よほど恥ずかしいのだった。
俺は椅子との攻防を放棄して、視線を画面に縫い付けた。
「次はサイズです」
商品ページの表には、記号と数字がずらりと並んでいる。
「ここから、自分に合う大きさを選びます」
「見れば分かるのではないの?」
「写真だけじゃ分かりません。同じに見えても、商品ごとに寸法が違うんです」
「面倒ね」
「合わない服を買って着られない方が面倒です」
裁縫箱からメジャーを持ってくる。
女神さまは、自分の身体を人間の単位で測ったことがないらしい。寸法表の数字を眺めても、どれが自分に当たるのか分からないという。
「必要な場所を測って、表と見比べます」
「なら、測りなさい」
あまりにも自然に言われて、俺はメジャーを持ったまま固まった。
「……誰がですか」
「ハル」
短い返事だった。
俺が女神さまの前に立って、メジャーを身体に回す。
――そこまで想像した瞬間、今朝の残像が付属品みたいに一緒に出てきかけた。
全力で頭から追い出す。
「無理です」
「なぜ?」
「なぜでもです」
「私が構わないと言っているのよ」
「俺が構います」
今朝と同じ押し問答だった。
本人に抵抗がなくても、俺まで平然と測れるわけがない。それに「相手が気にしないなら何をしてもいい」という話でも、絶対にない。
「では、自分で測ればいいのね」
「できますか」
「数字を読むだけでしょう」
「メジャーを当てる位置とか、締めすぎないとか、コツがいろいろあると思います」
「あなたが説明しなさい」
「俺も詳しくありません」
「役に立たないわね」
「女性服の採寸に詳しい男子高校生の方が珍しいです」
結局、正確な採寸はいったん諦めた。
今着ている母さんの服のタグを確認する。女神さまの方が少し背は高いが、幅は大きくは外れていない。商品ごとの寸法表と見比べて、余裕のある形からおおまかな候補を絞る。
普段着と部屋着なら、これで何とかなるはずだ。靴は、また別の確認がいる。
そして――一番の難関が、メモの最後に残っていた。
「……次、これか」
書いた自分の字を見て、指が止まる。
後回しにしたところで、この項目が消えてなくなるわけではない。むしろ、最優先で必要な物ですらある。
俺は覚悟を決めて、通販サイトの下着の項目を開いた。
画面いっぱいに、色とりどりの女性用下着が並ぶ。
マウスを握った指が、そのまま完全に動かなくなった。
隣の女神さまは、何のためらいもなく画面を見ている。
「これが、人間の女性が身につける下着ね」
「知ってはいるんですね」
「存在は知っているわ。身につけたことはないけれど」
俺は無言で、画面を閉じようとした。




